Since 2008/ 5/23 . To the deceased wife

わけがありまして「読後かんそう文」一歩一歩書き留めていきます。

妻の生前、展覧会の鑑賞や陶芸の町を見学したりと共にした楽しかった話題は多くありました。
読書家だった妻とそうでない私は書物や作家、ストーリーについて、話題を共有し語り合ったことはありません。
悲しいかな私は学生時代以来・・半世紀近くも小説や文学作品を読んだことが無かったのです。
妻から進められていた本をパラパラとめくり始めたのをきっかけに・・・

先にある”もっと永い人生・・・”かの地を訪れるとき、共通の話題を手土産にと思って。

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<<2011年度・読後感想文索引>>

読書順番作家・書店 書名読み切り日
N0.146奥田英朗・講談社e文庫 「 ガ  ー  ル 」 12月 25日
N0.145牧薩次・小学館e文庫 「 完  全  恋  愛 」 12月 16日
N0.144浅田次郎・集英社e文庫 「 鉄道員(ぽっぽや) 」 12月  7日
N0.143平野啓一郎・文春web版 「 最 後 の 変 身  」 11月 20日
N0.142藤沢周平・新潮web版 「 凶  刃  」 11月 13日
N0.141佐藤多佳子・新潮web版 「しゃべれども・しゃべれども 」 11月  6日
N0.140万城目学・文春web文庫 「 プ リ ン セ ス ・ ト ヨ ト ミ 」 10月 28日
N0.139誉田哲也・文春web文庫 「 武 士 道 シ ッ ク ス ティ ー ン 」 10月 22日
N0.138黒野伸一・小学館e文庫 「 長 生 き 競 争 ! 」 10月 14日
N0.137ヨースタイン・G・NHK出版 「 ソ フィ ー の 世 界 」(下) 10月  7日
N0.136夏川草介・小学館e文庫 「 神 様 の カ ル テ 」  9月 21日
N0.135ヨースタイン・G・NHK出版 「 ソ フィ ー の 世 界 」(上)  9月 14日
N0.134池内 紀・中公web文庫 「 海 山 の あ い だ 」  8月 28日
N0.133乾くるみ・文春web文庫 「 イニシエーション・ラブ 」  8月 16日
N0.132万城目学・幻冬e文庫 「 鹿 男 あ お に よ し 」  8月 12日
N0.131上野千鶴子・法研e文庫 「 お ひ と り さ ま の 老 後 」  7月 26日
N0.130天野節子・幻冬舎e文庫 「  氷  の  華  」  7月 16日
N0.129浅田次郎・小学館e文庫 「 つ ば さ よ つ ば さ 」  7月 11日
N0.128角田光代・中公社e文庫 「 八 日 目 の 蝉 」  7月  7日
N0.127奥田英朗・集英社e文庫 「 真 夜 中 の マ ー チ 」  6月 17日
N0.126吉田修一・中公web文庫 「 静 か な 爆 弾 」  6月 11日
N0.125藤沢周平・文春web文庫 「 霧  の  果  て 」  6月  2日
N0.124和田 竜・小学館e-Books 「 の ぼ う の 城 (下) 」  5月 13日
N0.123和田 竜・小学館e-Books 「 の ぼ う の 城 (上) 」  5月 11日
N0.122松井今朝子・幻冬舎e-Books 「 吉 原 手 引 草 」  5月  6日
N0.121奥田英朗・集英社e-Books 「 東 京 物 語 」  4月 23日
N0.120太宰 治・青空文庫 「 俗 天 使 」  4月 18日
N0.119仙川 環・小学館e-books 「 感  染  」  4月 11日
N0.118山岸涼子・潮出版Web 版 「 パ エ ト ー ン 」  4月  3日
N0.117新美南吉・青空文庫 「 張  紅  倫 」  3月 27日
N0.116火坂雅志・小学館e-books 「 利  休  椿 」  3月 23日
N0.115八木沢里志・小学館e-books 「 森 崎 書 店 の 日 々 」  3月 18日
N0.114岡本太郎・光文社電子書店 「 今 日 の 芸 術 」  3月 16日
N0.113吉田修一・朝日新聞e-Books 「  悪   人  」  2月 20日
N0.112高橋・杉浦・PHP研究所 「  そ の 日 ぐ ら し  」  2月  6日
N0.111谷崎潤一郎・中公文庫e-Books 「  痴  人  の  愛  」  1月 25日
N0.110中島誠之助・朝日新聞e-Books 「 骨 董 掘 り 出 し 人 生 」  1月 20日
N0.109吉行淳之介・光文社e-Books 「春夏秋冬 女は怖い」  1月 17日
N0.108城山三郎・文春e-Books 「 学・経・年・不問 」  1月 13日
N0.107北 杜夫・中央公論e-Books 「 どくとるマンボウ航海記 」  1月  5日

  [No. 146 ]   12月 25日


     講談社e文庫
「ガール」奥田英朗
2009年作・ 507ページ

この本はもうすっかり私にとって奥田流の”悪あがき・・”と捉えて溜飲を下ろす格好の材料として読み終えた。

5編の短編からなりその全ての主人公は30代後半の女性が登場する。華々しかった若き頃はとうに過ぎ去った、同期の仲間もひとしきりオセロの駒のように次々と反転しすっかり姿を消して しまった。いつしか職場の新人たちからも煙たがられる存在になってしまった・・・。



滝川由紀子は同僚たちと久しぶりにディスコに行って踊った。学生時代からよく訪れていてもうここの黒服のホストとも知り合いが何人もいたことがあった。

比較的年が近く気の許せる後輩と疲れて席に腰を下ろした。離れた席から男たちの視線を感じて・・しかし気のつかないふりを通していた。

やがて男たちは近くに寄って来た、由紀子はとっさに身がまえた・・・がその必要はなかった。男たちは由紀子達の席を素通りしてもっと若い子たちの席の方へ行って声を掛けている。

由紀子は大学を卒業後、大手広告代理店に入社してちょうど10年がたつ。人気企業ではあったが不況の時代だったので合格は300人に一人と言う難関であっただけにその気負いもあった。

就職しても得をすることが多かった。クライアントには直ぐに覚えられ親切にされた。上司に叱責されることはあってもどこか大目にみられた、それ以上にオジサンたちからちやほやされた。

世の中全体から構われたし要するに祝福された存在だったのだ。その特典が今、手の中から次々とこぼれようとしている。

久しぶりで同窓会に出席してみた。「わー、滝川さんって全然変わっていないー」の言葉に優越感を感じた。ホテルラウンジではいつの間にか二つのグループに分かれていた、由紀子は家庭や 子供の話にはついていくことができなかったからだ。


私の青年期と違って現在の社会での若者たちの生活はとても多様化してきていると思う。それだけに羨ましさも感じますがそれに伴う責任・・、つまり人類としての責任と言うものに漠然とした 不安を感じる事がある。たしかに若い内はそれでもいい、しかし後戻りはできないと言う所に彼女たちの勇ましさがひしひしと伝わって来るのです。


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  [No. 145 ]   12月 16日


     小学館e文庫
「完全恋愛」牧薩次
2009年作・ 856ページ

昭和20年、本庄究(きわむ)少年は空襲で家族を失う。福島の温泉地で旅館を経営する伯父の家に疎開し中学に通っていたが、離れに疎開していた画家の娘”朋音”に恋心を抱く・・・

日本は戦争に負け福島の温泉地は米軍GHQの療養所のような扱いとなる。究も朋音もそんな宴会の時には人手不足なので手伝わされる羽目になる。ある酒癖の悪いGHQ将校が 朋音を手籠にしようと襲ったが究がそれを助ける形で将校を殺めた身代り役を演じ切った。

究が部屋で寝ていた時フッと、人の気配を薄暗らがりの中に女の気配を感じた・・すっとその女は究の寝床に滑り込み体を預けた。

究はその後しばらく朋音と顔を見合わせる事も無く時が過ぎた、しかし突然朋音は大金持ちの”真刈”という男との結婚話が持ち上がってお互い離れ離れになってしまった。

暫くして朋音は女の子を産んだと言う事を知る。究は想った、もしやその子は自分の子供ではないだろうか・・・

究は中学を卒業し、伯父の意向通り旅館を継ごうとしていたが画家から究の天才的な才能を見いだされてその画家の弟子になって絵描きの道に進む事となる。



この作品のストーリーは40年間に亘って画家・本庄究の生涯を貫いた壮大な恋愛物語として完結してくれれば私も満足した。しかしこの作品の作家は自称ミステリー作家・・・お言うだけあって 次々と人が亡くなる。そして題名は”完全恋愛”なのに“完全犯罪・・・”的疑惑を持ちながら究は持病の悪化がもとで亡くなってしまう。


もともと私はこう言った結末・・つまりどんでん返しがあったりと言うくだりはしらけてしまう。どうしても作家が読者を騙してみようとしたところで無理が出てしまう、ましてや疑い深い私はどっぷりと ミステリー作家の罠に陥らないタイプの人間だからだと思う。

とても長い長編であり2/3までは完璧な”完全恋愛”のひたむきな愛を感じさせてくれてそれはその道で素晴らしい展開であった事だけは記憶しておこう。




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  [No. 144 ]   12月  7日


     集英社e文庫
「鉄道員(ぽっぽや)」浅田次郎
1997年作・ 489ページ

北海道の鉄道、幌舞線の終着駅の幌舞は明治以来北海道でも有数の炭鉱町して栄えた。21.6kmの沿線に六つの駅を持ち本線に乗り入れるデゴイチが、石炭を満載してひっきりなしに 往復したものだった。それが今では朝晩高校生専用の単行軌道車が往復するだけで、途中駅は全て無人になった。最後の山が採炭を停止してから十年が経つ。


粉雪の降りしきる終着駅のホームには5分遅れの最終列車がたどり着いた。外は零下20度を下回っている、その間老いた幌舞駅長の乙松はずっとホームに、カンテラを提げて立ったまま 軌道車を迎えた。

乙松はこの春には定年を迎える事になっていた。しかし、ここまでの彼にはあまりにも残酷な過去があった、女の子が生まれて間もなく病のため失うことになる。そしてそののち妻をも失って しまったのであった。

とりわけ乙松は入院している女房の病院から危篤の報せを何回も受けていたのだったが幌舞の駅の灯を落としてから最終の上りでやっとやって来たが女房の最期を看取る事も出来なかった。

その時も乙松は雪の凍りついた外套姿でじっとうなだれるしかなかった。「乙さん、なして泣かんのね・・」とゆすり立てられても乙松はポツリとつぶやき返したものだ。

「俺ァ、ポッポヤだから、身うちのことで泣くわけいかんしょ・・」


乙松は夜近く、駅舎に遊びに来た女の子の相手をした。そんな話を近くの円妙寺の和尚さんに電話した、「乙さん、あんたボケちまったんでないかい?そんな子、帰っとりゃせんよ」

出札口のガラスにうなだれる少女の姿が映っていた・・・。「・・・おめえ、なして嘘をついたの」

「おっかながるといけないって、思ったから。ごめんなさい」「おっかないわけないでないの。どこの世の中に、自分の娘をおっかながる親がいるもんかね」

「ごめんなさい。おとうさん」


乙松はその翌日、雪のホームで始発を待っていて倒れ臨終した。



イクメン・・・なんて言う言葉もはやるほどに近ごろでは男性も妻と共に子供を育て家庭を大切にする風潮が整ってきました。しかし私も含めてもっと古い時代の男にとって仕事を全うすることが 翻って家庭を家族を守る事なんだ・・・と勘違いしていたことがあったような気がする。

乙松駅長も恐らくそんな人であっただろうことが想像される。善いとか悪い風潮と言うことではなくそう言ったひとつの時代があったのだ、そしてそんな人がまたひとり亡くなった。


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  [No. 143 ]   11月 20日


     文春web版
「最後の変身」平野啓一郎
2004年作・ 259ページ

この作品は二度目の読み返しになる。2008年9月「滴り落ちる時計たちの波紋」の文庫本に収録されていた、引き籠り男の醜態を描いた作品としてさほど気にもならなかった。


きっかけは、・・・あるような、ないような、だ。俺は多分疲れていたのだ。そして少し自信をなくしていた。なにしろ忙しかった。入社二年目の後半くらいからは、仕事も増えて音を上げそうになる こともあったが、今年はまたそんなのとは比較にならないくらい、コキ使われていた。そして、あの日の前の一週間は、特にこっぴどく上司に怒鳴られていた。

俺は自分を分析した時その時の状況が直接引き籠りになる原因では無かったと考える。問題はそこまでたどってきた経緯なのだ、引きこもりのきっかけは言って見ればスキーのジャンプ台の 縁のようなものだ。人を飛ばすのはそこに縁があったからではなく勢いをつけるための長い助走路なのだ。

その長い助走路を考えてみるときはたして社会に貢献する姿勢はあっただろうか・・あった、ボランティアと言うことには積極参加した。それは日常からの変身であろう。

本もよく読んだ、そしてそればかりではなく書評と言う形であらゆる作品のいわゆる掲示板にも顔を出し積極的に自分の意見も述べてきた。しかし所詮は仲間外れになったりだ。

しからば自分のホームページを作ってそこに大々的に書評を載せようそして日記も・・・、そうすれば無視されることもなく自分の想った世界を展開できる・・と考えた。


<日記>というのは確かに人間が外の世界で引き受けている役割の記述だけでは収まりのつかないものだ。そこにはきっとその役割からはみ出す中身が現れる。それはそいつの未来の姿なのだ。 俺はそれを、人に認められたくて仕方がない、だがそれを、身近な人に知られては困る・・・遠い何処かの人間に向かって曝け出すことが素直な表現だ。

俺の情けないほどの無気力感、そこから抜け出すための一歩も踏み出すことができない、なぜだろうこの疑問に耳を貸す人はいない。特に年寄りだ、連中は俺に単に甘ったれているだけだとか グダグダ言わずに先ずはできる事からやって見ろ・・とかバカでも判るような事をエラそうに経験豊かな人間ヅラして言いやがるに決まっている。

俺はこの「手記」を「遺書」のつもりで書いていたのだろうか?・・・死ななければならない理由があるかどうかわからない、だが生き続けなければならない理由は俺にも見つからない。 それは大体、未来にあるものだ、だが俺の未来はもう過去の彼方に過ぎ去ってしまっているような気がする。



フン、あんたのおっしゃる通りの年寄りだ!、もう一度あんたの言葉をそのまま返してやる。甘ったれるんじゃない!、グダグダ言わずに先ずは出来る事からやって見ろ!。

大体、親の家に住んでいて引き籠りだ・・?、立派な引きこもりをしたかったら自立(河川敷や野山で暮らしながら)したうえで大いに自分の疑問を座禅でも組んで考えるもいいさ!。

この引き籠り男は住む場所の不安もない、そして飯の心配もない・・・。話しにならん!、つまり話しの出発点がこの現代社会のベースを基準にして物語を作っている。縄文時代や石器時代に 溯っても通用する人間の心理としての真摯な引き籠りについて教養ある人間ならば掘り下げて欲しい。


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  [No. 142 ]   11月 13日


     新潮web版
「凶刃」藤沢周平
1991年作・ 665ページ

某藩々士、青江又八郎は若い頃事情により脱藩し江戸に出て剣の腕を磨くと共に浪人仲間と剣の腕を活かした用心棒家業によって藩命を果してきた。

その頃は日々の米にも困った生活をしていたが今ではその功績を認められ近習頭取の役職につき160石の禄を頂いている。妻、由亀との間に3人の子供に恵まれ 仕事も家庭も順調であった。

そして40歳も半ばともなると下腹も出てきて木刀を振っては見ても若いころの身の動きは叶いもしなかった。

そんなある日藩より半年間の江戸勤めの任を命ぜられた。準備の矢先寺社奉行の榊原に呼び出された、かつて又八郎が係わった藩の秘密組織”嗅足組”を解散 するにあたり国許の組織は解散したものの江戸にある嗅足組も解散させるよう”女嗅足組”組頭を仕切るヒロイン・・佐知への伝達をも頼まれていた。

佐知とは浪人時代に知り合って以来16年ぶりの再会であった。

そもそもこの藩はこの”嗅足・・”といういわゆる隠密の集団が居てそれが国許や江戸詰めの藩にまつわる諸々のきな臭い事柄を処理して幕府に対して忠義を尽くす 態勢を整えていた。

