Vol.001
「画家への道」チョットたいそうなタイトルのお部屋へようこそ。
そんな夢の楽園がこの世の中にある訳がありません。でも、青春・・って奴は
「楽園があって欲しい。そして一途に信じて進む」そんな青春が私にはありました。
若者でにぎわう海水浴場のズーッと先。人がまばらな松林の中に写生を楽しんでいる人。
そんな人を見かけたら”画家の幸三郎”です。(ご希望の方にはお譲り致します)

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このページはNo.121〜124 を掲載しています。なお、以前の作品検索はこちらからどうぞ

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幸三郎・古希

No124  「幸三郎・古希」  '12. 5. 1 up 価格 

          (38 x 45.5 cm)
4月下旬、わたしはとうとう70歳の大台を迎えました。市役所からは高齢者用の保険証も届きました、その他では市営のスポーツ施設は以前から無料で使用できますし嬉しさの半面 もう先が無いんだな・・という自覚も目覚めます。

記念と言っては何ですが久しぶりにじっくり自画像でも描いてみようか・・・と言う気になりました。3月1日から描き始めましたので2カ月の間鏡の中の虚像とじっくりと対話してきました。

とかく男って奴は自分の顔をそうじっくりと観察することはありません。大体生存に必要なパーツが揃って機能してさえすればそれで満足してしまいます、つまり実用主義ですか。

でもそういった考えは自分の顔に対するあきらめが定着してから自然に身についてきた感じがします。ざっと自画像の遍歴をたどって見ます。(それぞれの画像からは”X”では無く”戻るボタン”で戻ってください。


画学生の頃、今思うと22歳という年頃の頃は何にでも突っかかって自分を通そうとあがいていた気がした。

28歳の頃は自分の希望をこのまま突き進んでも良いんだろうか・・・絵の才能にも少し不安を感じ始めました。

結婚し、絵を描くことは趣味として続けて行こうとしましたが33歳子供の誕生、勤め先の仕事の負荷、そして長年の不摂生がたたって遂に 十二指腸潰瘍と胃の三分の二を切除する手術をしました。

このままではいけない先ず健康的な生活をすることが第一、青白い顔の私は神経に触る絵の制作から少し離れようと40歳の頃からスポーツに 力を入れて生活するようになりました。

身体も丈夫になり仕事も脂が乗って過酷なことにも精力的に取り組めるようになりました。50歳の時二十日石アルペンスキークラブの門をたたき競技スキー に首を突っ込み始めました。


もう暫くは自分の顔を見たくもありません、いつかその後10年もしたらもう少し聖人らしく好々爺な顔つきになっていてくれることを祈りながら・・・。

なお、この頁に登場する6作品はNEXTボタンのクリックで見られてもおもしろいかと・・・

次回の更新は 6月 1日です


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湖畔の街

No123  「湖畔の街」  '12. 4. 1 up 価格 80、000 円(額縁付き送料込み)

          (38 x 45.5 cm)
鮭が遥か洋上で育った後遠大な旅の果てに生まれ故郷の河川にたどり着き遡上して子孫を残しその一生を終る・・・。果てしなく脈々と受け継がれる生命の継承と私たち生き物に授かる不思議な 能力の片隅に「帰巣本能」みたいなものがあるらしい・・。

そう思うと私も近年盛んに生まれ故郷の作品が多くなったと感じなくはない・・・人生の末路か・・?なんて。

私たち人類には相当高度な感情によってそれら故郷を懐かしむという特典が与えられています。それを歌や詩に託して美しい表現でむしろその哀惜を楽しむ方向を見つけ出しています。

しかしその特典に頼りすぎる場合に置いて精神状態の不都合を認めることができると言われます。若くしてホームシックとと言う名のいわゆる懐郷病であって未来の希望を閉ざし現実からの 逃避に故郷を想うことなのでしょう。


