Vol.001

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「画家への道」ページにジャンプこのページはNo.71〜80 を掲載しています

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あやめ狩りの初夏

No.80  「あやめ狩りの初夏」 (60.5x50cm) '08. 9. 1 up 価格 ¥120,000


埼玉県加須市、東北自動車道を北上し後5〜6分もすると利根川を渡って群馬県に入ると言う位置にあります。

時間に余裕の無かった頃はスキー場への行き帰りは高速道路でただ通過するのみ・・といった具合でその町を知ろうともしませんでした。

こうして改めて通過するのみのお詫びをかねて訪れる機会に恵まれました。「あやめ祭り」というものでした。

インターチェンジを降りてものの数分も走るともうそこは関東平野のど真ん中、一面の田んぼです。網の目のような水路に沿って手作りの 矢印看板に従うと前方にこんもりとした葦の原が現れます。駐車場ではヨシキリ達が盛んに鳴き叫んで迎えてくれます。


ここは浮き野(ウキヤ)と言い、太古、氷河期には谷に泥炭が積もって出来た一面の葦原なのです。堆積した葦が腐らずに覆っている為 台風で増水した利根川が決壊した時、この辺一帯が浮き上がったと言われています。

あやめの咲くころ水路の一帯は観光客の為に昔から使われている舟運の風情を味わってもらおうとサービスしてくれます。

私も子供の頃はクラス仲間を乗せて家の前から諏訪湖や上流域へと舟遊びをよくしていました。そんな懐かしさも「ふっと・・。」

次回の更新は 10月 1日です


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八島湿原

No.79  「八島湿原」 (53x46cm) '08. 8. 1 up 価格 ¥100,000


長野県・諏訪市、私の故郷でありますのでひとくさり。市街地から車で小一時間、眼下に諏訪湖を時々のぞきながら山道を上り詰めると突然になだらかな起伏のつながる 霧が峰高原に到着します。

だだっ広い高原は北の美ヶ原から、八島湿原、霧が峰、白樺湖から蓼科まで続く車山を主峰とするアスピーテ型火山(なんでもハワイの火山と同じ種類とか・・)により、 なだらかな高原を形成しています。そのなだらかな起伏を縫う観光道路を恥ずかしくも無く「ビーナス・ライン」などと命名しおって。

平安時代から狩猟の場として野に火を放ち獣を追い出した神事「御射山祭り」が執り行われ、また近年では農家で牛や馬を飼うようになり牧草地として「牧野組合」 によって管理されていたため熊本の阿蘇山と同様、樹木のない草原として今日にまで至りました。

今では牛や馬を飼う農家は無くなり「牧野組合」も解体し、更には自然保護の観点から山に火を入れることもご法度です。そのため近頃はかなり大きな樹木も育って来ています。


「八島湿原」、これは観光用の呼び名です。わたしの子供の頃はたしか「七島八島」と呼んでいました。お盆(旧盆)が近くなると飾り仏壇に野の花を供えようとこの辺にある 高山植物を採取するのにビク(背負い籠)を背負って来ることが年中行事でした。今思い返すと不思議な気がします。でもそれも摘み取るだけ、根は来年のため残しました。

七島八島の正面にそびえる山は「鷲ヶ峰」、今でもその山の頂までクッキリと「防火線」の為の野火止ラインが残ります。鷲ヶ峰の向こう側は中仙道、和田峠です。

絵の右手前に旧御射山。昔諸侯のつわもの共が集まって弓矢の競技会が行われた遺跡です。今でも段々畑状が残るれっきとした競技場あとなのです。ナゼこんな山の中で?。 この近所は石器時代から全国有数の「黒曜石」採取場で、遠く青森の三内遺跡や出雲の国とも交易し全国的に知られた武器(ヤジリ)を産出する聖地だったようです。