こともあろうにある時、藩の要である城下の堀を測定したり武器庫のあたりを探索する輩をこの国許の嗅足組が見つけ惨殺したのが幕府に知れ藩内での組の活動は 閉鎖されることになったのであった。その藩の探索の任についていたのは幕府のいわゆる調査官であったからであった。


さて、16年ぶりに江戸にのぼった又八郎はまず佐知と逢ってお互いの旧知を身を以って重ね合わす事により喜びを分かち合った、そしてこの江戸における嗅足組の 現状とその扱う機密が国許では及びもつかない状況を見せつけられることになる。

その内容は藩主の側室の出生をめぐる秘め事・・つまりその側室は幕府の断罪によって処刑された子であった可能性があってほんのわずかな庶民の間にしか記憶に とどめられない事柄であった。

この事実を知る要職の人はことごとく江戸勤めの嗅足組の更に裏にある闇の二組によって暗殺される運命にあった。


紆余曲折、ついに又八郎は佐知とともに二組の統領と最期に対峙することになる、かろうじてとどめをさす事ができたものの昔、浪人時代仲間であった同僚も敵に回し 襲われたものの運よく跳ねのけてとどめを刺した。

又八郎は任期を終え故郷に帰る。佐知はもう幾人もの人を殺めたことに悔い入り尼僧の世に身を置きたいと伝える、修業の末には故郷の尼僧院に入るつもりだと言う。

佐知が故郷に戻る・・と言う事を聞き又八郎は一瞬動揺する、しかし年老いた自分が老婆の住む尼僧院に伺ってお茶を戴きながら若き日の思い出を語り合えること を想い浮かべた時つくづくと生き永らえて良かった・・・と想うのでした。



気晴らしにまた藤沢周平のワールドに浸かってみました。冷静になって考えるとそんな下腹が出てきたような中年が昔剣豪だっただけでことごとくの武運に恵まれるとは とても考えられません。

恐らく藤沢さんの頭の中では剣豪・・・武道・・・スポーツ・・・身のこなし・・・と言った一連の身体機能も精神の集大成の中にあるんではないかと言った妄想があるんだと 思います。実際にはそんな事は決して起こりません、かなりレベルの低い環境ではありうる事かも知れませんが決してそんなことはありえません。

ましてや最早下腹だ出てきた中年のもと剣豪が若い剣士に打ち勝てるはずはありません。わたしはかつてまだ下腹も出ていませんが(出ないよう鍛錬はしています) 全ての競技で若者に勝ち抜くことはできません。

そんな現実とかけ離れた藤沢作品が私の日ごろの若者からメタメタにやられるうっ憤を晴らしてくれた功績は大です。佐知との淡い恋心・・(これって不倫だぜ!)も 楽しい想像の世界です。


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  [No. 141 ]   11月  6日


     新潮web版
「しゃべれども・しゃべれども」佐藤多佳子
2007年作・ 669ページ

俺は噺家・・・と言ってもいいのかな、芸名は今昔亭三つ葉、今は二つ目だからまだまだ真打への道は険しい修業の身と言ったところだ。

従弟の良というのがいてテニスが上手で見た目もいかにも現代的青年だ、彼は現在テニススクールのコーチをやっている。処がこの彼には吃音の悩みがあって生徒にしっかりと教えようとすると それが災いしてしまいには自信まで失われそうなのである。

俺の師匠である所の今昔亭白馬がとある文化センターで話し方教室めいた講演をすると言うのでこの従妹を誘って出かけた。ところが師匠の話は脱線ばかりして中々本題に入らない、 そのうちに前の席で退屈したそうにしていた女がフイと立ちあがって出て行ってしまった。

俺は師匠の手前その女の行動は許せないと思っていたところ偶然にもロビーでまた顔を見合わせることになってしまった。

ついカッとなったついでに文句が口からこぼれてしまった。女は十河と名乗る「人前でしゃべれるようになろうと勉強しようと・・・」おやおや、従妹の良と同じように悩んでいる人もいるんだと想った。

よし、それでは落語を話す事によって少しでも話しを苦もなく話せるようになれればいいだろう・・・ということで俺は婆さんと二人暮らしだから家に来て噺の一つでもやって見るかと誘った。

ところがそんな事をやる・・・と言うことのうわさから近所に住む村林と言う11歳の子供の言葉を直すため・・・だとか、元プロ野球の選手を引退したが解説の仕事でどうも話ができない・・・と言う 男まで習わせろ・・と言う。ヨシみんなひっくるめてひとつ世話してやろう・・と言うことになった。

村林と言う子は父親が大阪転勤中にそちらで生まれたため大阪弁がひどく東京の学校では皆と馴染めない、そのため落語を習うことで標準語を習得したいという母親の願いだった。

週一回の稽古に皆それぞれの思惑があって熱心に通って来る、俺は「饅頭こわい」の噺をそれぞれに習得するように勧めた。しかし良も元野球選手もなかなか覚えが悪く習得が進まない

一方学校で村林はいじめの対象になっているらしくしかし本人はあくまでも阪神ファン、大阪弁で明るく皆に対抗していた。ある時クラス内で野球大会をするという相手ピッチャーはいじめの親分、 宮田だと言う、同じ落語仲間の元野球選手に打撃の特訓を受けた。しかしその当日の試合で村林は親分にあっさり三振に打ち取られてみじめになった。

俺は村林に自信をつけさせるため「饅頭こわい」を大阪弁でやれ・・と勧めた。村林はこれにより水を得た魚のように落語を楽しみ人を笑わせるような演技ができるようになった。

しかしこれには母親が猛反発した、俺はめきめきと上達した二人を思って集大成として二人・・つまり同じ落語を上方と江戸の発表会をしよう、村林はそれが終わったら真剣に大阪弁は止めて 皆と同じ東京弁をしゃべろうよ・・と言うことで母親も納得した。

十河もだいぶ乗り気で面白半分にパソコンでポスターまで作ってしまった。村林はそれをコピーしてもらってクラスの壁に貼った、そしていじめの親分宮田にもぜひ来てくれよと言った。

いよいよ当日、婆さんの仲間や十河の友人など狭い部屋に集まり始めた。間もなく始めようと言う時村林のクラスの仲間がちらほらと来てあの宮田も最期に現れた。

村林は話しながら皆を笑いに引き込んだ、ただ宮田だけ笑わなかった。しかし途中で村林の得意とする中落ちの所で皆が大笑いしそれにつられて宮田も笑ってしまった。

村林はそれを見て噺を中断してしまった、そして「おう!、宮田が笑ってくれた・・」と高座の上で喜んでしまった。お陰で後の話はすっかり失敗してしまった。

十河は同じ題目を難なくこなしたがそれは上手にできたにすぎなかった。でも彼女なりにやり遂げた充実感はあった、気がつくと私は三つ葉さんのことが好きでたまらなかった。



かなりの長編作品でしたがあっという間に読み終えてしまった。途中でこの本の作者は誰だったか・・?きっとして文章の上手な落語家さんだったのかなぐらいの気持ちで読み進んでいました。 読み終わって作者は佐藤多佳子さんという女性であったことに改めてびっくりしてしまいました。そんな疑問は文庫本でしたらクルッと本をうらがえせば瞬時に解決するのですがweb本では そのへんが面倒なのです。佐藤さんは他にもたくさんの作品を描いているようです、この人の文章も好きになりそうだまた他も読んで見たい。


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  [No. 140 ]   10月 28日


     文春web文庫
「プリンセス・トヨトミ」万城目 学
2009年作・ 864ページ

司法、行政、立法と言う機関がありそれぞれの立場が独立し主体性をもって運営されることにより民主国家が正常に運営されることができる。それとはまた違った意味で会計検査院というこれまた 三権分立とは異なり何処にも帰属しない機関がある。

その役目は国民から預かる税金がまぎれもなく無駄のない正しい使われ方がなされているか綿密な資料調査に基づいて検証することを仕事としている。

この作品はあくまでも娯楽性をたっぷりと含ませたとてつもない難題にこの会計検査院から派遣された優秀な検査官の三人が乗り込んでいくことから始まる。

検査官は大阪府庁舎においてあらかじめ指摘される会計課題について各省庁の資料をもとに交付金の使途や進行状況に疑問がある場合担当者から直接意見を聞き筋道を立てて行く。

こういった一連の作業は一定期間の間を開けず、つまり3年ほどで巡回して検査することにより一連の整合性を得るようになっていてその検査の時点で査定するリストを作成しそれにのっとって 検査を実施して行く。

処がリストの中になぜか35年間もほったらかしの”社団法人OJO”と言う組織があり、しかも年間5億円もの交付金を受け取っているにもかかわらず使途明細の報告書がどこにも見当たらなかった 事例もある。

検査官の主幹である松平はOJOが入居する古びた建物に単独で出かけ主催する男と面談することになった、その案内の後に続いていくと整備された長い地下道を通って大きな会議室に 到着した。その案内の男は「わたしは大阪国の総理大臣であって、この会議室はその国会議事堂である。しかもこの議事堂は大阪城の真下に作られてある」と驚きの言葉を耳にする。


松平はそんな馬鹿なことがあるか・・と一括した。しかし真田と名乗るその主催者は日本国政府が発足した時点で我々大阪国との間に不可侵条約を結んでいるしその文章は「これだ!」と 突き付けられた。

われわれ大阪国の人民は太閤秀吉殿下の末裔を密かにお守りしてきた。しかも徳川の目をはばかるため平民に化けてそのことを営々と守ってきた誇りがある、明治政府が発足した折、そのことは お互い了承のうえで400年間波風立てずに営んできた。大阪国の人民は何か事があるとOJO・・つまり王女を守るため蜂起する覚悟を持っている・・・と。

そんな折、偶然にも豊臣の末裔に当たる橋場茶子なる中学生がある事件で警察に保護されてしまった。本人は平民として育っていたが危急の一大事に全大阪の民衆が蜂起し大阪城に集まり 向かいの大阪府警と対峙することになった。松平と、真田は民衆の前でマイクに向かって激論を飛ばした。

松平は言う「あなた方はだれもがおかしいほどその存在を強く信じている王女を守ろうと滑稽なまでに必死だ、なぜこんなおとぎ話のような世界を信じるのか?」

「私たちはみな父親からその真実を聞かされて納得して信じているのだ、平松さんあなたはあなたの父親と二人だけの空間で話し合ったことがあるかい?。父親は自分に近く死が訪れることを 確信した時父は子に大阪国の存在を伝えるのだ」

「勝手にしろ!、私は大阪国なんてものは知らん、何も見ていないし何も聞いていない。社団法人OJOの検査に来たが特に問題は見当たらなかった。大阪での会計検査院の仕事はすべて 終わった、我々はさっさと東京に帰る」



作者の万城目学さんは大阪の生まれ、しかもこの作品の舞台になった「空堀り商店街」のお近くで幼少期を過ごされ今でもこの付近に大いに愛着を持たれているようすです。

残念ながら私にはその地の利を生かした小説の面白味がなかなか伝わりにくくモッタイナイ感じがしました。

そしてこの作品の大阪国の発想は大阪人ならもっと深く理解できるのにと・・思い当たる節があるのです、私の勤めていた頃大阪出身の青年の言動や行いを観察した時一種確かに“大阪国 出身”と言うような誇りに思う気持ちに触れたことがありました。勿論大阪弁は関東に住んでいても決して治す気持ちはサラサラ無いようでした。


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  [No. 139 ]   10月 22日


     文春web文庫
「武士道シックスティーン」誉田哲也
2007年作・ 621ページ

磯山香織は子供のころから父親の影響で剣道家をめざして日々励んでいた、しかし全国中学生剣道大会に出場して決勝で敗れ準優勝を飾った。彼女の神奈川県内では有望選手の登場と 称賛の声が上がったが磯山の頭の中には負けた悔しさが先に立ち素直に喜べなかった。しかも自分では勝ったと思っていた技を審判が見逃したことに不満が募った。

そんな憂さ晴らしのため市民大会に出場を決めた。当然シードされ2回戦から次々と当たる対戦相手をすべて二本とも決める快進撃であった。準決勝のとき相手の構えを見てこいつは 未だ素人っぽさの残る新人だな・・?と感じた。

甲本という対戦相手の構えは基本に忠実というかバカさ加減が知れるような真正直な基本の姿勢であった。しかしその間合いは誰しもが取る間合いよりズレていてしかも、踏み込むと更に 開く間合いに磯山はイラだった。ただ不思議なのはその動きがツーッ!と剣道家らしからぬ怪しい動きをするのであった。

磯山は我慢しきれず突っかけをきっかけに攻め込んだ・・・と、ツーッ!とかわされたかと思うと真正面の面をくらってしまった、まさか?あせりもあったが二本目もあっという間に面打ちをくらった。

たしかキャツは東松学園の甲本とか言ったな、高校では剣道で有名な高校だから多分その高校へ進学すればニックキ甲本と再度対戦することも出来る筈・・・、磯山は剣道推薦枠で迷わず東松 学園進学を決めた。当然剣道部に入部して名簿を見た、「無い!」甲本と言う名前が名簿の中に無かったのだ・・「しまった、選択した学校を間違えたのか・・?」

しかし、練習をしている新入部員の中にあの時の動きとそっくりな動作の選手のいることに気がついた、しかし名前は西荻早苗・・・「オマエ、去年の市民大会に出ていなかったか?」

「出ましたけど、決勝であっさり負けてしまいました・・」しかも聞いてみると甲本と言うのは以前の名前でエントリーの時監督が間違えてしまったと言う。父母が離婚したので現在の西荻となったが 少し前まで日本舞踊をしていたがお金のかからない剣道に転身したという。道理であの不思議な動きは・・・。ただ、そんな始めて間もない素人に二本とも面を取られて負けたことの悔しさで はらわたが煮えくりかえった。


磯山は早速、西荻に試合をするよう急かせた。「いえ、あれはおまぐれだったんです・・」「バカいえ!、おまぐれで私が真正面の面打ちを二本も受けたと言うのか!!、さあ勝負だ!」。

「本当におまぐれなんです・・」「うるさい!、どうした手も足も出さんのか!。メッタウチにしてやる!」「どうか乱暴はしないでください・・」

確かに道場での西荻は全然話にならないほど弱かった。しかし学校からの帰り道が同じ方なので磯山はイヤイヤであったが同行したが西荻はすごい剣道家と話ができると喜んだ。

東松学園は磯山の入部によって各種大会で目覚ましい成績を出すようになったが磯山はその成績とは裏腹に精神的にスランプに落ち込みそのうち皆の足をも引っ張るようになってしまった。

「嫌なんだよ、あたしが本気で負けたと想ったお前が実は弱かったなんて・・、もう剣道をやっていく自信がなくなってしまったんだ」

西荻は磯山に説得する「たしかに私は勝負にはこだわらない。むしろそういう価値観から自分を遠ざけようとすら思っている。純然たる楽しみでそのスポーツをやること自体が喜びみたいな、 そういったスタンスだってちゃんとあるんだと思う」

磯山は警察署の剣道師南をする父にも相談する「負ける不安はいつだってある。ましてや人の一生なんていつどうなるかわからない。不安だらけのものなんだよ。ただ一つだけそれに打ち勝つ 方法がある。・・・簡単なことだ、それが好きだっていう気持ちを自分の中に確かめることだよ。その好きだって気持ちと勝負の不安を天秤に掛けるんだ、・・・不安の方が重かったらそれは やめといた方がいい・・・ってことだよ」

「・・それよりも好きなものに巡り合えない人生の方が、もっと悲しいしつらいことだよ。だからお前は好きなものに出会えたことをもっと喜ばなくちゃ、何かを好きになる、夢中になる、そういう気持ち が自分の中にあることをもっと幸せに想わなくっちゃ。・・・もう勝負なんて怖くなくなるはずだ」

そうか、剣道は決闘を競技化したスポーツでは無いんだそのスポーツの大きさはやる本人の気持ちの持ち方で大きな剣道にもなるし小さな魂しかない奴の剣道はチッチェエ小手先のスポーツ で終わってしまうんだ・・・。



