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[No.60]筒形茶碗「芽吹き」 価格 ●5000 円(箱なし送料別) '08. 6. 2 up
( 8.5 x 9.0 cm )
身分の低い者が高価な器を使うのはご法度の禁止令も出ていたとか。しかし、庶民はしたたかです。そして考え出されたのがこの高台の
切り込みですと、どこかで読んだ気がしました。
確かにこれは傷物です。こんな欠けた茶碗を高貴な方がお使いになるわけがありません。せめて庶民はその欠片でもいいですから
おすそ分けに使わせていただきます。
シブシブお役人も舌打ちして哀れな貧乏庶民に失敗した作品のみ使うことを許可したとか・・・。
大いなる文化人(茶人)はいち早くこの切れ込みの美しさを発見し、そこに目を奪われる事になったのでありました。
当時、豪華絢爛を誇る茶の湯の文化は、やがて庶民をも巻き込んだ「侘び、寂び」の世界として下級武士の武士道とあいまって精神的な美しさへと
雪崩現象的に傾いていったのであります。
こうなると切れ込みはその大きさ、角度、二等辺、直角など器の形態に合わせて極限の美を求めるようにもなりました。
果てしない庶民の持つ美意識の高さを庶民の一人として誇らしく感じ入らない訳には行きません。
次回の更新は 7月1日です
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[No.59]井戸形茶碗「羊」 価格 ●5000 円(箱なし送料別) '08. 5. 1 up
( 13.0 x 7.0 cm )
茶器などの展示では圧倒的に前回ご紹介した椀形が抹茶茶碗として人気が在るようです。
しかし私はこの井戸形やこれから夏に向かって更に薄い朝顔を広げたような平茶碗も好きな形のうちの一つです。
この井戸形と言うのは見た目通り上に向かって広がっています。ですからお茶に限らず、お茶漬けなど食べようとすると意外と沢山入り
「腹いっぱい」と言う事があります。
程ほどの容量に意義があり、ものをよそう時の美しさが求められるからです。
それは西洋料理にも見られる盛り付けの美しさを極めようとするときスープにしてもカップではなく皿にする意義が
そこにあるような気がします。
ましてや「茶」、泡立ち鮮やかな緑が渋い器に映えるとき、初夏の茶人はこの井戸茶碗に涼を託し、美しさを感じるのです。
次回の更新は 6月2日です
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[No.58]「椀型抹茶々碗」 価格 ● 5000 円(箱なし送料別) '08. 4. 1 up
( 11 x 7.5 cm )
久しぶりに抹茶茶わんに挑戦しました。
昔々、元々抹茶茶碗というものは存在しませんでした。日常に飯を盛ったり汁を盛ったりする為の器のなかからお茶を飲む時自然発生的に
選ばれて使いはじめました。
そのうちに、ある傾向が尊ばれるようになり侘び、寂びなどの精神的要素を端的に表現した器が好まれるようになりました。
立派な窯で焼かれていた器も「楽焼」のように粗末な、低火度(750〜850度)の窯で焼くことにより壊れやすくみすぼらしい
器を好む傾向もありました。「生あるものはいずれ滅びる」器もそのうち土に変える・・と言う気持ちが武士道と共鳴しあって
一つの文化の流れを形作ったと考えられます。
楽焼で成型される器のほとんどは手捻りで造られます。当然いびつであり、ともするとギッタンバッタンするようなこともあります。
そういった中にもある種の美しさを求めたことは言うまでもありません。
ある人はかなり遜って「背水の陣内閣・・」と申しましたが、茶道の世界では器の形をしてお茶が入れば良かった・・では済まされない
研ぎ澄まされた境地をそこに見いだしてきた訳であります。
いま、轆轤と言う成型機を使って左右均等な器がたやすく仕上がるとき、あえて歪にしようとすると作為が生まれいやみに
見えてしまいます。
では、どうやって茶の湯に求められる精神性を器の立場から引き継いでいく事が出来るのか・・・
答えにする言葉の切れ端も見つかりません。イエ、言葉での表現もしたくありません。
次回の更新は 5月1日です
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[No.57]「蔦紋茶器」 価格 ●一組3000 円(送料別) '08. 3. 1 up
( 8.5 x 6.5 cm ), ( 7.5 x 5.5 cm)
このコーナーでも時々触れますが青春時代、文京区駒込林町の下宿屋、襖一枚隔てた隣の住人”小林千年”さんからお手紙をいただきました。
「青春切符」にも時々登場する人物「古村万歳」少年、それが小林千年さんです。