赤い屋根の建物は「御射山ヒュッテ」牛乳の味にうるさい私を「旨い!」と唸らせた牛乳、あなたも是非どうぞ。

次回の更新は 9月 1日です


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妻の像

No.78  「ある肖像」 (91x73cm) '08. 7. 1 up 価格 ¥


若いころ読んでいた「美術手帳」と言う書誌の中で「ニセ札」の論議が掲載されていました。どこまでがニセ札で、これ以下はそうは解釈されない・・。

しかし結論はどんなに幼稚な描き方ですぐバレルような代物であったとしても、それをニセ札として使用しようとする意識の中で造られた紙幣は犯罪であり摘発されます。

では精巧緻密な模写をしてその行為だけを楽しむ・・・とどうなるかについては、興味の圏外であり忘れてしまいました。

写真が発明される以前は、故人の面影を知る上で「肖像画」と言うものは大変貴重であり富や権力のある人はこぞって画家を雇って「肖像画」を描かせました。

レンブラント、ゴヤ、レオナルドダビンチ、・・ゴッホ、・・ピカソ、・・キスリング、黒田清輝、・・など多くの作家の肖像画が残され私たちに感銘を与えます。


しかし、その現代に残された有名な肖像画群の殆んどは単にその人の顔に似せて描かれた・・と言う意味では言い表されることの無い深い作品の味わいとして 私たちを虜にしているのです。

よく引き合いに出されることの多い「モナ・リザ」像、微笑んでいるようで、イエイエ、見る人の気持ちによって如何様な表情とも捉えられるようです。

つまり、目的は人物の基本的な外見を示すものではありますが、作家の眼識によって捉えられた人物の内面を描き出しているわけであります。そんな 足元にでも及んでみたいものです。


次回の更新は 8月 1日です


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R*O*T* の部屋

No.77  「R*O*T* の部屋」 (120x93cm) '08. 6. 2 up 価格 ¥


日ごろ忙しさにかまけて中々顔を見せなかった倅が、会社の帰りだ・・と言って立ち寄ってくれた。

そう言えば孫も幼稚園の年長組、来年からは小学生になる。こちらはつい先日幼稚園の帰りにママと一緒に寄ってくれて シッカリ育っていると感激したばかりである。

しばし雑談の後、倅が少しまじめな顔をして「俺、二人目の子が出来たんだ・・」と言う。この発言には妻と二人、大いに「でかした!」 と喜び合いました。

妻は一人っ子で育ってきた。その寂しさは充分に判っている。しかし、昨今の社会事情や将来の不安を考えるとき必ずしも「次は?」 と聞ける状態ではなかった。

もう、孫も小学生になる。多少なりとも下の子の面倒も見られる年である。そんな事も経験すると人間的な成長も著しくなるでしょう。


はじめて幼稚園に行く日、泣き叫んで親から離れようとしなかった倅が、わたし達と同じ苦労をしてでも子供を育てようと決意している。
体を壊さないようにしっかり働いて楽しい家庭を築いていってください。

改めてオマエが小学生に上がる前の肖像画を引っ張り出してきた。私も、オマエも、孫までも皆、申し合わせたように頭のてっぺんには キューピーと同じ、二つのツムジがしっかりある。そんな可愛いツムジを見ていると家族の絆を強く感じるのです。

次回の更新は 7月 1日です


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自転車屋さん

No.76  「自転車屋さん」 (93x120cm) '08. 5. 1 up 価格 ¥150,000


私は色々なものを自分なりに工夫して作って見る事に大変な喜びを感じる性格です。傍目からは「素晴らしい事だ」と褒められますが 身近に居る人からは必ずしもそうは思われていないようです。

その最大の理由は品質に大いなる欠陥がママ生ずるわけであります。私の感性では作り上げるまでの興味を100とすると、その欠陥を 補修する事についてはー30〜50程にも感じられてやる気を失ってしまいます。

まあいくつか造ったうち実用に供しているものは例えば車の可動スキー・キャリヤーや、 灯油運搬車 などがあります。

これらとて人には言えないほどの欠陥があり補修を余儀なくしております。最近この「灯油運搬車」のベアリングが加重に耐え切れず 分解して、ビーズが飛び散りました。

もともと自転車の部品はかなり精密、特殊な工具で組み立てられたすばらしい力学的メカニズムの上に成り立っている 巧工学製品なのです。


そんな素晴らしい製品が置き去りにされたり、野ざらしになったり、は本当に見るに耐えられないことであります。
私の手に負えないベアリング部分の補修、実際に直してくれる自転車屋さんなんて最近の街には存在しません。殆んどのお店は 「買い換えた方がいいよ!」とそっけもない返事です。