確かにこの本は娯楽性も十分あるし、普段私達の生活から少し距離間のある剣道と言うスポーツを女性剣士を通してそのスポーツする心の広さを知らしめる大変大きなメッセージを与えて くれる。
近年少年たちの中で盛んにはやっているスポーツ少年団、確かにその道の豊かな才能には舌を巻くような驚きもあります、しかし彼ら一人一人は必ず壁にぶち当たるし才能に限界のあることも 知る事でしょう。でも一番大切なことは「そんなに夢中にさせるほど好きなものに出会えた喜びを決して最後まで忘れないでほしい」つまり自分のスポーツに対するスタンスを早くから身につける ことが大切だと思う。
そう自分にも当てはめて考えた時、反省することがたくさんあります。混み合ったスキー・ゲレンデをすっ飛ばしたり、同じレーンの前の人を無理やり泳ぎ越したり、遊歩道をチン、チンと鳴らして ペダルを漕ぎ抜いたり・・・、そろそろ小手先のスポーツ観から卒業しなくては。


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  [No. 138 ]   10月 14日


     小学館e-Books
「長生き競争 !」黒野伸一
2008年作・ 811ページ

白石聡は定年の余生を幼いころ過ごした町に再び戻って生活することになった。妻は数年前他界している、娘はもう既に40を超えているもののいまだ独身で時おりフラッと戻って来ることは あるが暫くすると新しい男でもできたのか一向に寄りつかない。

引越しの休憩・・のつもりで近くのコンビニへ行ったところ見かけたことのある老人を見かけた。「おまえ・・・・・?」「なんだ聡か?」そこで遭遇したのは小学校以来の幼なじみの吉沢弘であった。

すでに半世紀ぶりの再会であった。「どうしたんだ?、またこの街に帰って来たのか?」「ああ、そう言うことになったんだ・・」まだこの街には昔の小学校以来の仲間たちが居るぞ、と聞かされる。

早速同級会をしよう・・と言うことで聡をはじめ弘、明男、正博、博夫、規子の6人が集まってひと時幼かったころの想いにふけった。中でも一番元気そうな明男は毎日スポーツをし健康そのもの の様子にかこつけて「誰が一番長生きするか賭けてみないか?」と言うことになった。

賭け金は44・・と言うことで規子は最低の440円ではなく4万4千円を出資した。すでに社長の座を息子に継いだ弘は4千400万円、健康に自信もありこの案件の言いだしっぺの明男は 44万円を出資し最後は俺が全部戴きだ・・と豪語した。つまり最後に生き延びたものがその賭け金全額をものにすることができる・・・そのことによりそれぞれが「生きる・・」ことに執着を持てれば この企画は成功だな。それぞれ皆76歳であった。

僅か数年の間にあれだけ長生きするだろうと思っていた健康そのものの明男はあっけなく離脱・・・亡くなってしまった。次々と数年の間に仲間が減りもう80歳を超えた時には最も想いの深かった 弘も最後はボケた挙句あっけなく亡くなってしまった。

もうここまで来ると長生き競争もあるまい。二人だけ残ったところで聡は規子にもうこのゲームから自分は降りたいのでこの賭け金は規子の父親(100歳越え)と痴呆の出始めた御主人とで 使ってくれないか・・・と持ち出す。勿論規子は拒絶する、「しかし、おれはもう既に肺癌を宣告され余命3カ月・・と言い渡された」


本を読み始めて・・もっとも文庫本でしかありませんが800ページを越える本を読んだことはありませんでした。その厚さは恐らく3cm以上の分厚い本であったかと想われます。電子書籍 のお陰で何百冊であろうとみな1cmの中におさまってくれるのは有難い。

さて、わたしも近年母親を見舞う・・と称して帰省のたび小学校の同級生と頻繁に合い、今の内しかない・・と言いながら酒を酌み交わし過ごす機会が増えています。

なぜか読み進むたびに私の心境をたどっているみたいで変な気がしました。殊更に幼いころの日々を過ごした仲間と言うのは今想うに安らぎを覚える大切な仲間と言う感覚が大きくなります。

それぞれの仲間が離脱してそれぞれ想像する死後の世界は皆それぞれに違います、神を信ずる者、はたまた美しい来世を思い浮かべる人さまざまです。聡も最期は暗澹とした睡魔のなかで 花園も見つからず瞼を開ける力もなく・・・で作品は終わります。

まあ、この結末は結局作者の黒野さんにもリアルに描くことの出来ない世界です、やむおえないことです。しかしなぜか最近このような本を好んで読むようになったのか定かでありません。私としては 今までがあまりにもノホホンと過ごして来すぎた反動と捉えてその傾向を深く考えないことにしています。さて、明日は友人と酒盛りの準備だ!


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  [No. 137 ]   10月  7日


     NHK出版
「ソフィーの世界 」(下)ヨースタイン・ゴルデル
1991年作・ 635ページ

ヒルデは屋根裏部屋で目を覚まし、机の上のカレンダーを一枚めくりとって丸めてゴミ箱に放り込んだ。

このページには「15歳」と書きこんであった。パパは国連で働いていて今はレバノンにいるらしいけれど何時もドッサリの手紙をくれる。そしてその誕生日プレゼントには もうすぐ私のお友達になるというソフィーと言う同い年の女の子と哲学者のことも書いてあった。

ここまで読んできて初めて作者の意図とするソフィーとヒルデの関係が判って来る。つまりソフィーと哲学者アルベルトが古代ローマ時代以降ソクラテスやアリストテレスの 思考を解いて行く過程を手紙によって父親が娘ヒルデに伝えることによって「哲学を知る機会」を与えたのだ。

しかもソフィーとアルベルトはその父親の創作上のキャラクターにすぎないのだけれどヒルデの意識下の中の「あなたはだれ?」と置き換えて意識的に世界を切り開いて 行くところが哲学を学ぶうちに必要な二重人格要素?として興味深く読んだ。


すでに(上)に於いて中世ルネッサンスやバロックを経てデカルトやロック、そしてヒュームやルソーの啓蒙主義にまでその哲学変遷を学んできた。

ここでアルベルトはカントの認識の出発点について僕たちの知識は全て感覚をとおしてやってくる・・・と、つまり赤いサングラスを掛けて風景を眺めると何もかもが赤く 染まって見えるから私たちは現実をそういうふうに体験してしまう。


眠りの中で美しい花を摘んでそして目が覚めたら手の中には美しい花を握っていた・・・、いよいよロマン主義としての扉を開けることになる。多くの芸術家がそだち 活躍する時代が来た。

そしてヘーゲル、マルクス、ダーウィン、フロイトを通じて「僕たちは“生”を即興に演じなければならない」シナリオもなければ何をしたらいいかをそっと耳打ちしてくれる 人もいない気が付いたら舞台の真中につきだされている、どうするかは自信が決めなくてはならない」

そして人間は自分のしたことの責任から絶対に逃げられない、どう生きるべきかは世間の期待にそうよりしかたないとかは言っていられない、自信で何かをするよう 真に実存して本物の人生を送るよう強いられている。

二十世紀になって重要な問題・・深刻な環境問題、哲学の流れの一つはエコロジーだ。僕たちの思想の歴史と言う背景を知って来ただから石ころと宝石の見分け もつくだろうそれができれば人生の方向が見つけやすくなるはずだ。


私たちは生命のくじを引き当てた。と言うことは死のくじも引かなければならない、生命のくじの当たりは死なんだ。その痕跡の積み上げが歴史の大切な基礎を築きあげて いることを認識しなければならない。

人間が神話に頼らずにこの世界を理解しようと思考を始めた古代ギリシャのデモクリストスの原子論以来、その名「アトム」は今に引き継がれそして現代において、自信が 物質である人間がその物質を形作る原子の奥に眠っているエネルギーに手をつける事を考えた時、私達の新しい哲学の出発点を見いだせないものか・・・。

とても深くそして考えを及ぼす広さはまさしく宇宙を感じさせる本でした。


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  [No. 136 ]    9月 21日


     小学館e-Books
「神様のカルテ 」夏川草介
2009年作・ 360ページ

夏川草介さんは大阪生まれですが信州大学医学部を卒業し大学研究医として残ることなく長野県の地域医療に従事しながらこの作品を書いている。30歳で第10回小学館文庫小説賞 を受賞して作家としてデビュー、翌年には本屋大賞第二位に輝いている。



わたし、栗原一止は信大医学部を卒業の後単身、松本平の中ほどに位置する本庄病院に勤務して5年目になる内科医である。本庄病院は同じ松本にある信大医学部付属病院の600床には 及ばないものの病床数400床と言うのは地方都市の一般病院としては相当に大きい。

しかも年中無休、一日24時間一般診療から救急医療まで幅広い役割を果たす地域の基幹病院である。しかも医師不足と言うのにこの病院では患者の数が半端でない、日中は恐らく松本駅の プラットフォーム以上の混雑である。夜間勤務の救急受け入れに於いても私は内科医だ・・、なんて言っていられない、当然外科的処置まで受け持たなければ医師の不足は補えない。

ある日安曇さんと言う身寄りのない老婆を見ることになった、しかしそれと判るほどはっきりした症状の癌に犯されていた。私は少しでも良い治療を・・と思い大学病院に紹介状を書いてそちらで 最先端の治療を進めた。しかし安曇さんはまたしてもこの本庄病院に戻されてきた。

大学病院に行った時えらい先生が「大学は安曇さんのような人を見る場所では無いのです・・」と言われたそうで、とてもすまなそうな顔をして私の診察を待った。もうそれほど安曇さんの病状は 進行もしていたが体力の衰えもそれにもまして進んでいたのです。

「ええ、いいですよ。安曇さんの病状はわたしが親身になって見てあげましょう」安曇さんは本庄病院に入院しわたしにとても厚い信頼を寄せてくれて毎日幸せそうな顔をしていました。


突如300号室、安曇さんの脈拍低下のアラーム音で病室に飛び込んで最初に見たものはシーツを真っ赤に染めた下血だった。脈拍は30台、心電図モニターもけたたましいアラーム音を響かせ ていた。

私はとにかく呆然としている看護師に「点滴全開!」としかりつけるように告げた、その間に頭の中では無数の選択肢が走りぬけた。昇圧剤を使えば一時間くらいは血圧が上がるかもしれない、 人工呼吸器をつなげば暫くは大丈夫だ、その間に輸血の準備をして大量輸血を行えばもしかしたら持ち直すかもしれない・・・。

そこまで考えていながら、しかし私はそれ以上の指示を出さなかった。しばしば医療現場では患者の家族が「出来ることはすべてやってくれ・・」と言うことがある。50年前はその結果いかんに かかわらずその時代はそれで良かった。

しかし現代は違うのだ、死に行く人に可能な医療行為全てを行うと言うことが何を意味するのか人はもう少し真剣に考えなくてはならない。「全てやってくれ!」と泣き叫ぶことが美徳だなどと 言う考えはいい加減捨てねばならぬ。

助かる可能性があるなら、家族の意思など関係なく最初から医者は全力で治療する。問題となるのは助からぬ人、つまりは寝たきりの高齢者やがん末期患者に行う医療である。

現代の驚異的医療技術をもってすれば停まりかけた心臓も一時的に動くであろう、呼吸が止まっても酸素を投与できるであろう、数々のチューブで繋がれた患者は更に大量の薬剤を与えて 数日生き延びるかもしれない・・。命の意味も考えずにただ感情で「全ての治療を!」と叫ぶのはエゴである。


なすべきか、なさざるべきか・・・・・。「先生!、血圧が下がります・・」年配の看護師が慌てて声を上げた。モニターでは血圧はすでに測定できないくらいに下がっている。「脈拍20台・・・」

「・・・・・いい、」私ははっきり言ったつもりだったが声はかすれて届かなかった。怪訝な顔をしている看護師たちに、今度こそ私ははっきりと告げた。「このままでいい。見守ろう・・」

私はおもった、病むと言うことはとても孤独なことだ、正しい医療などと言うものは私には皆目見当がつかない。未来に対する確信など存在しないしかし、安曇さんは最後は楽しい時間を過ごす ことができたと言ってくれた。そこには高度医療の入る余地など最初からなかった。



最近の医療では特に末期における処置についてお医者さんはずい分とオープンに患者や家族と相談することがある。患者本人がその意味をしっかり受け止めて納得した場合はその意思を尊重 することが大切でしょう。しかしこの作品の病院もそうでしたが医師不足のため末期の処置は文章で残し医師同志が連携してもらう必要がある。

あれほど主治医と末期の医療方針を立てたにもかかわらず、たまたまの代理医師が受け持ってのとき患者の急変に驚いた医師が家族に、「・・・どうしましょう?」と言う 品格の無い病院も時としてあったぞ!。


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  [No. 135 ]    9月 14日


     NHK出版
「ソフィーの世界 」(上)ヨースタイン・ゴルデル
1991年作・ 742ページ

ついこの間義母を看取り、その先には妻を看取り、先の大震災による未曾有の犠牲者を目の当たりにした時この年になるまで人の生と死そして精神と宗教感について およそ考えもしなかったこと・・・。

先日のクラス会に於いても私の同年代ですでに他界された方もいます、つまり私にとっては現実的な命に対しての尊さを改めて考えもっと謙虚にそこに存在する何かを 考えるきっかけになれば、との思いから哲学書・・・そしてこの著者にたどり着いた。



ソフィー・アムンセンは14歳の中学生、父はタンカーの船長で普段家にはいない、母とふたり暮らしと言う実感であった。

学校から帰るといつもひとり、母は勤めに出ているのでいつものように郵便箱から手紙を取り出してテーブルに並べると「わたし宛の手紙、だれからだろう・・」

開くと差出人の名前もなくただ「 あ な た は だ れ ? 」と書いてあるだけ。

ソフィーは少し考えた、そしてバスルームの鏡の前に立って「あなたはだれ?」と尋ねてみた、しかし鏡の中の私からの返事は無かった。


次の日も郵便箱にはソフィー宛の手紙が入っていた、こんどは「 世 界 は ど こ か ら き た ? 」そう書いてある。

ソフィーは2通の手紙を持って庭を突っ切り生垣の隅を四つん這いになって潜り抜けた。そこにはホラ穴があってソフィーは自分だけの隠れ家として使っていた。

そこから眺める庭はソフィーにとって素晴らしい世界と思っていたし現実にソフィーの小さな世界を想い浮かべた。ふと「世界はどこからきた?」わからない・・、世界が とてつもなく大きな宇宙のほんの小さな惑星だと言う事はしっていた。でも、そうしたら宇宙はどこから来たのだろう?