そう考えると私の懐郷思想はむしろ健全であり人間としての情操もいわゆる安定型であり日常の生活に置いて常識的な社会生活が可能と自己判断することができそうです。

こうして山の高台から自分の故郷を眺めるといろんな想いが湧いてきます。

眼下の諏訪湖はわたしの子供のころから親しみ、スケートやボート遊びなどを通じ自身の冒険の場でもありました。

そしてこの街にはいまだ母も住み自分なりの生活をしています、そして年に何度か酒を酌み交わし親交を深めてくれる幼なじみ達も慎ましやかに暮らしています。

そう言う事を想いながら描く故郷の風景と言うのはまた格別な思い入れが湧いてくるものです。

次回の更新は 5月 1日です


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横浜開港記念館

No122  「横浜開港記念館」  '12. 3. 1 up 価格100、000 円(額縁付き送料込み)

          (46 x 53 cm)
月日の経つのは早いものです。私がまだ画学生の頃絵のモチーフとして横浜を慕い通いつめたのは半世紀も前のことでした。ようやく山下公園が整備 され始めましたが港のそれぞれの埠頭は一般人が立ち入れるほど安全ではありませんでした。

しかし日本郵船の客船として建造されるも戦時下では病院船として戦役を果たしてきた“氷川丸”がその公園に係留されることになりました。そしてシンボリックなマリンタワーの完成と共に市民と港を 親しみのある場に引き寄せた功績は大きなものであったと思います。(港の見える丘公園からマリンタワーと氷川丸を望む1962)

そう言えば横浜は間もなく開港150周年を迎えますがその半ば以前、50周年を記念して建てられたのがこの絵の題材になった”横浜市開港記念会館”と言うわけです。ですからこの建物も完成 から間もなく100年を迎えると言います。


関内駅から横浜スタジアムのわきを抜けみなと大通りを10分ほど歩くとその建物はありました。あちらこちらからと絵を描くアングルを探したところ気に入った場所は何と横浜地方裁判所正面玄関前 なのです。多くの問題を抱えた人たちの車が激しく出入りする場所なのです。

いかめしそうな門番の守衛さんもよくよく見ると同年輩の優しそうなオジサンじゃないですか。「そう、その辺だったら大丈夫ですよ・・」って、わたし同様、はなしの判るお方の許しを得て陣取りました。

途中で昼食時間になりましたがその間中、門番さんが見張っていてくれたおかげで安心してその場を離れて洋食屋さんでゆっくりしてきました。

久しぶりの横浜、少し足を延ばして昔は行けなかった倉庫街に向かいます。今ではすっかり市民の憩いの場、わたしも思わず芝生で寝っ転がって くつろいできました。

次回の更新は 4月 1日です


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外房の漁港

No121  「外房の漁港」  '12. 2. 1 up 価格 80、000 円(額縁付き送料込み)

          (45.5 x 38 cm)
No.118でご紹介した同じ港です。山もそうですが海辺の風景もその時々の天候や遭遇する気持ちの変化が作品にも大きく影響されます。

昨日までの穏やかな晴天の日には空を飛ぶトンビもゆっくりと和やかな円を描いてのどかさをいっそう強調してくれます。

一転、今朝は雲の流れも速く恐らく午後から天気も崩れるんではないでしょうか・・・、昨日のトンビも今日はせわしなく向きを変え餌となる魚影に目を凝らしている事でしょう。

そんな気配を察して舟だまりの漁船もなんとなくその表情を険しいリズムの中に置かされている様にも感じるのです。


小さな漁港です、二日もここで絵を描いていればすっかり漁村の住民みたいです。話しかけてくる人、かたわらで網の修繕をしている人、皆私と同世代の気安さで接してくれるのです。

そろそろ房総半島は花の季節を迎え観光客でにぎわう事でしょう。しかし観光バスはここまでは入ってきません、フラワーセンターやいけす料理などの食事センターのにぎわいはこことは無縁です。

トンビが急降下しました、イワシの群れがサバに追われて海面に近づいたんでしょうか。

次回の更新は 3月 1日です


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