私の住む村には直すのが大好きな自転車屋さんがあります。2時間も格闘して「1000円位、くんねぇーか?」。 お医者さんで言えば名医ですね。

次回の更新は 6月 2日です


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徳利のある静物

No.75  「徳利のある静物」 (53x65cm) '08. 4. 1 up 価格 ¥100,000


もう3〜40年も前の話ですが実家の家を建て替えることがありました。

当然な事ですが家具や什器にしても古い家に収まっていたもののほとんどは邪魔者になってしまいます。

酒屋や醤油屋への買い物はわけ売りが主流でしたからそのための容器も必要でした。何時ごろか一升瓶が普及し始めるとすっかり 戸棚の肥やし・・ならぬ邪魔者として扱われます。

こうして多くの家庭用品はゴミとしてその役目を終えるのです。

その頃特に焼き物に興味があったわけではありません。気が付いたら私の手元にあった・・・と言うのが本音です。


先日いたずら心、100年を経た貧乏徳利と片口、この世に生を受けてまだ一年もしない私の作った壷、気ままに絵にしてみました。


1 st 2 nd 3 th 4 th


次回の更新は 5月 1日です


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和田漁港

No.74  「和田漁港」 (46x53cm) '08. 3. 1 up 価格 ¥100,000


日本の花の露地栽培発祥の地という、黒潮洗う温暖な地千葉県和田町は、私の青春期精神形成する上で忘れることの出来ない土地でした。

このページに関してだけでも、No.61「早春花」No.42「金谷の春」No.41「太東岬」No.40「早春の金谷漁港」No.39「早春の鴨川」No.20「春の花」No.16「雪の太海」、・・・と、その題材は故郷、長野に匹敵します。

この地に「間宮七郎平」と言う人が和田に花つくりを指導したと伝えられます。アジの開き作業しか収入の道の無かった漁師の妻などが急峻な山岳地に石で築いた 段々畑の隅に植えたキンセンカを売った方が魚を調理するより収入が良かったので急速に広まったと伝えられます。

しかし昭和19年、戦時下においては「花のような何の役にも立たないものを作る非国民!」と言われ、畑で花を栽培することは禁じられ食糧増産に充てられた悲しい 時代がありました。やがて戦争も終わって焼け野原となった東京に食料としてではなく花を出荷して人々の心の支えの基を提供した。花つくりの心意気です。

何時ものことです。後ろから突然話しかけられます。「うんだら、あのやってんだかい?」「あぁ、あまりにも綺麗なんで絵を描くのも忘れてボケっとしているんですよ〜」 「あんでも、いっぺさ・・」

何を言われたか良く判りませんが話は通じたようで、ばあちゃんは安心してあぜ道を伝って降りていきます。(オレって外国語も判るじゃん!)
キンセンカ、デーヂー、水仙、アイリス、マリーゴールド、ビオラ、菜の花、セントランス、スイートピー、ナデヒコ、きんぎょ草・・そして、ばーちゃんか、純真な心は 早春の花と同じまだ少女の仕草もそのままでした。

こんなのどかな漁村にとんでもない事件が発生しました。この村の直ぐ隣り漁港、勝浦の漁船「清徳丸」がこの絵の右上水平線のあたり で海上自衛隊の大型イージス艦「あたご」に衝突されて沈没してしまいました。
2月5日の日記にも書いていますが、ここから見ていると水平線の上を大型船舶が引きも切らさず航行しています。私の海技免許の知識ではこちらから出航した船に対して ハワイ(左)から来た船(あたご)は回避義務があると思います。時として道路でも横暴なダンプが軽自動車よ避けろ・・と言わんばかりの行動も見うけられますが。

「こらあ、あてこともねーのー」「あじょうもかじょうも、おんねんや」

次回の更新は 4月 1日です


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陽のあたる坂道

No.73  「陽のあたる坂道」 (46x53cm) '08. 2. 1 up 価格 ¥100,000


この時期、雪国へ出かけることが多くその度に天候に恵まれない不運を嘆くこともあります。
ほとんど陽ざしに恵まれず、寒い冬を耐え忍ぶ人々の暮らしを目の当たりにしますと、私のように家へ帰りさえすれば日光の恩恵が待っていてくれる幸せを強く感じます。