次の日に今度は大きな封筒がソフィー宛に届いていた、裏には「哲学講座  親展」と書いてある。ソフィーは再び庭を横切ってホラ穴の隠れ家でその手紙の封を切った。

「 哲 学 と は 何 か ? 」親愛なるソフィー・・で始まる長い文面であったがそのなかに「人間とは何か、世界はどのようにして出来たかと問わなかった文化は ありません・・・」人間が「なんかへんだなあ」と思ったのが哲学の始まりなんだよ・・・。


このような形式でソフィーは謎の哲学者から古代哲学者の考えた言葉、そして今の宗教のあり方を物理学者、数学者、医学者、政治学者や宗教学者の立場から勉強を進めて行く。

こうして現代の哲学の行きついた先は「よくわからないことには決着をつけない・・」『諸行無情』組み立てられたすべてのものは解体する。つまり観念にとらわれるなと言う事でしょうか。

「ヒナ鳥は飼い主が中庭を横切ってきたら餌がもらえる、と言う事を毎日経験している。それでヒナ鳥は、飼い主が中庭を横切る事と餌鉢のなかの餌には関係があると結論する。ある日飼い主は 中庭をやってきて、ヒナ鳥をシメた」

時間を追って起こる出来事は必ずしも原因と結果の関係にはない、人々に早合点を戒めるのは、哲学の重要な使命だ。早合点はいろんな迷信のもとにもなる・・・・と。


この本はソフィーの誕生日を明日に控えた所で(上)は終わっています。700頁を越える本のせいではないでしょうが残暑がものすごく応えます、(下)ではソフィーは15歳、どんな勉強を進める んでしょう、ひと休みして涼しくなったらまたソフィーといっしょに新しい哲学(生き方?)の勉強に進みます。


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  [No. 134 ]    8月 28日


     中公web文庫
「海山のあいだ 」・池内 紀
2011年作・ 313ページ

池内紀さんの本は初めて読みました。読み始めてすぐに、ああこの人は所謂作家さんでは無いな・・・と感じました。

自己紹介では1940年生まれ・・と言う事ですから私より二つ先輩です。学歴経歴も自分のペースで歩んできた方です、そして東大修士課程を収めのち各大学でドイツ文学などの教鞭を とりましたが定年退官まえの56歳で自分の生きたい道に進むため自由人になりました。

まあ、私が言っている”自由人”とはかなり質的にもレベル的にもけた外れなようでした。退官前から週3日の講義をすると後4日はその学校付近の山歩きや旅を楽しまれていたようです。

身長170cm、着るものも多少最初は金は掛かってもジーパンにしろジャケットにしろ丈夫で良いものを身につけ結果的に安い買い物であったと言うからにその人柄がよくわかります。


「雨に打たれるのは辛いことだが、肉体は正直であって、自然のもたらすものはすごく素直に受け入れる。みずから引き受けた試練として、精神衛生上からいえば、むしろ爽快な経験といった ものだ。そもそも山登りに苦労や難儀がないとしたら、これほどツマラナイものはないだろう」


多くのエッセイや紀行文を収録したこの本に一貫して流れる池内さんの喜びや感動は私も十分理解し納得することが出来た。

池内さんはのち文筆業・・と言う、文章の隅々に表現の豊かさを感じこの方の今後にも大いに期待したいと思いました。


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  [No. 133 ]    8月 16日


     文春web文庫
「イニシエーション・ラブ 」・乾 くるみ
2007年作・ 480ページ

何か特別な愛の表現だろうか・・・。

鈴木夕樹は静岡県内の理工学部の大学4年生。滋賀県だったかの出身で下宿住まい合間に家庭教師などしながら先ず先ずの生活を送っていた。

ある時友人からいわゆる合コンを企画し予定していたが一人急用で出席できなくなった、代理にその穴を埋めてほしいという。

「別にカノジョなんて欲しいとも思わない、合コンで出合った相手などと簡単に付き合えてしまえるような性格の軽い女とは付き合いたくないのだ。 簡単に付き合い始めて飽きたら別れる、その繰り返しをしている男女が世間に大勢いることは知っている。僕はそういう男じゃないし、だから付き合うにしても そういう女じゃないもっとちゃんとした相手と付き合いたい」

オシャレには気を遣う事が無いまま生きてきた。外見を飾ることはたやすいが、内面を磨くのはそれほどたやすくない。そして僕は内面を磨く事を重視して今まで 生きてきた、だから僕の場合は、そこを見てほしいと言う気持ちが強くあってそれ故に自分の外見を飾る事に対しては努めて無関心であろうとして来たのだ。

だから僕の方でも相手を選別できるのだから、外見を飾ってない僕を見てそれでも関心を寄せてくれる人こそが、相手の内面を重視するーーつまりは僕の同類 なのである。そんな相手の中で成岡繭子さんは僕と同類だった。

繭子は既に社会人、歯科医院に勤める衛生士。僕は”マユちゃん”、彼女は僕の夕樹の夕をとって”タッくん”と呼び合うようになった。僕にとってはとても幸せで 夢のような喜びの生活だった。

大学を卒業し兼ねてから準備しておいた地元の商社に勤めることが決まったのもつかの間、成績優秀につき幹部候補生として東京の同族企業本社に2年間の研修勤務 を命ぜられた。同期等からはとても羨まれたが僕は恋人と別れるつらさの方がより増していた。

「マユちゃん、僕は君に会いに毎週帰ってくるから心配ないよ」「タッくん、無理しないでも良いよ、何時でも待っているから」

しかし勤務を命ぜられた職場には同期入社の石丸美弥子という才媛がいた。さすが同期とはいえ本社採用勤務の彼女は頭の切れも抜群、しかもスタイルはモデルが そのまま社員になったかのようだ。先輩たちが盛んにアタックするも見事に跳ねのけられるのであった。

企画開発の忙しいシーズンが一区切り済んで僕と石丸は少しホッとした。石丸は「鈴木君、お疲れ様・・・どう?食事でも一緒に」

僕は石丸といろんな話をしている中で僕には静岡に恋人を残して来ていることも告げた。

食事が終わって近くの駅まで送ろうとした時とつぜん石岡は僕の手を取って「お願いだからわたしに恥をかかせないで」と強引に関係を持たされてしまった。

石岡は「初めて恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思いこむ”絶対って言葉を使っちゃう”この世の中には絶対なんてことは無いんだよって、何時か わかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな」

「もし鈴木君とマユちゃんの関係がそうなら私にもまだチャンスはあるかなって」僕はそうなのかな・・と思うようになり結局石岡美弥子とも付き合うようになってしまった。

あるひ、マユちゃんのところでくつろいでいた時つい口を滑らしてしまった「おい、美弥子こんなもんでどうだろう・・?」もう取り返しは付かなかった、名前を間違えるなんて。


そんな考えもあるんだ・・イニシエーション、成人式とか入社式というような意味合いじゃなく男も女も恋愛をしていく上で単なる「通過儀式」と捉えて気持ちの移ろいを そう言った言葉を使って自分自身を正当化しているんだ。

だから私たちが目にする若い人のくっついたの別れたのの話には人生に対しても「エヘラ、エヘラ」している様にしか感じられないのだろうか。またそんな意味の無い議論 なんかするきにもなれないしー。

オレか?、ああ結構だよどうせおいらの年代は皆ガンコで融通が利かないやつばかりよ。でもな、そういった頑固さが戦後の国を復興させる原動力になって来たのさ、 東日本の復興を考えたとき若いもんももう一度褌をしめなおしてやってやろうじゃないか、って思いなおしてくれよ。


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  [No. 132 ]    8月 12日


     幻冬e文庫
「鹿男あおによし 」・万城目 学
2011年作・ 705ページ

おれは大学の研究室でとんでもない失敗をした。同じ研究室の学位取得を目指していた後輩同僚の大切な論文記述を誤って消してしまった。

教授はおれにしばらく研究を休んで、気休めにひとつ2学期限定で奈良にある女子高教師になる事を進めた。

さて、女子高では生徒からバカにされたり無視されたり散々な滑り出しであった。しかし日課としていた奈良公園を散策中、突如鹿に話しかけられた。

鹿の言うには神の使いで1800年前から狐と鼠と共に60年ごとに行われている「鎮めの儀式」を執り行って人間界を守って来た、今年はちょうどその60年目の年に 当たる大切な時なのだという。

おれはその儀式に使われる「サンカク」とよばれている「目」を狐から預かって運んで来る「使い番」に選ばれたと言う。しかも相手の狐からの「使い番」も選ばれている、 というものであった。


大学の研究室で能力の精いっぱいを使って研究に励んでいるもののどこか一人だけ浮いてしまってしかもドジを犯してしまう。

世の中にはひょっとしてこの仕事、自分には向いていないんではないだろうか・・・、って誰しも落ち込むことはあります。

この本はそう言ったシリアスな側面を見ながらどんな展開をして行くのだろう・・思った通り女子高なんてそんなに甘い事は無いよな、しかもあまりにも泣きっ面に蜂的 展開になって行く。

しかしその裏には卑弥呼の使い、そして奈良の歴史を感じさせながらの一大娯楽作品に発展して行くことで興味はそがれてしまった。


くしくも今年6月、私は奈良をひとりで歩きまわり近代都市の隣に往時の都が泰然としている風景を観察してきたばかりです。当然もし私に文才があればこのストレスな 時間の流れの不均衡さはこのような小説の種にはうってつけと思わせました。


バカバカしく想いながらもついつい面白さに負けて読み下してしまった。


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  [No. 131 ]    7月 26日


     法研e文庫
「おひとりさまの老後 」・上野千鶴子
2007年作・ 469ページ

長生きすればするほど、みんな最後はひとりになる。

近年、当時ニュー団地として開発され華々しい時代のあった団地などで急激に高齢化が進み死後かなりたって異変に気付く・・いわゆる「孤独死」が話題になることが 多くなりどうしたら孤独死を防ぐことができるでしょうか・・・と言う事が社会問題になっている。

私も含めて”死”についてあまりにも考えようとしない、むしろそれについて考える事を避けて過ごしてきました。

表紙の絵を見ると「あ、おれの食事風景とおんなじだ・・」で手にしてみるとシングルライフの大先輩である上野千鶴子先生が多岐にわたりおひとりさまの心得を納得いく 様に解説しながらしかもシングルライフをもっと楽しく充実させて人生を謳歌しなさい・・と激励された。

「なあーんだ、みんな最後はひとりじゃないの・・」この事をしっかり心に刻みつけると後は覚悟するだけそして知識を増す事により恐れも無くなります。私も妻に先立たれ た後どーすりゃいいんだ・・!と途方に暮れたのもつかの間、心構えが座れば先も良く見えてくることが判りました。


先生は「おひとりさまの老後」はソフトとハードにわけてとりわけ「ひとりで生きる知恵というソフト面を重視したい」といいます。

ひとり暮らしの達人はひとりでいることの快楽だけでなくほかのひととつながることにおいても達人である、家族を中心に暮らしてきた人は家族が離れて行くと本当に ひとりぼっちになるがそれは家族以外の人間関係をそれまでにつくり上げてこなかったツケだ、とてきびしい。

先生の研究の中で「モデル退職者」いわゆる幸せなポスト定年ライフを送っている彼らに共通しているのは40代から早めに助走を開始して、定年後にソフトランディング している事だったといいます。うらがえせば地域活動や趣味に「もうひとりの自分」をみいだしてきたのである、その結果として、あるいはそれが原因かもしれないが 彼らは職場でたいして出世していないこともわかった・・・、アッタリー!!。

障害のある方たちと付き合うと不自由な生活を支える様々な機能があってそれらを有効に使って楽しい人生を過ごしている・・ということ、将来の自分に照らし合わせ そういった取り組みをすることにより私達高齢者予備軍にとって最大のメッセージを感じることができる。


ほんとうに大切な友人はたくさんはいらない。近くにいなくてもいい、自分の理解者だと思える友人がこの世のどこかにいて何時でも手を振れば応えてくれる。そう思える のはどんなに幸せなことか。しかし老いるとはこういう友人がひとり、またひとりとこの世を去るさみしさかもしれない。



長生きすればするほど、シングルが増えてくる。超高齢化社会で長生きしたひとは「みーんなシングル」の時代がすぐそこまで来ている。ひとりで暮らす老後を怖がる 代わりに、ひとりが基本、の暮らしに向き合おう。不安がなくなれば、なあーんだシングルの老後ってこんなに楽しめるのだから・・。

最後に、おひとりさまの「死に方」の5カ条なるものもあり、私の解釈では大切なことは看取られなくては死ねないと思っているうちはまだ子供、ただし死んだら時間を おかずに発見されるという事は基本中の基本。それを孤独死とは決して思わないし言えないと思う。だって、看取られようがそうでなくとも”旅立つのはみんなひとり” なんだよね、テレビドラマの場面じゃないけれど皆に囲まれて・・・って、気が散っちゃうよ。


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  [No. 130 ]    7月 16日


     幻冬舎e文庫
「氷の華 」・天野節子
2007年作・ 799ページ

本を買う時の動機の一つに「キャッチフレーズ・・」ってありますよね、それなんでしょうか“1、還暦デビュー作、2、自費出版・初版1000部、3、各種賞エントリー全て落選、 気になるのはミステリー作家・・”。

1,2,3については何が何でも応援したくなってしまう。何処か私と境遇が似ている・・・どんな作品だろうとダウンロードした。



生まれも育ちも良い恭子は叔父の経営する会社の営業部に配属された瀬野隆之と結婚することになった。瀬野にとってはいわゆる逆玉の輿結婚であった、スポーツマン 容姿抜群、傍目にも非の打ち所のない好青年であった。彼は35歳と言う若さで営業部長となっての絶好期であった。

しかしその瀬野だからこそ学生時代から女関係ではあとを引きずるような交際相手も有ってこの事件の鍵となって行く。

一方、恭子には不妊と言う大きな問題があって気にかけてはいたがクラス会などの会合では出来るだけその話題を避けたい気持ちが年々高まってきていた。

冒頭(プロローグ)、土砂降りの雨の日の夕方、福島県相馬郡の国道である老人が車にはねられた。偶然にもそこにちょうど実家に戻っていた瀬野の職場の若い女性、 関口真弓が目撃してしまった。


瀬野はその事故をそのままにして逃げ去ってしまった。真弓はその時瀬野の車には奥さんでは無く別の女性(高橋康子)が乗っていたことを認めていた。瀬野の部下で あった関口ではあったが瀬野にこのとき目撃した事実を隠してあげる代わりに資金援助を申し入れた。

瀬野はこの先のことを考えて関口を亡きものにする必要があることを高橋康子と共謀した。瀬野の海外出張の時康子は関口真弓になり済まして恭子に電話した。

「私は関口真弓と言って、瀬野隆之と付き合っている、今妊娠していて間もなく5カ月になろうとしている・・隆之が帰国したらアンタとは離婚する手続きになっている・・」


カーッとなった恭子は翌日真弓の勤めの時間の間に彼女の部屋に忍び込んでジュースに毒物を混入させた。それを呑んだ真弓は死んでしまったが捜査はすぐに瀬野の妻 恭子に疑いの目は集められた。



私はこの手の作品は総じて好きではありません。それはスキー競技に似ていて、斜面変化のある回転でポールのセッターがここでこうすれば選手は勘違いして皆ここで 失敗してくれるだろう・・・。そして皆が失敗すればセッターはひとりご満悦・・、まさかそんな競技はあり得ませんがナニかそんな気がするのです。

ミステリー作家は時間のつじつまを合わせながらそのわずかな隙間を見つけて読者に「そうだったんだ・・」と言う事に喜びを得ているんではないでしょうか。でもそんな針の 穴に糸を通すような推理を二つも設定してしまってはもはや確率論からしてストーリーは成り立ちません。

でも還暦デビューの天野さんに今後の活躍を期待したいです。これからの作家として最後は読者も作家も苦虫をかみつぶしながらもほほ笑むような作品を期待します。


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  [No. 129 ]    7月 11日


     小学館e文庫
「つばさよつばさ 」・浅田次郎
2009年作・ 366ページ

長編小説を読んだ後なので気休めに短編集でも・・・と、ダウンロードしたのがこの本でした。40編ものエッセイが、しかもその全ては”旅”における浅田さんの想い が綴られていて楽しかった。

そもそもこの短編はJALの機内誌「SKYWARD」として書きためられてと言います。私も最近”旅”の魅力に取りつかれていますが私よりもっとお忙しいであろう浅田さんの 行動力には脱帽しながら楽しくその旅の一端に触れさせていただいた。



「星を狩る少年」チュニジア生まれの青年が今回の旅のガイドをしてくれた。名前をナジャと言い日本人の妻を持ち片言の日本語で案内してくれた、小さな島で生まれたので 星の事と魚のことしか知らなくって・・・という純朴な青年であった。

モロッコのマラケシュに向かうチェニス空港のカウンターであった。あろうことかもう一人のガイドが二名分のチケットをホテルに置き忘れたのである取りに戻る時間は無い。

チェニスからマラケシュは一日一便、・・・絶体絶命であった、明日の便にするほかあるまいと全員があきらめているのにナジャは後に引こうとしない、何とカウンターに しがみついて離陸を遅らせているのである。

「もういいよ、ナジャ」。しかしナジャは私の手を振り払って言う、『ノン。ダメと思ったらダメです』

いくらなんでもチケットなしで国際便に搭乗するのは無理であろうと思いきや、泣きと脅かしの説得の末にとうとう航空会社が折れたのであった。無論一方的なゴリ押し では無い、ホテルに連絡を取って航空券の所在を確かめさせ、それが間違いなく本人の者であると言う確認もさせた上で、しごく合理的な主張をして押し通したのである。


ナジャは「すみませんけど、かなり無理を言ったので、搭乗口まで走ってください」と言うや否や四人分の手荷物を両肩にかついで駈け出した。「こいつはスゴイ!」

ともすると可能なことを不可能にしている多くの人間たちの中でナジャは可能な限りを可能とし、時には不可能すらも可能にする。

『ダメと思えばなんでもダメ、ダメじゃないと思えばなんでもダメじゃない』のである。そんなふうにして一直線に生きてきたナジャは、やっぱりすごい!