宮城県山奥、加美郡、加美町、切込で陶芸一筋に打ち込んでいます。切込は江戸時代、切込め焼きの名で地方の陶場としての地位はありました。
しかし、明治になり山奥の産地は物流の流れに残され、それと同時に新しもの志向の町の人に忘れられ、山も存在価値を失い廃れてしまいました。
そこに乗り込んで孤軍奮闘し、この地を再び「切込め焼き・陶芸の郷」として若手陶芸家の窯元も集まって今では町を代表する観光事業に発展貢献しました。そして
立派な道路も整備され、大型観光バスで繰り出す観光客でごった返すほどの町になってしまいました。
もっとも彼は「観光・・」など屁でも無い。さっさと自分の窯を更に静かな山奥に設置し陶芸に明け暮れています。そんな彼からの手紙です。
「かなわない!と思いました。
職業陶工ではつくれない作品の数々、面白く拝見しました。絵付けも自由にして奔放、見ていてすこしも疲れません。上手につくろうとしないことが
おおらかなかたちになってゆくのかなと思えました。
いい窯が出来ましたね。写真で見る限り特別な問題はないように思えます。仕上がった作品もきちんと焼けていると思います。幸三郎さんは”陶芸を楽しんでいる!”と
伝わってきます。七輪で魚を焼いている光景には感動しました。陶器製造法の究極、芯までじっくり時間をかけて、煙でつつみながらー。参りました。」
短い手紙の行間には、「その楽しさ、奥の深さを一緒に求めて行きましょう・・」と、素人の私に対する優しい心遣いも伝わってきます。
陶芸の世界、とくに伝統を受け継いでいる陶場ではカタチもですが、その紋様には祖先から受け継がれた独特の象徴や筆跡にもこだわりがあります。
小林千年さんは数十年の歳月の中で、自分には無い虚像の伝統技法を探し続け、その重みの持つ確かさを充分に知り尽くされていると思います。
私の陶芸作品にはしばしば「蔦」をデザイン化したものが登場します。建て替える以前の我が家はこの「蔦」で覆われていました。
朝な夕なに眺めていた「蔦」はその姿はなくなりましたが私の脳裏にはまだ蔓延って(はびこって)その手を伸ばそうとしています。
恐らく、伝統的紋様と言うものが存在するとすれば、そう言った日常的なスケッチが洗練淘汰され伝統的紋様に発展していくのではないでしょうか。
次回の更新は 4月1日です
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[No.56]「お刺身セット」 価格 ● '08. 2. 1 up
(約 37 x 21 cm ), (直径 14 cm ), ( 10 x 7 cm)
たまに陶芸の展示品コーナーなど覗き込んでみることがあります。
高名な作家さんの器などの奥の深さに感心したり、何か盗み取るような技法は無いものかと食い入るように見つめます。
その後ろに、「どうじゃ・・!」真似が出来るんだったらやってみなよ・・・。と言わんばかりに陶板が立て掛けてあります。
一見粗雑に、しかし、そう見せかけた上でキッチリと扱う土の特性を見極めた焼きの技法を見せられることがあります。
恐らくこの作家さんはこの陶板を作ることにより多くの実験と可能性をこの中に託していると見て取れます。
そもそも陶板なんて、飾り物にする以外のなんの用途も無いわけであります。しかも、見てくれが気色悪ければそっと土の中に埋め戻すしかないわけですから。
イエ、イエ、後で弟子達に掘り起こされては堪りません。土に埋める前に粉々に割っておくことは忘れません。
えっと、高名な作家でなくて良かった・・・。と、申しておりますのはこの四角い陶板です。
全部で5枚作陶に挑戦して最後に残った、たった1枚です。2枚は乾燥時に脱落、もう2枚は本焼き焼成中に脱落、これも用途が無ければ土の中行きになる所を
低名?な作家の為、命拾いして「刺身の盛り付け皿」と命名されて活路を得ることが出来ました。
これに盛り付けたスルメイカのお刺身なんかは、その透き通った身が美味しさをいっそう引き立ててくれるはずです。(一応の弁明)
作陶段階で45cmX 27cm で作ったものでしたが、2割の減少と言うのは厳しいものもあります。
銘々皿は10枚、チョコ皿も10枚のおそろいであります。我が家に呑みに来られた方はこの皿に盛り付けられた酒のサカナ・・覚悟願います。
次回の更新は 3月1日です
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[No.55]「お燗ピッチャー」 価格 ● 各組2000 円(送料別) '08. 1. 1 up
(約 H 13 x D 13 cm )
新年あけましておめでとうございます。
新年早々御酒にまつわる考察・・?で申し訳ございません。
永い間御酒に親しみ、楽しい人生を共にし、深い悲しみも共有して来てくれたお酒です。