いくら貧乏な生活をしていて、粗末なものしか食していなくとも、日中のお日様の光をいっぱいに浴びた暖かな布団に包まる時その満足感は何事にも変えがたいものです。

私の住む川口市の郊外は高層な建物による日照権を奪われるような状況は比較的少ない地域です。

そして、いたる所に坂があって特に南に面した丘陵地には暖かな陽ざしがたっぷりと降り注いでくれるのです。

地方住民税の税率に、日照時間を考慮に入れてもらっても文句は言いません・・、と言うほどの恩恵に授かっている人達があちらこちらにお住まいのようです。


  丘陵地は南側に面した斜面が存在する替わりに北に面した斜面も当然存在するわけです。

丘の向こう、この日はどうやらこの空色では厳しい寒さの空っ風が吹いているようです。
枯れ枝を束ねたような大イチョや大木、たぶの木が時折「ゴーッ!」っと音を上げて揺れ動きます。

何時もの散歩道です「陽だまりポケット」そう、呼ぶにふさわしいような陽の当たる坂道。道端の犬ッコロまでおおらか・・と言うか覇気の無さはこの暖かさを彼自身、 天からの恩恵だとは想像も着かなく過ごしていることではないでしょうか。

次回の更新は 3月 1日です


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瓶のある静物

No.72  「瓶のある静物」 (46x38cm) '08. 1. 1 up 価格 ¥80,000

新年あけましておめでとうございます。


最近になって思うことがあります。
暇にでもなったら絵でも描いて過ごそう・・・と、以前は思っていました。

定年退職して暇になるかと思ったらそんなことはありません。気がつけば隅に追いやられていたスポーツが堂々と週の主要な日にその座を占めているのです。

年甲斐も無くスポーツのし過ぎで、暫らく体を動かすこともママならなくなることがあります。では、絵でも描こうか・・・?、そんな気には一切なりません。

こうして3年半の期間で判ってきたことは健康でスポーツをし、仲間と過ごし、そして得られた僅かな余暇に絵でも描こうか・・と言う気になることです。

しかも、その時間の隙間の気持ちを如何に上手くコントロールしていくことが出来るか?は、やはり3年ほど時間が必要でした。


  アトリエに慣れる、と言うこともひとつの要因としてありました。30年以上使ってきたアトリエも我が家の老朽化に伴い立て替えざるを得なかったこともあります。


新しいアトリエに移って今年で2回目のお正月を迎えます。

そろそろここの雰囲気にも慣れてきました。夏の暑いとき、冬の寒い時それぞれにここで過ごす事の楽しさを幸せに感じるようになりました。

今年も新たな意欲に向け、人生の年輪を重ねていくことが出来れば幸いと思います。

次回の更新は 2月 1日です


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小春日和の漁港

No.71  「小春日和の漁港」 (65x53cm) '07. 12. 1 up 価格 ¥100,000

40年も前になるかと思います。静岡県沼津市からバスにゆられて降り立った漁村、西伊豆の根元にある内浦漁港でした。

漁村の絵を描きたくて来たわけでしたが、当時は沼津に来ただけでもかなり遠くに来てしまったものだと、感じました。
バスから海が見えるところまで来た、と言うだけで降りてしまいました。其処が内浦の漁村でした。三方を山に囲まれ私を降ろしたバスはぐるりと湾のほぼ反対側、 向こうの岬を廻ってその姿は見えなくなってしまいました。

おびただしい数の漁船が小さな岸壁にひしめき合って停泊していました。しかし、人影は僅かでひまそうなネコが寝そべり、その向こうの端でカモメたちもボンヤリと 海のほうをながめて日向ぼっこをしています。

暖かな小春日和・・・、このまどろんだ空気は40年前のあの記憶そのままに私を待っていてくれたかのようでした。

確かに漁村は漁師の家も水産加工工場の建物も新しくなって、現代社会の漁村の風景に変身はしています。しかしその漁村特有の私の感じた空気は変わっては居ません でした。

村に一軒あるコンビニで弁当と、ビールを買って写生をはじめました。暖かい、もう秋も終わろうとしているのにこの暖かさは小春日和を超えて夏の名残さえ思わせます。

  来て見て良かった!。至福のひと時を過ごす事ができました。

急に、あたりが慌ただしくなってきました。この人達はどこから来たんだろう!。突然に若者達が降って湧いたかのように集まってくるではないですか。夕方の出漁の 準備の為、次々と漁船は製氷工場に横付けし、ガラガラと大きな音を立てて氷をハッチに詰め込んでいきます。


若者達も次々と漁船に乗り込んで出航していきます。中には威勢のいい女性の漁師さんも見えます。日の暮れる前に港の船は粗方居なくなってしまいました。



次回の更新は 1月 1日です


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