そうなんです、旅にはいろんな目的もあるかもしれない日常から外れた生活をすることによりより自分に足りないものの発見や可能性の発見も見いだせるのです。

私と旅に出たい人いますか?案外と私のズルイ生き方を発見できるかもしれませんヨ。


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  [No. 128 ]    7月  7日


     中公社e文庫
「八日目の蝉 」・角田光代
2011年作・ 661ページ

第一部、小説は”野々宮季和子”が主人公でありサスペンスの状況として発展して行く。

季和子は秋山と言う不倫男と付き合っていたが身ごもってしまった。男から妻との離婚調停中でもあるから今回はおろしてくれと頼まれて言いなりになった。

しかし、その後男は妻が妊娠してこれ以上の進展は望めない・・・と言われた。つまり季和子は体よく捨てられた訳であった、ここからこの物語は始まる。

季和子は秋山の自宅を突き止めその行動を観察した、朝は玄関の鍵は掛けずに妻が夫を近くの駅まで車で送って行く、部屋には生まれたばかりの赤ん坊(女の子)が ひとりベッドに残されていることなど。

ある日、季和子はその赤ん坊を誘拐する事とし決行した。「この子は私の失った子の身代りだ・・・」

秋山にしてみれば自分の子供が誘拐され警察に届けても”思い当たる節”に季和子の存在すら口に出すことはできない、警察の捜査は不特定多数の中からあらゆる場面 を想定する以外に無かった。そのため季和子にとっての逃亡は余計し易かったと言う事になる。

取りあえず赤ん坊には「薫」という女か男か判別の付きにくい名前を付けて連れ歩くことにした。まずは学生時代の友人宅に数日間世話になり預かった子・・で通した。

そして次々と居場所を変えるに従って自分の娘だと主張し、また薫も季和子にとてもよくなついた。しかし事あるごとに季和子は捜査の手が次第に狭まってきたことを感じ 自らを宗教団体染みた組織に入れてもらう事によって自分たちの身を守ろうとした。これは非常に都合よく身の安全を保証してもらう事ができた。


しかし、この団体共同集団も遂には別の問題で解体させられる運命にあった。季和子はいち早くその危険を察知し同僚信者から託された瀬戸内海の小豆島に身を寄せる こととした。平穏にそして薫にとっても情緒あふれる島の生活は子供の成長にとっても大変有意義なものであった。

夏祭りの日、村の人たちに打ち解けて楽しい祭りを堪能した後、地方新聞の”写真投稿欄”に読者の寄せた「島の祭り」と題して季和子と薫が写されている写真が 載ってしまった。しかもその作品は優秀賞を取り全国紙にも載ってしまった。

季和子は薫の手を引き、取るものもそのままにフェリーの乗り場目指して走った。しかしすでに捜査の手はそこまで来ていて季和子と薫は引き離された。


第二部、これ以降の主人公は”薫”・・・いえ、本名”秋山恵理菜”の生き方として発展する。

小学校、中学校ともに「あの誘拐事件の可哀想な子・・」として扱われ続けた。恵理菜は家に戻されて以来誘拐した女はこの世で一番悪い人間だと教え込まれた。しかし そう言う母もそして父でさえもそれほど素晴らしい人には見えなかった。二つ違いの妹でさえ突然に降ってわいた姉に対して懐こうともしなかった。

恵理菜は高校を卒業し大学へ行きたいと両親を説得しそして猛烈な反対を押し切ってひとり暮らしをしようやく息苦しい家族と別れることができた。当然その生計は アルバイトなどをして稼ぎだすことが条件であった。

恵理菜はアルバイト先で知り合った男、これも不倫男であるが身ごもってしまう。しかし恵理菜はこの子は自分一人で生んで育てようと決心する。そして幼いころ悪い女?に 育てられた小豆島を訪れよう、そして自分の過去と女と、家族とはについて良く理解したうえでこの子を育ててみたい・・・。


恵理菜は施設に居た時千草と言う少しおねえさんに面倒を見てもらっていた、今になっても恵理菜のよい理解者なのだ。その会話の中に「蝉は7日には皆死んでしまう、 それは八日目まで生き延びてしまった蝉にとってはとても悲しく辛いこと・・・、しかしほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから、ギュッと目を閉じなくちゃいけない ほどにひどいものばかりでもないと、私はおもうよ」あまりにもつらい輪廻とまでは言わなくとも又しても恵理菜に果せられた人生の重みをシッカリと受け止めよう。

世の中には子供のいる家庭は当たり前なんだけれど実は不妊で悩む夫婦も実に多い、しかしここでは不倫のはずみでも簡単に懐妊し季和子は堕胎し、恵理菜はひとりで 生むことを決意する。小説だから極端すぎる方が興味を引くかも知れないが、こと家庭・・と言うものの視点からこの小説を読むと非常に悲しい世間感しか感じられない。


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  [No. 127 ]    6月 17日


     集英社e文庫
「真夜中のマーチ 」・奥田英朗
2009年作・ 533ページ

横山健二、ヨコケン・・はまじめに働いて金を稼ぐことなどこれっきしも考えていない、まだ23歳きょうも合コンパーティーを主催してひと儲けを企てていた。

三田総一郎、ミタゾウ・・はそのヨコケン主催のパーティーにまんまと引っ掛かってきた若造だ。ヨコケンよりも一つ年上だが慶応出身の三田物産の社員だ。

ヨコケンは使い走りの手下から「今日の会場にはあの三田物産の御曹司、三田総一郎が来ている・・」と報告を受ける。ヨコケンはアシスタントのボインにぜひあの男のそばに 行って手なずけてこいと命令する。ミタゾウはこのボインに一目惚れし落ちてしまった。

ヨコケンは暴力団と手を組んでこの御曹司から金をせしめようと医者から懐妊証を偽造させて脅しに掛かった。しかしミタゾウは三田という苗字は偶然でよく御曹司に 間違われると告白、ヨコケンは暴力団幹部から「よくも俺に恥をかかせた・・」といってこっぴどくされた。

そんな縁でヨコケンとミタゾウは変な関係で一緒に仕事もするようになった。その最初の仕事は暴力団幹部から要請されていた高級マンションの契約だった、幹部は そこを根城に賭博をしていた。二人はその賭場の売上金を盗みとろうと企み実行に移した。しかしあわやというところで何者かに邪魔をされて儲けがフイになった。

おかしい・・?この部屋の鍵をほかのだれかが持っている・・・、そこに登場したのはなんととびっきりの美女、黒川千恵・・クロチェであった。彼女はここの賭場に出入りする 憎たらしい実父の賭け金もろもろをすべて盗み取ろうと計画していた、しかし一人ではどうにもならずヨコケン、ミタゾウ、クロチェは手を組んでその金を狙った。

しかしその賭場に集まる客の中にもその金の行く末を見張っていたものが居た、中国の二人組もそのうちに居た。。

さて、こうなってくると大きな賭け金をめぐって多くの不届きものたちが暗躍するスリルとサスペンスに満ちた娯楽作品となった。


読み始めはこういろんな事が次々と起こってこの結末はどうなるんでしょうと思ううちにすっかり奥田さんのペースにはまり最後は中国悪人を除いて一件落着と言う ことでハッピーエンドで終わりました。

しかし奥田さんがこの小説を書く題材に当時世間を騒がせた中国窃盗団の記憶がかなり色濃くあってこの小説でも日本人同士の抗争対中国窃盗団・・という 二重構造の図式で面白さを倍加させていた。


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  [No. 126 ]    6月 11日


     中央公論web文庫
「静かな爆弾 」・吉田修一
2011年作・ 342ページ

早川俊平は外苑の終了間際に耳の不自由な女の子、響子を知った。閉苑を知らせるチャイムも係員の勧告も聞こえなかったんでしょう、身振りで教えてあげた。

早川は二週間ほどして同じ外苑で又しても響子を見た、手を後ろ手に組んだ彼女は池の向こうの縁をたどるように歩いてきた。響子もすぐに思い出したらしく「ああ」 とでも言うようにかすかにうなずく。


早川はテレビ局の報道番組の制作に携わっていた、朝も昼もない仕事に追われる毎日の中で響子と暮らしたいと思うようになり響子もこんな私に好意を寄せてくれる 早川に感謝しながら実を結ぶ。たまの休日に二人して買い物をして帰ってくると玄関先に野良猫が物欲しげな顔をして寄って来た。

響子は買い物かごの中からハムをちぎって猫に与えた、早川はそんな響子に偽善的だとメモ紙に書いて渡した。響子はしばらくして考えた後長いメモを書いて早川に 渡した。

「・・・昔、母が玄関先に現れた乞食に食事を与えた事があった。ある時占い師から人の格好をした神様にあった事があるだろう・・・、いつどんな形で神様が試にくるかも 知れないので用心しなさいって教わっているの」。

早川は今日まで手掛けていたバーミヤン遺跡の爆破という事実をもっと深いドキュメンタリーとして一時間番組に堪え得られる構成にしようと苦労していたがなかなかその 先の展開が開けてこなかった。この分では折角の記録も縮小されて単なる報道としてしか道が無いように思い始めていた。

そんな矢先、現地にいる仲間の記者からタリバン組織の指導者とコンタクトできそうだ・・すぐに現地で落ち合おうと連絡が入った。社から取って返して部屋に戻ると響子は 静かに寝ていた、早川は旅行の準備を終えこのまま出かけようとしたがそっと響子にメモを渡して出かけた。

約一週間の取材は大成功を収め以前の収録に厚みを持たせるに十分な資料が揃った。連日の徹夜による作業も大詰めのとき局長がその番組の構成を報告しろという。

「よし!、来週の緊急報道番組として予定を組む!」早川は有頂天になった、そして放送された内容は各方面から大きな反響を得た。久しぶりに部屋に戻ったとき響子は 居なかった。何処かに出かけているのだろうか・・・しかし戻ってくる様子もなかった。


耳の不自由な響子と最先端の番組を制作する早川との絆は小さなメモ帖による筆談というコミュニケーションが頼りだった。お互いのジレンマは若ければ若いほど高まる。 それにしても耳の不自由な子の名前に”響子”なんて・・吉田さんも酷な作家さんですね。

ふっと居なくなってしまった響子はひょっとして早川に巡り合った神様ではなかっただろうか、そう言えばあれほど難しく思えた番組制作も次々と極難をあっさりと越えて 成功してしまった。

雨の中小鳥の餌台でスズメが水浸しの餌が食べられない・・と訴えている、水を空けてあげると早速大騒ぎで食べ始めた、まさかお前たち神様では無いよな。


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  [No. 125 ]    6月  2日


     文春web文庫
「霧の果て 」・藤沢周平
1980年作・ 570ページ

北の定町廻り同心神谷玄次郎は父親の死後その役目を継いだ形となったが今もってそれに繋がる一連の不遇にはいつかきっと晴らしてやるとの思いがあった。

父はある事件を捜査していたが恐らくその為に妻と娘、つまり玄次郎にとっての母と妹が何者かに殺害された経緯があった。それを苦にした父は結局病になり追うように 亡くなってしまった。


この書には一見短編風な7編の殺しを玄次郎が次々と解決していく爽快さがある、しかしその最後の捜索をしていた時思いがけず父の捜査した資料が見つかる。

その事件は奇妙な事に上・・・から「もうこれ以上の探索をする必要はないので打ち切りにせよ!」と言う事も有り残された資料も肝心なところがはぎとられてほとんど記録の 形態を留めていないほどにまでなっていた。

同心のお役目はその捜査の状況を逐一上司に報告し吟味していただきながらの作業である。父のした捜査はもう打ち切りとされていたため玄次郎は全ての報告をする訳 にはいかなかった。しかし上司は見抜いてしまうが玄次郎の私情も理解した、あくまでも現在の事件捜査の上でそれを暴くのなら・・と許可を得た。

果して、その捜査中止を命じた本人の手下が今回の事件に又しても繋がっていることが判明した。

玄次郎はその手下と対峙した、手下は母と妹に手を掛けた張本人であった。そしてその屋敷にはそれを命令した上・・が居る。

玄次郎はその剣豪の手下をしとめた、そして屋敷の中に入り黒幕の上・・の枕元に立った。その元黒幕の上・・はやっと生きている”生きる屍”の状態であった。

玄次郎はとどめを刺すのもやめてそこを去った。


どんな権力の中枢にいた人間も歳月と共にその肉体と共に権力も朽ち果てて行く、そんなものに父や家族の復讐をした所でもはや何の意味もなさない。
藤沢周平さんの美学がここにもキラリ。


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  [No. 124 ]    5月 13日


     小学館e-Books
「のぼうの城(下) 」・和田 竜
2007年作・ 298ページ

忍城は水田や沼に囲まれた浮城です。それぞれの城門に繋がる道は一間の幅しかないあぜ道のような狭い所を通って行くしかありません。

たとえ大群といえども一気に攻め寄るためには田んぼや沼を進むしかありません。しかもその足場には所どころ深みを作ってあって雑兵はほとんど戦意を失ってしまった。

三成の攻め方で一番の失策は数で圧倒的優位にある鉄砲隊をこの泥田んぼに閉じ込めて敗走させられたことです。そして次の策として重大な決意をした。

以前秀吉が備中高松の水攻めをしたときに受けた感動をそのままそっくり真似てみようと言うものだった。三成は関東周辺から金に物を言わせた労働条件で集めた人夫 を28kmの建設予定地に長々と配置して底面20m、上面7m、高さ9mの台形の人口堤を僅か5日で完成させた。

そして利根川と荒川から引き入れた水を一気に忍城に向けて放流した。こんな大掛かりな水攻めをされては堪りません、忍城は本丸のみ残して水没してしまった。のぼう・・ 長親はすべての農民兵までも本丸に土足で上げさせて水から避難した。

やおら長親は小舟に乗ってその湖面に乗り出し三成本陣の50mまで接近してなんと農作業のお祭り踊りを始めたのではないでしょうか。これには両軍ともに度肝を抜かれた と同時に三成はこの度胸のある敵将、長親に強く嫉妬した。三成は重臣の止めるのも振り切って狙撃兵に狙撃を命じた。

長親は肩を打ち抜かれてもんどりうって小舟から転落、すんでのところで家臣に救われ城へ逃げ帰った。

これを見ていた兵や農民は想った・・・、「のぼう様は大丈夫だろうか、憎っくき三成め・・」、その夜農民の手で人口堤に穴が開けられた。堤から漏れ出た水はたちまち 大洪水となって三成たちの陣屋を襲った。またしても三成はこの戦に負けてしまった。

ちょうど小田原攻めの秀吉から使者が三成、長親の両者に届いた。小田原城は落ちた、従って支城である忍城の戦いは不要である。つまりもう忍城は秀吉の属城に なってしまったとの通達であった。

長親ら重臣もほっとした、まさか秀吉の本隊と戦う事はないからであった。城を明け渡すにつき三成陣営の使者を待った、三成は一目で良いからこの敵将とはどんな男 であるか自分の目で確かめたいと言う事もあった。敵の陣地に異例の総大将自ら出向くと言う、重臣正家と共に忍城へ向かった。

三成が出した和議の条件は三項、城にいる士、町、農民は一両日中に退去すること。百姓は必ず村へ戻り逃散せぬこと。士分は所領を去ること。であった。

長親は「承った・・」と返答した、そのとき正家が口を出した。「まだある、士分は一切の財貨を置き捨て、所領を出よ。城の兵糧、刀槍の類も例外ではない・・」

おもむろに長親は言った「財貨や兵糧を置いて行け・・とは、我々に死ねと言う事か?、われらは未だ余力も充分ある。死んだつもりで戦ってやる上、出直してこい・・」と。

「成田殿よ」三成が呼びかけた。「そういじめんでくだされ。殿下の仰せは開城のことのみにござれば、他のことは無用かと存じまする・・」またしても正家はここでも失策を し皆の笑いものになってしまった。


和田さんは大阪の生まれと言います。ですからどちらかと言うと関東より関西の秀吉や三成のひいきの気持ちが大きいのではないかと思います。でもなぜ関東の行田に 目を向けてしかも三成がのぼう様にコテンパンにのされる小説を書いたのでしょうか。