青年、成人、壮年と人生を重ねてきますと次に待っている呼び名は”老人”となります。私は今や、その真っ盛りに突入してまいりました。
あれほどに浴びるほど呑んでいたお酒も、年とともにその量を減らし、体力とも照らし合わせて「嗜む」方向に変わってまいりました。
私の話では決してありませんが、ある老人が主治医に訪ねたとか・・「近頃お酒がめっぽう弱くなりまして、何処か体の具合でも悪いのではないかと・・」
私はスポーツをしていますので、運動能力の減衰については「先生、体のどこかが悪いんでしょうか?」などとバカげた質問は決していたしません。
スポーツもお酒も、諸々永くかけた人生の中で己を知り、楽しみの範囲を知りそして味わって楽しむことがわかってくると、ことさらに旨さも深まってきます。
老人のスポーツはファッションを主体に考えてもそれなりの「楽しみ」としての道は極めることも出来ると考えます。
そんな意味で今の私の歩む「酒道」は酒豪の道ではなく、香り、斬れ、コク、含み、浸み・・・と、奥深い深遠な世界に足を踏み入れようとしているのです。
その為の道具として、その道を探求しようとすれば之もまた果てしなく遠く深くと、私を誘惑するのであります。
コップで冷酒を煽ったのは果てしなく若いころでした。しかし、お酒ほどその温度による味わいの変化を楽しめるものはありません。
温めると、酔いも早く量もそれ程は捗りません。ご自分でお燗をしその神秘の世界を紐解いてはいかがでしょうか。
直接、火にかけても大丈夫な耐熱製です。それはお燗テストでも実証済みです。
次回の更新は 2月1日です
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[No.54]「どんぶり」 価格 ● '07. 12. 1 up
(約 H 7.5 x D 17 cm )
若い頃は人参も牛蒡、大根、芋、などそれほど旨いと思って食べることはありませんでした。しかし、寒くなってくるに従ってこれらを一つ鍋にぶっこんでけんちん汁。
熱々をフウフウ言いながら食べると「この味はコンビニ食しか食べない人達にはわかんねーだろーな!」と自慢したくなります。
エッ?!、最近はコンビニでも旨いけんちん汁が売っているって?、何でもアリですね。
冬のあるとき栃木県の益子を訪れた時のことです。窯元を何軒か尋ねながら土造りを手伝わせてもらう体験をしたことがありました。
中々門外漢に其処の場所に入れてもらうことさえ出来ませんのを頼み込んで手伝った・・(盗み見た)と言うところでしょう。
昼食から戻ってきた窯元は「あれ?、まだ居たんけ?」と怪訝そうな顔で私の作業台まで来て素っ頓狂な声を上げました。
私が居たことなぞすっかり忘れていたようでした。
私は言いつけられた土練りを一生懸命に反復、練習していました。渡された土の塊は大人の頭二つ分はあろうかと言う大きさとの格闘中でした。
窯元は私の土を一目見て、「おい、若けーの!、一日や二日くれーで出来るようにはなれねえッペ」
けっこう自分では良く出来たと思っていましたが、一蹴されてしまいました。「腹、へってねーか?、ナニカ食わしてやっか?」
「おーい、母ちゃんヤ、うどん、まだ残ってるっけ?」「なに、ダンゴなら有るっぺ?」
けんちんうどん、ではなく「けんちんダンゴ」でした。囲炉裏のふちに座って食べさせてもらったあの味、包み込むどんぶりの感触、幾つになっても忘れられません。
そして・・・窯元の益子焼の素朴さ、このけんちんダンゴを盛り付ける為に造られたような器、そんな器をわたしも作りつづけて行きたいものです。
次回の更新は 1月1日です
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[No.53]「今年のぐい呑み」 価格 ● '07. 11. 1 up
(約 H 4.5 x D 7 cm )
11月も半ば過ぎますと私もスキージャーナル社が命名してくれたように「Ski-Bum 」の生活が主体になります。
ですから後、年内、窯に火を入れることが1回有るか無しかでしょう。
それにしても今年はかなりの数の「ぐい呑み」を作りました。
それはそれで勉強になることもかなりあります。先ず土の選定です、そして選ばれた土の配合割合をどうするか、釉薬と焼成雰囲気による効果はどうか。
実は、こう言った小物を扱う時に一番取り入れてみたい実験の多くが存在するのです。そしてやればやるほど疑問の輪が広がり、組み合わせの対象が大きくなります。
効果と疑問は丹念にノートに記述し、そして落ち着いた時に器に酒を注ぎながらその出来栄えを吟味するのです。
その時にノートを開くと、疑問・・・の先にいくつかの選択肢が思い浮かび、まだ解決もされないのに一人、ニタニタと薄ら笑いを浮かべるのです。
