【大峰山女人禁制問題】vol.196《
日々雑感より》
◆奈良県南部天川村の洞川(どろがわ)温泉旅館・花屋徳兵衛に泊まってきた。風呂も料理も部屋もよかったが、宿屋の気遣いと名水豆腐がまた格別だった。界隈の旅館は、役の行者にはじまる大峰山信仰で山をめざす行者さんたちばかりで、宿では賑やかな普通のおじさんだったが、山伏スタイルになると独特の雰囲気を醸し出していた。女人禁制についてまで話する機会はなかったが、昨夜旅館近くで鹿肉をあてに一杯ひっかけているとき、「山で女性のありがたみを感じるためにのぼるんだから女人禁制でないと意味がない」などと自説(?)を披露しているおじさんの団体に出くわす。これまでも「女性のための女人禁制」論を耳にしたことがあるが、人手不足の林業仕事に女性を実際につかっているのはかまわないということなのだろうか。昨夜の団体の別のおじさんは日本の仏教史の珍説を披露していたが、血のケガレむ含め、身勝手な歴史認識が不当な「伝統」を支えていることに切り込む必要があると思う。今朝くぐってみた「女人結界」門は、そうした意識がつくりあげた悪しき幻想だと感じたkurochanである。(508、04/5/16)
◆大峰山女人禁制に関しては、さまざまな見解があり、広く社会的合意を得た考え方がまだないように思います。実際、5月の始めに、女人結界介門のある洞川で山伏さんたちの雑談をあれこれ聞いていても、土産物屋などの親父なんかが客に言っている説明に耳をそばだてみても、罪を感じさせない一見モットモラシイ説明が多々あります。
しかし、僕はどうもすっきりしません。明確に「女性はケガレているから入山させるな」と意識しているひとは殆どいないのでしょう。「伝統・しきたり」を守らねば何かが崩れてしまうという意識なのでしょう。でも、血穢や血盆経などの歴史をすこしでもひもとけば、「蔑視観を伴う排外意識」に由来することは明らかです。それに対してうるさく言わないのは、当事者にすれば明確なケガレ意識などなく「しきたり」を守っているにすぎない結婚にまつわる部落差別を許すことに等しいのではないでしょうか。宝塚歌劇は女だけではないか、等という批判を時々耳にしますが、ご紹介いただいた沖縄の諸例なども含め、男性に対する「蔑視観を伴う排外意識」も、同様の由来もないのでしょう。もしそんな側面があるのなら、馴れ親しんだ伝統であっても、改めていくべきだと思います。また、女性蔑視の裏返しで、表向きは女性に特権を与えて来たのなら当然批判されるべきですし、「荊冠をなげかえすべく」それを逆手にとった解放運動をめざしてほしいのですがね。いわゆる「解放令」と前後して、欧米の目を気にした明治政府は女人禁制をとりやめるよう政令をだしました。それまでは全国各地の山・神社・寺院に女人禁制があふれていたようです。女性が富士山に登ることが許されたのもその後のことです。当の大峰山信仰の教団内部にも開放を主張する寺などもあるようです。岡山の後山・奈良の大峰山だけに残された女性の入山拒否は、撤廃にすべきだろうと僕は思います。昔に比べ、禁止区域も狭くなりましたし、人手不足の林業の作業ではすでに女性達が大勢働いているようです。さまざまな側面からも、女人禁制は無理があるし、守るべき伝統とは思えないのですが、どうでしょうか?
(eatyhiroさんへの掲示板レス、04/6/8)[→5月目次]
※vol. 6◆日本相撲協会が「女人禁制」解除を検討
【「北朝鮮」に関する出版社への抗議〜続報】vol.195《
日々雑感より》
◆昨年暮れ、高校生用副教材「現代社会」見本本の記述に関し、清水書院編集部へ記述変更の申し入れをしたが(時の話題vol.166参照)、昨日現任校にも届いた完成版ではかなり修正され、ましにはなっていた。見本本では北朝鮮を「ちょっとこわい」などと括っていたのが、完成版では「マスゲームのイメージしかないけど、もっといろんなことが分かればいいね」という具合に修正されている。「信頼関係を築くための交流」を明確に表現してほしかったのたが、これでは悪意の暴露要求のニュアンスも感じられなくもない。また、なぜ知らされてこなかったのかについての日本側の思惑に関しても解明する動機づけを表現してほしかったのだが、あの短いコラムでは限界だったのかとも思う。でも、せめて「日本との関係についても、もっといろいろと振り返って考えなきゃね」ぐらいのセリフは挿んでほしかった。(507、04/5/11)[→5月目次]