和田さんは『成田記』『行田市史』『鴻巣市史』をはじめとして秀吉、三成関係など33誌にも及ぶ文献をもとにこの作品を作る構想を練られたと思います。そこには”坂東 武者”の武功に対する清さに魅かれたのかと思います。和議が終わって三成が帰る時長親の重臣は三成に問うた、「して、支城は幾つが残ったのか?」「ご存じなかった のか?この城だけだ、落ちなかったのは。当方には甚だ迷惑ながら坂東武者の武辺を物語るものとして100年の後も語り継がれるであろう」と。

窮鼠猫をかむ・・という言葉がありますが圧倒的な大軍を持って開城を迫った折高飛車に出た使者、正家は戦争にさせてしまった。そして和議の席でも又しても皆の笑い 物にされてしまった。自分方に圧倒的な”利”を思っても相手の立場を理解できない交渉はただのケモノでしかない事を教えてくれる。

この小説は映画化されたが公開のやさき3.11地震津波災害が起こった。映画には迫力ある”水攻め”のシーンもあると言う、この時期の公開は不適切として来年まで 延期すると言う。


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  [No. 123 ]    5月 11日


     小学館e-Books
「のぼうの城(上) 」・和田 竜
2007年作・ 315ページ

成田氏一門の領主、成田長親は領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ親しまれていた。

天下を統一しかけていた秀吉は関東に勢力を持つ北条を落とそうと小田原に攻め入った、北条は支城である忍城々主に小田原篭城参加を通達した。

城主氏長は北条に従うよう見せかけて裏では豊臣と内通していてイザの時には忍城は開門して豊臣に就くと言うものであった。

秀吉は未だ武運の無かった三成に忍城を討ち武功を立てるよう命じた。三成は忍城がすでに降伏しているとは知らずに2万の兵を持って出発した。忍城は僅か500。

湖に建つ浮城として有名な忍城を前にして三成は降伏するかどうかの使者として正家を使わせた。しかしこの正家の傲慢な振る舞いに降伏を決意していた成田長親は 意を翻して「否!、戦い挑む!」と言ったのです。重臣家臣もその言葉に驚いたがもっと驚いたのは使者の正家であった。

それは使者としての役目を担った正家の失敗ではあったが三成はすでに失敗してくれることを望んでいた。彼は今までかつて武運らしい功績はまだ無かったのだから こんな好機は又しても無い機会であった。しかも勇猛な関東・武蔵の武士と戦えることに闘志をみなぎらせた。


住めば都・・という言葉がありますが私もすでにここ川口市の丘陵地帯ではありますが生涯の半分以上を過ごすようになりました。そしてその目を向ける方向は都心の方 では無く郷里として武蔵野台地や更に奥の「さきたま・・」に向かうのです。行田市史跡「忍城」を題材にした小説にも馴染むのです。


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  [No. 122 ]    5月  6日


     幻冬舎文庫e-Books
「吉原手引草 」・松井今朝子
2007年作・ 407ページ

松井さんはわたしよりひと廻りもお若くして遊郭・・・つまり江戸時代の一文化について随分とお詳しくていらっしゃる。そして遊女という商売があって私の記憶では中学を 卒業するころ法律で禁止された・・・と。ですからこの話に出てくる言葉のほとんどはいまわ使われない死語となって居てなかなか理解に苦しむ。

たとえば旅籠・・ハタゴ、遊郭・・クルワ、新造・・シンゾウ、遺手・・ヤリテなどは現在でも読めますが花魁・・オイラン、敵娼・・アイカタ、幇間・・タイコモチ、禿・・カムロ、となると 読むことも意味すらも判らなくなるばかりかふんだんに登場するのです。

もうひとつ、全ての文章は口語体です。ですから現代文学のように話し言葉を「・・・」で綴るような書き方で無いため400ページの本でも文字の数が半端で無く、ページは びっちりと文字で埋まって居て実質700ページほどのボリュームがあるのです。文章全体はひとりの戯作者・・ゲサクシャがある花魁の起こした事件をそれぞれの関係者 から聞き出してその事件の本質に迫る・・といった設定です。


さてその関係者は17人、事件を起こしたのは当時人気絶頂の花魁”葛城”が突然に失踪したことにある。遊女の住む廓は吉原という特別な地域にあって、遊女はそこを 自由に出入りすることはできません。なぜなら遊女たちは借金の形・・カタ、のため見受け人となる楼主が居て年季があけるまではそこから出ることはできないのです。

ですからそんな、しかも人気絶頂の花魁が客人を殺してその騒ぎの隙に男装して失踪したことはひとりで計画し成し遂げることはできません、多くの賛助者がいて失踪に 手を貸したと言っても過言ではありません。

多くの客人の証言では花魁の葛城は皆、「私を信頼していてくれてしまいには私こそが見受け人となって幸せな余生を送らせてあげたかった・・」。


現代にも通じるオトコとオンナの関係、そしてこの話の中にはご本人の”葛城”の弁明は一言も発せられていないのです。男のうぬぼれの心情を女性である松井さんは微妙 な筆執で書きあげているのです。直木賞受賞作品。


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  [No. 121 ]    4月 23日


     集英社e-Books
「東京物語 」・奥田英朗
1989年作・ 596ページ

名古屋出身の田村久雄は予備校に通うため上京した。父親とはあまり言葉を交わす事も無かったが母と姉は何かと久雄の面倒を見てくれた。

「春本番」18歳頃でしょうか、「レモン」19歳、「ある日聴いた歌」22歳、「名古屋オリンピック」23歳、「彼女のハイヒール」26歳、「バチェラー・パーティー」30歳と 設定してみた。

予備校そして晴れて大学の文学部に進み演劇部に籍を置く。しかし父親の経営する会社が倒産し、久雄は大学を辞め就職した。まだ21歳の若さではあったものの広告 代理店の下請け会社では彼は優遇されてコピーライターの仕事を任された。

よく仕事ができると言う事で親会社の担当者にも社長では無く彼自身が直接仕事のアドバイスを受けたりしながら自信も大きく飛躍して行った。そして小さい会社の中では あるが二人の部下を与えられ更に仕事に拍車を掛けた。

26歳、そんな時母が上京し食事でもと誘われ銀座のホテルへ出向いた。母の同級生と言うオバさんも居てその娘も同席すると言う・・。「変だ!?」これは親同士のたくらんだ お見合いであった。相手の彼女もかなり困惑していた。当然結末はかんばしくない。

久雄は仕事の手を広げコピーライターとしてではなく独立して事務所を構え企業の企画立案までするようになった。この事務所はデザイナーや同業の同世代同志で共同で 借り上げて使っている。久雄は地上げを生業とする顧客の仕事だけでも年収1千万にもなるようになった。事務所仲間の内ひとりが結婚すると言う、俺たちも皆30歳だ、 結婚前の彼のために男だけで独身最後のパーティーをする。


久雄は将来の願望として音楽が好きだから”音楽評論家”なんかで飯が食えればいいな・・・と漠然と思っていた。芸大の友人と後楽園で開催されていた”キャンディーズ” のさよなら公演を見に行ったところで変なおじさんにいちゃもんをつけられた、「若いもんが評論家なんかになってどうする、客席から人のやることに難癖をつけるような仕事 はジジイがやるもんだ、若いもんは舞台に上がってへたくそでも構わん自分の頭と体を使って一生懸命なにかを演じなきゃだめだ」そして「失敗の無い仕事には成功もない。 成功と失敗があるってことは素晴らしい事なんだぞ・・」

そして久雄が若くして初めて2人の部下を持った時、部下の仕事ぶりがとても不満で当たり散らした。社長は久雄に言うのです「皆が皆仕事一途なわけじゃないんだ。・・・ うちみたいな小さな会社では定時に帰るってのは不可能だし、仕事優先じゃなきゃ困る、だいたい若い内に仕事に夢中にならなくてどうする、趣味に生きるなんてのは 年寄りのやることだ。”でもな、やっぱり程度ってもんはあるんだよ」

久雄はコピーライターの仕事が絶頂期の時親会社のスタッフに指摘された「田村君、誰が君にエッセイを書いてくれと頼んだんだ・・?、商品よりも君自身が自己主張 しようとしている、自分で気づいているか?。鏡に見とれている人間は自分しか見ていない。周りの景色は目に入っていない。自意識とはそういうものだ」


青春って二度とめぐってこない大切な時期です、でもその大切な時期に自分は今いるんだと言う実感はほとんどありませんでした。こうして田村青年は周囲の環境から 大切な体験を通して将来作家として羽ばたくことになるのです。少し自分の人生と重なる部分を思いながらほろ苦く楽しく読みました。

この本は岐阜県出身の作家、奥田氏の青春期を名古屋出身の田村に名を借りていわば自叙伝的に書き下ろした私風の解釈による”青春切符”である。


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  [No. 120 ]    4月 18日


     青空文庫
「俗天使 」・太宰 治
1940年作・ 25ページ

晩ご飯を食べていて、そのうちに、私は箸と茶碗を持ったまま、ぼんやり動かなくなってしまって、家の者が、どうなあったの、と聞くから、私は、あ、厭きちゃったんだ、 ごはんを、たべるのが厭きちゃったんだ、とそう言って、そのことばかりでは無く、ほかにも考えていたことがあって、それゆえ、ごはんもたべたくなくなって、ぼんやりして しまったのであるが、けれども、それを家の者に言うのは、めんどうくさいので、もうこのまま、ごはんを残すから、いいかね、と言ったら、家の者はかまいません、 と答えた。


恐らく、太宰治の作家としてのやるせなさ・・・がヒシヒシと伝わってくる節回しである。妻子を前にして夕ご飯を食べながら原稿の締め切りを思いながら、しかしその稿の 糸口すら見つかっていない自分のいたたまれない状況が手に取るように伝わってくる。しかも作家のくせにこの句読点までの長ったらしい文章はどうした事でしょう。

彼は明後日までに二十枚の短編を新潮社に送らなければならないのに書きたいものが全くないのです。しかしすでに書こうと決めた作品「人間失格」の構想は確実に 進んでいるのに・・・。

元々彼の作品は自分の生活をそのまま文章(スケッチ)化した作風です。ですからそれほどの苦労も無くありのままを書いていけば出版社も読者も喜んでくれていた筈、 しかし彼は夕ご飯を食べながらミケランジェロの「最後の晩餐」の写真を見ていたら恐らくすっかり自分の作風に嫌気がさしたのでしょう。

・・・もう種が無くなった。あとは、捏造するばかりである。何も、もう、思い出が無いのである。語ろうとすれば、捏造するよりほかはない。だんだん、みじめになって来る・・・。

現代の小説家は自分の創作を”捏造”なんて卑下した言葉なんか使う事無くドンドンと原稿を書いて収入を得ています。恐らく太宰治と言う人はそんな事に罪悪感を 想いながら心の内の事実のみ文章にしたためているんでしょう。

しかしこの後の8〜9年間に絞り出すようにして書かれた数々の名作は自分自身に命を絶たせて懺悔録としたと私は想うのです。


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  [No. 119 ]    4月 11日


     小学館e-books
「感染 」・仙川 環
2002年作・ 446ページ

仙川環氏は大手新聞社で医療技術、介護、科学技術などの取材をしながら小説を書きこの書で第一回小学館文庫小説賞を受賞し執筆活動に専念した。


東都大学病院で感染研究をしていた仲沢葉月は同じ病院に勤務する有能な外科医、啓介と結婚した。彼はアメリカで臓器移植を手掛けていたがその実力で その名は広く知れ渡っていた。

彼がウィルス研究を専門としている葉月の教えを請いに来た時は驚いたが夜の比較的暇な時間帯に啓介は葉月の所に話をしに来るようになった。

或る夜ひどく酔って研究室に現れた啓介は仮眠を取るソファーで強引に葉月を抱いた。啓介には妻もそして3歳になる息子もいたのに。

彼は悩んでいた、日本では子供の臓器移植は認められていない。どうして臓器を提供してくれる人が少ないのか脳死は判定ミスでもない限り生き返ったりはしない、 それなのにどいつもこいつも心臓や肝臓を灰にしてしまう・・・。

啓介の子は重い心臓疾患があり早期に移植をしないと助からない、そのころ異種移植の研究はかなり進んではいたが未だ許される段階では無かったそれは感染症 の問題を克服できずそのため、臨床試験も思うようには進んでいない。

しかし、自分の子を救う手立てがほかに見つからない事から啓介はその一線を踏み越えずには居られなかった。

手術は感染症を併発しいわば失敗であった、しかしその強力な感染力を抑えるためそのウィルスが生じたことの公表をためらった。啓介の取った行動は医者としての 勝手な論理だと責められるのも仕方が無いことである。


仙川氏は医療関係の取材を通して子供の臓器移植の法的根拠も充分考慮したうえで今後に向けた多くの課題をこの作品で私達に考えさせてくれた。時を同じくして 福島原発の事故、私達の科学に対する挑戦ともいえる苦行はまだまだ果てしもなく続くのです。


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  [No. 118 ]    4月  3日


    潮出版 Web 版
「パエトーン 」・山岸涼子
1988年作・ 46ページ

アポロの息子パエトーンは全能のユピテルの子エバプスと今日もレスリングをしていたがまた負けてしまった。観戦していた仲間たちもやはりエバプスは全能神ユピテルの子 だけあってパエトーンのような人間などには勝つことなどできないだろうと言ってもてはやした。

僕だって神の血が半分は流れているんだとあがいてみた。パエトーンは止める母を振り切って父親に会いに行く、太陽の神アポロは言う「パエトーンよ、そなたはまさしく私の 息子だ、その証拠にお前の望むものは何でもかなえてやろう・・」

「ハイ、父上、それでは僕にあの“日輪の馬車”を使わせてください!」と言う。

「ム、ム!、パエトーンよ、それだけは叶えてあげることはできない、ほかのことなら・・」「父上、何でも・・・と言うのはウソでしたか?」

こうして人間の子パエトーンは太陽の馬車を手に入れた、しかしパエトーンにはおよそ手のつけられない荒馬達の暴走はたちまちのうちに緑の森を焼けつくし、清らかな山河 も見る見るうちに砂漠となって行ってしまった。

このありさまを見ていたユピテルは大変怒ってパエトーンを馬車もろともその全能の稲妻を投げつけて消し去ってしまった。


1986年のチェルノブイリ原発事故を教訓に山岸涼子さんはこの本を書いた、今から23年前に出版した本が何故又注目を浴びているのでしょう。今度の東日本災害に 伴う福島原子力発電所の事故はまさしくパエトーンにはもはや制御できない日輪の馬車として後悔先に立たずの様相を呈してきた。

核エネルギーを”危険だから放棄する”のは人類にとって屈辱だ、火だって危険だけどそれを征服して発展してきたんだ・・・という奢りを指摘します。

私たちは火と核を同じ目線で見てはいないだろうか、火は水を掛ければたちどころに消える。しかしこの核分裂によって生じたプルトニウムは例えばその半減期が2万4千年 という死の灰をドラム缶にとじこめて深い地層に埋めてしまえば安全・・・という考えに果して次の世代に”安全”として受け渡す事ができるでしょうか。

今回のような地殻変動による災害はもう2度と無いとだれが断言できるでしょうか、コンピュータによる万全な管理といいますが所詮は人間が制御管理する原子炉です ミスは人間が管理する以上絶対に起こりうることです。

核融合は太陽の大きさの規模だからこそ安全が可能であってホッカイロやましてやバケツの中で制御できるものではないことが今頃になって鮮明に感じるのです。


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  [No. 117 ]    3月 27日


    青空文庫
「張紅倫 」・新美南吉
1929年作・ 19ページ

青空文庫というのは国内において著作権が消滅したり著作権者が送信可能化を許諾した作品を収集公開しているインターネット上の電子図書です。
各作品はボランティアの手によりテキストファイルやHTMLとして電子化されています。私たちはそう言った作品を無料でダウンロードして読むことができます。