陶芸の楽しさというのは言うまでも無く構想を練る、そして各工程を実際にやってみる、それから使って試してみる。これがすべて一人でやれることが出来ると言う事です。
Plan Do Check、P D C サイクルという言葉を耳にしたことはありませんか。今はどこの企業でも取り入れているマネジメントシステムの根幹の考え方です。
酒をついで Check することにより次はどんな Plan にしよう・・、そのためにはこんな方法の Do を取り入れてみよう。その結果は以前より良くなるし、
より高い次元の Plan を立てる事も視野の中に入ってくるのです。
しかし、そういった考えをマスターズの競技に反映してはいけません。身の程知らずになります。でも陶芸には思いっきり取り入れても問題はありませんし、年寄りの
挑戦したい気持ちをどこまでも受け入れてくれるのが陶芸です。そしてそれが「陶芸の楽しさ」ではないでしょうか。
次回の更新は12月1日です
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[No.52]花器「竹葉散敷」 価格 ●3000 円(送料別) '07. 10. 1 up
(H23 x D12 cm )
「あんた、銘の付け方が大袈裟ではナイデスカ?」と言ってくれる方が居ました。ありがたいことです。
謹んでお言葉を尊重しつつ・・秘かに無視してなおもこだわって「銘」をも創作して参りたいと思っています。
既にご存知のように、絵であれ陶芸であれ、私はそれぞれに一生懸命に取り組んでいます。
出来の悪い子供であったとしても「立派な名前を付けてあげたい・・」その”立派”と言うのは必ずしも葛飾北斎とかパブロピカソという名前では有りません。
今日の「花器」成形の時には未だ銘はありません。素焼きが終り、イザ!下絵・・の段階で頭の中にはあらゆる情景が思い描きだされます。
自分の子供に名前をつけるときにはおよそ世界の森羅万象、自分の果たしえなかった夢までも子供の名前に未来を託します。
陶芸作品の命名について、私の場合殆んどが絵付けの段階で決まります。食器とか、いわゆる雑器に銘を付す事は有りませんが壷、花器などはその対象です。
既にフォルム・大きさ・手に持った質感・・などから、真っ白なキャンバスに向かう画家の気持ちで素焼きに向かいます。
実は絵の題名も当然のことですがキャンバスに向かう前に決まっています。その題名(思うところ・・)に向かってひたすら表現の道を切り開くのです。
あらゆる情景(身近な出来事で観察したこと)の中から、こんなことが絵柄にならないかな・・・?
「作品と銘がしっくりしない・・」たしかに仰せの通りかも知れません。切磋琢磨、昨日今日からそんなにシックリした命名が出来ることは期待しません。
何時の日にか「作品も素晴らしいが・・銘も・・ムッフフ・・」となりたいものです。
次回の更新は11月1日です
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[No.51]「つぼ「猪」」 価格 ●3000 円(送料別) '07. 9. 1 up
(H17 x D14 cm )
私のようなちょこざいが言うようなことでは在りませんが、あえて一言、言っておきたい事がありました。
絵画と違って、陶芸は私の意識の中では工芸品、多少は用の足しになり且つその用を超えた美しさと技法の披瀝が感じられる・・・と。
しかし、絵画はと言うと生活用品の中において何の用もなさなく、タダ単にそこにあると言うだけで見る人の精神性に訴える価値しかありません。
もっとも私の絵画は、ごく身近な方が時たま尋ねてきたときに見て「私自身の代弁者」として官房長官を務めているに過ぎません。
そう言った事を承知の上で絵画と陶芸の二束のわらじを履きつつ思うことがある訳であります。
前回、「取っ手」についての多少のウンチクを述べましたが、実は私が陶芸をする基本的な考えはつまり、その「取っ手」にあると思います。
出来れば「陶芸」と言う作業においても「私の代弁者」、副官房長官を務めてもらうわけには行かないものでしょうか。
早い話、工芸・・の概念にとらわれない、私の代弁者であってくれればそれで良し。翻れば用の足しにならなくても結構。
世の話の中で究極の道楽は「陶芸」・・だ。などと耳にすることもあります。あえて否定はしません。
所詮絵画も陶芸も「生あるものは滅びる」人の世、人生を1とした時、絵画の一生は10、陶器の世は100くらいでしょうか。
いずれにしても、天体大河の歴史の中に存在するわたしの「つぼ」であっても瞬時の光を発する星屑のごときであってほしい・・と。
今夜は少し晩酌の量が多かったきらいがありました。
次回の更新は10月1日です
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