中国奉天での戦争で大隊長青木少佐は厳しい寒さと眠気を我慢して警備に当たる歩哨に声を掛けながら見回っていた。「第三歩哨、ロシア兵に異常は無いか・・」

次の歩哨にの所へ向かったとき不覚にも草むらに開いた深い穴に落ち込んでしまった。4m以上の穴らしい、どうやら水の枯れた古井戸に落ちたらしい。

少佐は大きな声をあげて歩哨を呼ぼうか考えたがロシアの斥候に聞きつけられて殺されるかもしれないと思ってだまってこしを下ろした。

夜が明けて何とか出ようと蔦に飛びついたりしてみたが所詮無駄であり体力も消耗した。又日が暮れ腹も空いたがどうしていいのかと考え倦むうちまた寝てしまった。


気の遠くなりかけた少佐の耳に「しっかりしなさい・・」と少し知っている中国語が聞こえた、びっくりして目を空けると少年が縄を伝って降り立っていた。
少年は縄で少佐の胴体をしっかり結び先に登って少年の父親と一緒になって井戸の外へ引き上げました。助かったと思って少佐は又気を失ってしまった。

みすぼらしい中国人の百姓の家で身体の回復するまでいることになった。十三、四歳くらいの少年は付きっ切りで看病してくれた、名を張紅倫という。

ある日畑で働いていた父親が帰ってきて「困ったことになりました、村のやつらがあなたをロシア兵に売ろうと言います、早くここから逃げてください」少佐はお礼にといって 懐中時計を渡して逃げた。


戦争も終わって少佐は退役し都会の会社に勤めました。十年もたったころ少佐は会社でも上役になっていました。ある日会社の事務室に中国人の物売りが来て「こんにちは。 万年筆はいかが」、しかし受付の男は「いらんよ!」とうるさそうにはねつけました。

その時ちょうど奥の方から出てきた青木は「おい、万年筆を買ってやろう・・」と言って買うと物売りは「ありがとう」そして代金を受け取ると出て行った、帰り際に懐中時計で 時間を確かめるしぐさを青木は見て「きみは、張紅倫と言うんじゃないかい」ときいた。「わたし張紅倫ない」と出て行ってしまった。

後日青木に読みにくい中国語の手紙が届いた「わたしは紅倫です、軍人だったあなたが中国人のわたくしに古井戸の中から救われたことが判るとあなたのお名前に かかわるでしょうから嘘をつきました。さようなら、お大事に、さようなら」


中国は今や世界第二位の経済大国です、私の青少年期中国の人々に対する印象はここに登場する張紅倫さんのように思いやりのある思慮深い人々という印象が強く ありました。ですから毒餃子事件、尖閣諸島沖の中国漁船の振る舞いやあちこちの犯罪組織窃盗団などのニュースを見聞きするたび先ず疑いの目で見てしまいました。

新美南吉、14歳の時の作品と言います。児童文学作家としてあまりにも有名ですが30歳の若さで亡くなってしまいました。ですから南吉少年の見た中国の人々というのも 私のはじめから思っていた印象をそのまま作品にしたようなものです。私に人を見る目が無かったのか、あるいはその人たちが突然に変わってしまったのかその答えは わたしも南吉少年にも不明です。


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  [No. 116 ]    3月 23日


    小学館e-books
「利休椿 」・火坂雅志
2006年作・ 517ページ

伏見、宇治川を見下ろす日当たりのよい土地に侘びた草庵風の家が建っている。ただし庭だけは広く、百本をこえる椿の木が所狭しと植えられていた。

ここの住人はひとり者の又左と言う椿の花職人であった。又左は9年前じゅ光院の庭で庭職人として働いていた、時折訪れた茶人の利休が又左の椿作りの腕に惚れて もっと大きな仕事をしてみないかと椿専門の花作りとして独り立ちすることを進めて住まわせたのであった。


ある日利休の娘であるお鈴が今日も遊びがてらに又左の屋敷の椿を見にやってきた。

「父よりのことづてでございます。近々、京のじゅ楽第の庭を造作することになったゆえ、庭に植える椿を選んでおいてくださるようにと・・・」


「又左、そなたはこの庭に、いかなる椿がふさわしいと思う」と利休の問いに又左はすらすらと銘椿の名をあげ彼をうならせた。

更に利休はいう「わしは最近椿の花の夢を見た・・・しかもその色は鮮やかな紫・・」「わしは、その花がわすれられぬ。うつつにも忘れることができぬ」「わしのために、紫の 椿を探してくれぬか」


又左は実は昔、紫の椿の花を見た事があった。そして利休に紫の椿を探しに行くといってあちこち回ったがどうしても見つけることはできなかった。

「やはり、故郷へ戻らなければならぬのか・・・」そこを最初に探せば良かったのだがそうしなかったのには深い訳があった。

又左の故郷、伊予大洲。城主宇都宮家に禄高二十俵で仕える小身の武士であり、三宅又左衛門と名乗っていた。しかしかれ三宅家には大洲の武家屋敷の中でもひと際 見事な大椿があって城下の評判であり多くの人がその椿の見物に来た。

その見物に来た者の中に母親に連れられて椿見物に来た娘に佳乃がいた。この娘と心を通わせるようになったころ佳乃の容姿の評判を聞き付けた旗奉行の嫡男 仁衛門が見初め嫁に行ってしまった。

又左は身分も違う仁衛門と争う事無く引き下がったが、ある日ひょんなことから神社の境内で佳乃とバッタリ出くわすことになり「わたしを連れて逃げてくれ・・」と。

待ち合わせた時刻に佳乃は見えなかった。しかも仁衛門の手下になる追手に追われることになった、追い傷を負いながらも鳥坂峠の山中をさまよい歩いていた時に 紫椿を確かに見た。

あの事があって以来知る由もなかったが佳乃は自害してしまった、そして仁左衛門は又左が戻ってきたら殺そうと待っていた。佳乃の命日と言う日に又左はその墓参り に寄ったが仁衛門と対峙してしまった。

又左はすでに武士を止め手には何も持っていない、仁衛門はそんな又左を斬らなかった。美しい佳乃のために二人の男の人生が狂ってしまった・・・。


又左はあれから鳥坂峠山中をくまなく探し求めたが紫椿はとうとう見つからなかった。そしてお鈴にそのことを伝えたが利休は秀吉の逆鱗に触れ切腹を命ぜられた。

美しい女をめぐって二人の男の人生は狂ってしまった。高根の花・・紫椿の花を求めた利休もまた夢で見た紫椿に逢いたいと孤高なまでの美の探求、そんな心を百姓育ちの 秀吉に理解できるわけがありません。テレビ大河ドラマ「天地人」の原作者でもある火坂さんの佳作でしょう。



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  [No. 115 ]    3月 18日


    小学館e-books
「森崎書店の日々 」・八木沢里志
2009年作・ 321ページ

貴子が森崎書店で暮らしたのは夏の初めから初春にかけてのことであった。その期間叔父さんの営む神田神保町の古本屋の二階にあるある空き部屋で、本に埋もれる ようにしてすごした。

決して忘れえぬ、大切な場所。それが、わたし貴子にとっての森崎書店なのだ。


貴子は福岡の大学を出て就職のために上京しそこそこの会社に勤めていた。

仕事も慣れて落ち着いてくると気がつけば気の許しあえる恋人がいた。職場の三つ先輩で貴子が入社当時からずっとひそかに憧れている存在だった。

そんな彼から「俺、結婚するんだ」と言いだしたのだ。貴子は「・・??、」。「結婚しよう」ならわかる。「結婚したい」でも意味は伝わる・・・。

少なくとも貴子は職場では彼とそれと判らない付き合いをしていた・・・、しかし何と彼は別部署の女の子の名をまったく悪びれる様子もなく口にした。

貴子は大きなショックを受けた、そして体調も崩した。とうとう会社にも退職届を出して止めることになった。

貴子は暫くの間もうろうとして暫くアパートで過ごしていた。そんな時今まで音沙汰もなかった古本屋を営む叔父から電話があった。

「貴ちゃん、久しぶり。ちょっと良かったらうちの店を手伝ってくれない・・?、」。明らかに心配した母の差し金からそんな誘いなのは判り切った事だ。

しぶしぶ訪ねたその古本屋は祖父が創めてそのあとを叔父が受け継いでいたのであった。本屋の二階に小さな部屋があってそこに住みながら叔父が通ってくる朝の うち暫くお店を空けて留守番をして欲しい・・・。

未だ高校生の時あったばかりの叔父から話を聞くうち叔父の葛藤にも触れる、若い時自分の求めている物が判らず居たが安定してみてもそれは一生をかけて少しづつ 判って行くものかもしれないよ、あせらなくてもいいよ・・・と。

貴子はしだいに古本屋の住人に慣れてきた。今まで本など読んだこともなかったが余る時間だんだん読書もするようになった。古本を読んでいると以前に読んだ読者が それに感動して横線を引いてある。その部分に自分も感動し共有できたことに驚きと感動するようになった。

更に叔父は貴子に伝える。「・・大志を抱いて世界に飛び出して、最後にたどりついた所が自分が子供のころから知り尽くしていた場所だったんだ・・・、それは場所の問題 ではなく心の問題だってことが分かってきたネ」

貴子はもう以前とは違って強く立ち直って居た。そして叔父の所から出てまた一人で力強く生きていけるようになった。しかも古本屋の近くの喫茶店によく行くたび顔なじみ のお客さん・・・実は森崎書店によく通っていたお客さんともお友達になれた。


貴子さんに幸あれ・・・!。


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  [No. 114 ]    3月 16日


    光文社電子書店
「今日の芸術 」・岡本太郎
1993年作・ 435ページ

「芸術は爆発だ」でおなじみの岡本太郎さんの著書に出合いました。副題として「時代を創造するものは誰か」としてあります。

この3月8日から竹橋にある東京国立近代美術館において”生誕100年、岡本太郎展”が開かれています。1911年生まれですからその通り今年100年目と言う 事になります。

1996年、84歳の生涯は決して順風満帆にはほど遠い芸術家としての道を歩まれたと思います。しかもその道は芸術の既成概念に戦い挑む生涯であったこと そして常に「何だ、これは!」と好奇心むき出しの生涯であったとに改めて感銘を受けました


この書で岡本さんは強く訴えています。芸術は特定の人いわゆる芸術家では無く私たち一般の人たちの心の在りようだ・・と言います。

たとえば遊び、その中に「楽しかったけれど空しい・・」と言う事を取り上げます。「遊ぶにしても全身的な充実感、生きがいの手ごたえ本当の意味でのリクリェーションつまり エネルギーの蓄積、再生産としてのリクリェーションでなければ無意味だと言います。

その充実感が鈍感になってはいないでしょうか、家を建てれば要、不要にかかわらず床の間と言う型通りの発想が実質を抜いた約束事に絶望的な形式主義を感じる。

いつも自分自身を脱皮させ固定しない人こそ常に青春を保っていられる、若さと言うのは年齢的なものではなく青春に対する決意が保てるか否かによって決まる。

”ここまで読んでくると私は”芸術とはその人の生き方・・”生きて行く上での基本的な思考かな・・?と感じるのです。この人の考えは全く私の共感の対象です。”

更に岡本さんは言います。
             今日的芸術はうまくあってはいけない
                   きれいであってはならない
                   そして心地よくあってはならない
                                と説きます。


更に私達に呼びかけます。「趣味的に”受動的に”芸術愛好家では無く積極的に自信を持って創ると言う感動とそれを確かめる事が出来れば大手を振って芸術家 と言えるのです」

更に岡本さんは言います。「私はすでにピカソをのりこえている・・」有名な彼の発言でした。海外個展に出発する時記者から聞かれました。

「今度あちらに行かれたら何を得てこられたいと思いますか・・?」

「いや、こちらが与えに行くんです・・」・・・これぞ岡本式だ!


はっきり言ってこの人、私は昔から大好きだった。絵はへたっクソ、口先はヘラズグチ、行動力はすさまじい・・・・、わたしそのものを数十倍に拡大した存在なのです。 2008年に渋谷駅に彼の壁画が展示されたのを機会に”岡本太郎記念館”を訪れました。 (2008年11月26日(水)の日記参照)そして今回の記述や近代美術館でのイベント計画で彼の偉業が次第に高まって行くことの喜びも感じるのです。

彼の絵は明快なのですが文章の表現は難解でその意を解するのにかなりの時間と読み直しを強いられました。約一か月も費やした彼の熱い気持ちは十分に伝わりました、 スキーシーズンが終わったら改めて近代美術館で彼に再会する事を楽しみにしています。


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  [No. 113 ]    2月 20日


    朝日新聞e-Books
「悪人 」・吉田修二
2007年作・ 796ページ

790ページを超える本は私が本を読み始めてから一番の長編になるかと思います。そして昨年末に読んだ「anego」が755ページで次にランクされるかと思います。 これは電子書籍ならではのメリットと言うべきです。実際に邪魔にならず気楽に持ち歩ける本は500ページが限度でしょう、幾らページが増えても本の厚さや重さは おんなじなのです。


吉田さんは未だ40歳を過ぎたばかりの若い作家さんです。長崎生まれ、のち法政大学を卒業後まもなく文学会新人賞を受賞しデビュー、その後山本周五郎賞、芥川賞、 本書で大仏次郎賞、毎日出版文化賞など次々と活躍にふさわしい賞を戴いて今日に至っています。この「悪人」は九州に舞台を置き登場人物の話し言葉はすべて いわゆる九州弁で語られているため多少の違和感も感じられますがかえってストーリーのリアリティーが強く感じられる作品となったと感じます。


福岡市と佐賀市を結ぶ国道263号線の脊振山地の三瀬峠が事件の発端でした。ここでOLが何者かによって殺害遺棄されたことから九州西部広範に亘っての 舞台が展開される設定でした。

久留米駅近くのごく一般的な理容店を営む「理容イシバシ」店主石橋佳男はこの春短大を卒業し福岡市内で保険の外交員を始めた佳乃という一人娘が居た。同じ県内 でもあるし西鉄の電車で通いなさいと説得したが会社の借り上げアパートに引っ越ししてしまった。

若い娘にとってはたとえ可愛がられて育ったとはいえ籠の中の鳥・・のような生活には耐えられなかった。身も心も自由になった佳乃は次第に行動も大胆になって交遊 の範囲も広がって行った。しかしそこには彼女には理解できなかった男の下心までを読みとる術があまりにも幼稚であったのです。

二股を掛けた交際のずれで、ある夜三瀬峠で殺されてしまった。当然のことながらこの事はテレビレポーターにとっては格好の対象となる事件、そして地元では好奇心も あって事件解明の行く末を娯楽映画でも見るように騒ぎ立てた。

実は三瀬峠で佳乃を実際に手を掛けた犯人は他にも彼女と呼ぶ女が居て最後にはその女と共に逃亡することになる・・・。

さて、どこにでもいるふしだらな女とそれに輪を掛けたようなふしだらな男たちそれらの顛末は一般生活を営む例えば佳乃の父親や家族、そして犯人を子供の時に引き 取って育てた祖父母たちには到底理解できない乱れた人間模様が浮かんでくる。

この作品の中で果して誰が「悪人」だったのだろうか、むしろ殺人をしてしまったウブな男は被害者であった女にそうせざるを得ないような誘因を受けてしまったのでは ないだろうか。そしてそう言った環境を甘受する社会的心理によって無秩序に暮らす若者がはびこってしまったせいなのか・・・。


読み終わってこれが吉田修一氏が肌でじかにくみ取った若者社会なのか、はたまた可能性の空想社会なのか私にはわからない。

上越線で沼田駅から乗り込んだ男子高校生、「失礼します・・」と言って向かいに座って参考書を広げました。わたしも「お酒なんか飲みながらで済みませんネ」と言うと 「イエ、景色を充分に楽しんで行って下さい・・」水上駅のひとつ手前で会釈して降りて行きました。

こう言う子らが都会に出るとそれに染まるとはとても信じられません。吉田さんの描く空想的堕落社会は私たち大人がシッカリと”NON”の意思表示を示さないと。


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  [No. 112 ]    2月  6日


    PHP研究所e-Books
「その日ぐらし 」・高橋克彦・杉浦日向子 共著
1994年作・ 321ページ

高橋克彦氏の作品はまだ読んだ事がありませんが多くの大河ドラマの原作をお書きになっていると言います。そして浮世絵の研究にも憧憬が深くしたがって江戸時代の 時代考証についてもお詳しいといいます。

杉浦日向子さんはどちらかと言うと私はファン的魅力を感じていたほど素敵な方でした。NHKの人気番組「コメディーお江戸でござる」はよく見ていましたがその番組の 終わりには彼女が出てきてその演劇の時代考証や興味深いお話に益々魅せられていました。残念なことに46歳という若さでお亡くなりになってしまいましたが今でも 彼女の口癖だった「早く隠居生活がしたい・・・」と言う言葉が耳に憑いて離れません、ご冥福を祈ります。


副題として「江戸っ子人生のすすめ」となっていてご両人の対談された内容がそのまま本になったわけでたまにはこんな本も気休めに・・と読みました。

おふたりとも江戸の町の時代考証については特に詳しく、テレビドラマに出てくる町人の暮らしぶりの不自然さを強く否定していました。

特に時代物のドラマの制作担当者は歴代大阪出身のディレクターが主体に制作したため江戸町人の暮らしぶりを大阪の町人とすれ違えらせ我々の脳裏に刷り込まされて しまった。ですから今改めて江戸の町の風俗を再現しようとすると我々は違和感を覚えてしまって止む無く修整されないまま現在の表現に頼っている・・と言うのです。

江戸時代の町人の家屋って本当にちゃっちくてだだ広い関東平野に屏風や衝立を立ててビバークしていたみたいな雰囲気で無いといけない。

そしてすぐに火事で家を失い物も失うので物に執着しない江戸っ子気質が養われていったという、ことに男性の8割方は独身で生涯をすごし、長屋で結婚した男が居ると 宝くじに当たったような大変おめでたい事だったと言う。

多くの男性は下級武士も含め地方から江戸に出稼ぎにきたもので女性は大変もてたといいます。そして江戸には吉原というシステムがあったおかげでむしろ性に対しても 女性自身、性を大したもんでは無いと認識していたようであると言う。

皆ニコニコしながら貧乏している。おかみさんに「おひつが空っぽだよ・・」と尻をたたかれて働きに出たもののもう2時ころには帰ってきて酒を飲んでしまう・・。

ローンを返済するために毎日あくせく働く現代のサラリーマンの世界はそのまま武士階級そのものだと言います。


久しぶりにユーモアあふれる人々の暮らしぶりに触れて思わず気持ちまでおおらかになった気がした。わたしも杉浦さんに習って「早く隠居がしたい・・・」


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  [No. 111 ]    1月 25日


    中公文庫e-Books
「痴人の愛 」・谷崎潤一郎
1985年作・ 589ページ

何時だったか何かの機会にこの題名が社会的話題にあった事がうっすらと記憶の中にありました。
痴人・・とか白痴と言う言葉と愛・・から私の先入観念として”痴漢”の語彙に似た物を感ずるのです。先だって吉行淳之介氏の「・・・女は怖い」を読んだ後の続編と言う 意味でこの本を読んで見ようと思いました。


恐らく時代は昭和初期頃でしょうか・・河合譲治28歳、地方から上京し東京の工業高校を卒業し会社では電気技師の中堅社員として働くもののいまだ独身でした。

たまたま浅草、雷門近くのカフェに立ち寄るとまだ幼そうな給仕見習いの小娘奈緒美が働いていた。年はまだ15歳ではあったが河合はいたく心が動いた。こんな可愛い 子をこんな所で働かせて世の中によって汚されていくのを見るのは忍びない・・、ここはひとつ自分で引き取ってやって高い教養を身につけさせればきっと素晴らしい女性 に成長するかもしれない。

しかし河合にとってはその中にも多少の下心はあった、いずれこの子さえその気になってくれればいずれは妻として迎えてもいいのではないか・・・と。

河合は彼女を引き取って音楽教師や英語教師などにつけさせて教養を高めようとした。しかしもともと顔立ちは良かったが奈緒美は物事を究極的に知識を求めようとはせず 楽な方へ楽な方へと逃げるたちであった。しかし河合はその精神と肉体の両方面から奈緒美を美しくしようとしたが精神の方面ではどうやら失敗したようでした。一方肉体的 には自分がこれほどにまで彼女が美しく育ってくるとは思いもかけないほど素晴らしいく成長した。

河合はすっかり美しく成長した奈緒美を妻として向かい入れた、ここまでは実に計算通りのもくろみであった。しかし、奈緒美はと言うと河合を裏切りとても教養のある女とは 裏腹な淫縻な行動を平然ととるようになった。大変な浪費癖、食事はすべて天や物など取り寄せ、洗濯などは一切せず衣服の方付けも出来ない。極めは男友達と実に 巧妙に落ち合っては河合の目を盗んできた。

ついに河合は奈緒美を追放した、しかしその事について河合は大変後悔した。自分の育ててきた奈緒美がいまほかの男に抱かれている事を思うと居ても立っても居られない 心境に悩まされた。彼は何とか縒りを戻して奈緒美と生活する事を択んだ。

河合の獣性は盲目的に彼女に降伏する事を強い全てを捨てて妥協させてしまうようにさせるのです。奈緒美は彼にとって最早尊い宝でも無く有難い偶像でも無くなった 代わり一箇の娼婦となった、つまり恋人としての清さも夫婦としての情愛ももない、もうそんなものは昔の夢と消えてしまった・・・と落胆するのです。

河合は全く彼女の肉体の魅力、ただそれだけに引き摺られつつあったのです。これは奈緒美の堕落であり同時に河合の堕落なのです。


世の中には男と女しかいません。吉行氏と谷崎氏の作品を並べて考えてみるとそこには極端に女性蔑視の見方が読みとれます、だからどうのと言う事ではなくそこから 言わんとする男の”獣性”に対する冷やかな見解を垣間見ることが出来ます。

先日やはり妻に先立たれた友人と酒を呑んだ事がありました、そこで話題になった事は言葉は違いますが男の獣性をどうやってコントロールするかと言う事が話題に なりました。私は人間性・・・という観点で意見を言いましたが年の違わない友人にはまったく理解できなかったようです、イヤハヤ。


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  [No. 110 ]    1月 20日


    朝日新聞e-Books
「骨董掘り出し人生 」・中島誠之助
2007年作・ 275ページ

テレビ番組で「なんでも鑑定団」は私の楽しみにしている番組です。私も絵画や陶芸作品について自分なりの鑑定をし、その通りだとなると”してやったり!”、しかし多くの 鑑定は”ホントケ〜?”となってその落差を大いに楽しんでいるところです。
「良い仕事をしていますね〜」のセリフでおなじみの中島誠之助ってどんな人だろう・・・と読んで見た。


彼は幼少のころに両親と死別、伯父伯母などに育てられて特に骨董商を営む伯父について学んだ・・、と言うよりはその神髄を教えてもらう事は出来なかったものの 見よう見まねで”盗み取った”と言った方が正しいかもしれない。

その伯父は空襲で焼けただれた尾形乾山の焼けただれた手鉢を掘り起こし後生大事に持ち帰ってきた。そしてご飯の時には三角に切られたキュウリの浅漬けを盛る、 乾山とキュウリを毎日眺めながら・・・、彼は美しいとか美しくないの問題ではなく、ものを愛惜すること、慈しむ事を学んだと言います。

そして彼はその頃は全く思いもしませんでしたが、焼けただれた乾山の手鉢とみどり美しいキュウリの切り口が、美意識の第一歩を踏み出させてくれた・・・この経験が骨董 修業の始まりだと言うのです。

私もこの事にはおおいに同感します。抹茶碗であろうとどんぶりであろうと私は盛りつけて美しさの完成・・といつも感じている事でした、抹茶碗に漬物も美しく映えます、 ぐい呑みに一輪の花弁・・・更に美しく思います。

今の日本は画一的で便利なものばかり求め過ぎていると言います。その合理性の中に無駄としての“美”が登場する間が無い、街を造成して造ってもそこには神社も 無ければお稲荷さんも有りません、日本人が培ってきた美意識の本質は“静と動””明と暗””侘びと華麗”と言った両極端の意識がそれぞれ混ざり合い曖昧で混沌 としたものがひとつの形となっているというのです。

鑑定をしていてお客さんが大切に保管し愛用し愛でていたものがたとえニセ物であったとしても物を慈しむ気持ちの大切さを伝えてあげたいと言う。

「人生五十年下天のうちをくらぶれば・・・」織田信長が愛称したと言う一節が彼の人生のすべてを表していると言います。裸で生まれてきた人間が死んで無に帰るとき なんの損得があるものか。ゼロから始まって人生劇場を舞い納めてゼロに終わるのに、虚心坦懐なんの未練があるものか。と結んであります、オレにもそんな事を言わせて。


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  [No. 109 ]    1月 17日


    光文社e-Books
「春夏秋冬 女は怖い 」・吉行淳之介
1989年作・ 234ページ

スキー場にいて朝から晩まで滑る事が出来たのは何十年も前の昔の事です。競技スキーを始めるようになってしかも近年は体の衰えとケアーのバランスを見ながら質の 良い滑りを効果的にするように心掛けています。必然的に滑走しない時間が増えてきます、昼寝するか知人と雑談するか、つまらない番組のテレビを見るしかありませんが それらの時間が優に滑走時間を超えてくるようになりました。


今回は多少娯楽性のある本でもと思って吉行淳之介氏の本をダウンロードして持って来た。

「道徳なんてものは性欲旺盛の者にとって必要なもので、とやかく言わなくてもいずれは道徳を必要としない年齢が来るよ・・・」とまあ、選んだ本が悪かったのかこの作家の 本ですからそれくらいの覚悟が必要だったかも知れません。

「独身の男はつまり女房の目を恐れることなく自由であるためあれは糸のない凧と同じで風のまにまに何処へでも自由に飛んで行けるけれども十分には上がらない。 我々は女房と言うものに縛りあげられているのに、なお女と情を結ぶわけだから女房に糸を引っ張られた凧だ。だからよく上がる。そこにコクがあるんだ・・」かなり負け惜しみの 強い事を言っている。

「女のセックスの品定めをすると怒る女が出てきて困る、男は男女関係において”種付けの役目”をして、おまけに出てきた子供を養うために働くだけの存在である。畑の 善し悪しの鑑定についてぐらい、論評させてもらいたい」とかなり独善的で時代錯誤もはなはだしくなる。

「女をロマンチィックに考えたがる男とは反対に、女の方は極めて現実的なんですね。女は男に追っかけられて捕まってしまって・・・と昔は言っていましたが、実は追っかけ させていた、と言うのを秘密にしていた。ところが最近では女の方からそれを平気で自分の手口を公開してしまっているテレビの”新婚さん・いらっしゃい”はまさにそれだ。 男女共学になって以来、女も男があまり自分たちをロマンチィックな存在として見ていない事を知って、手口を言っても、夢を壊すようなことはないと思い始めた」いやはや。


吉行氏の女性論は面白おかしく女性を見下したところが発端となってごく一部の読者に笑いを提供させるためのゼニ稼ぎだったのか。「第一部 いかに女は怖いか」「第二部  なぜ女は怖いのか」・・手を変え品を変えて男の独りよがりをとうとうと並べたてている。確かに最近結婚しない男性、女性もですが、本質は氏の論じている所とかなり かけ離れていると思う。そう言えばわたしも再婚する気は全くありません、世の中の価値観が女と男と同等な位置に沢山あるような気がして・・・。

夜半から車の外はまるで「シンシン・・」と音がするほどの雪が降り続けます。車のエンジンを切って布団にもぐり込みます。いつしか昼間のスキーの疲れで寝入りましたが、 私の小さな赤い車が恐ろしい”山姥”にすっぽりと覆われて行く・・・こわ〜い夢・・・だったのか。


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  [No. 108 ]    1月 13日


    文春e-Books
「学・経・年・不問 」・城山三郎
不明年作・ 503ページ

城山さんの作品は”辛酸”に接して以来2度目の作品になります。経済小説の巨匠と言われる城山さんにしてはユーモアにあふれる凸凹コンビのセールスマンを扱った 娯楽作品に仕上げていました。


証券会社に勤める敏腕営業マンの伊地岡勇は高卒ながらその活発な努力によって破格の昇進を得て今日も接待ゴルフで汗を流している所であった。

前のグループがいつまでももたもたしたプレーをしているのに業を煮やして見つめた先には高校の同級生野呂久作の姿が目に付いた。野呂は動作は遅いが何事にもじっくりと 考えながら全ての事をこなすタイプで伊地岡の早急な性格とまったく相反していた。

野呂は一応大学は出たものの電機メーカーでは一般職としてカスカスの役職に甘んじていた、今日も監査役のキャディー役のようなことをして過ごしている。

そんな二人の運命を同時に変えてしまうような大事件が起こった。野呂の会社の電機株を伊地岡は高く評価していて顧客にも進めていたが突然の株価操作家の手に よってあえなくつぶれてしまった。

もちろんの事野呂は人員整理となったが伊地岡も顧客に甚大な損害を与えたことで証券会社は止めざるを得なくなった。

伊地岡は妻子を養うためベッド販売会社に転職し持ち前のバリバリ根性である地位を得ようとした。そしてまだ独身の野呂もここに引き入れてセールスマンとして叩き上げ てあげようと気を使ってあげた。

強引なセールスの伊地岡とまったく正反対の性格の野呂ではその営業成績に歴然の差が有った。しかし伊地岡の成績はスランプに陥った、しかし野呂はと言うと職場の 彼女と上手く行くようになりめでたくゴールイン・・そして彼なりのセールスポイントはその人の波長に合わせてじっくりと・・・と言うのが功を奏し始めたのである。

野呂は青森の実家に妻となる女性を伴って父親のひとり暮らしを訪ねた。3日ほどの滞在ではあったがのんびりと父親の牧場で過ごした、柔らかな草に二人して寝っ転び ながら妻のハツ子が思わず口にする「・・ここは、学歴も経験も年齢も関係ない。ここには、ただの人生が、人生そのものが在るのね」


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  [No. 107 ]    1月  5日


    中央公論社e-Books
「どくとるマンボウ航海記 」・北杜夫
1960年作・ 432ページ

本、例えば文庫本にしても買うとその作家のプロフィールが載っていて「ああ、この人は私と同じ世代の人だ・・・」とかその他いろんな情報が有って更にその作品に親密さ が湧いてくることもありました。この電子書籍ではそう言った補助文章が無いので多少の戸惑いが有ります、それはそれでいいと思います、私はただ読んだ感想を 書くだけですから・・・。

この作品は系譜的に見れば前回読んだNo,103の「夜と霧の・・を」書き上げた次作品と見受けられます、かなり趣も変わって面白く読み終える事が出来ました。


1958年、北さん32歳のとき外国に行きたい・・と言う一心から政府の留学試験に応募したもののいっこうに採用されず気がめいっていた所仲間の”空き”に滑り込む事が できた。それにしても前作とは表現方法や読者に知ってもらいたい・・という内容がこれほどストレートに繋がる文法を持ち合わせていたことは素晴らしい事と感心しました。

当時、水産庁の漁業調査船の船医という名目で600tほどの小さな漁船で6カ月の航海をする幸運に恵まれた。航海はインド洋から紅海、スエズから地中海を経て ヨーロッパ沿岸、そして帰路につきますがその寄港地での出来事や船上生活の様子を紀行文として書かれています。

港それぞれのエピソードが存在するわけですがその描写の後に彼独特のユーモアのある解説がつくわけであります。

例えば日本男性がヨーロッパの女性と恋仲になったくだりでは・・・

「どうもれっきとした貴婦人なんぞよりも、小間使いとか爪磨きの娘の方が日本人の好みに合うらしい。だから留学生が往々にして恋などすると、こちらは学士様でむこうは 小間使いなもので首尾よく結婚するが、その子鹿のようだった彼女が日本に連れ帰ったころから見る見る太りだすのは見るも恐ろしいくらいである。彼女はついには・・・」


ところで北さんの性格的には相反する二作の作品を読んだわけですがとかく私を含めた読者と言うのは作品を読んだ結果この作者はこんな人だった・・・と判ることによって 安心感が得られるんだと思います。

そんな意味でわたしは大変な不安感を抱いてしまった。自身が例えば画家として常に自分を変身させたいと願っても、陶芸で意欲的な事をしようとしても、スキーでも 「俺は今度からこんな滑り方に変えたんだぞ・・」・・と思ってみたところですぐにバレてしまうものです。

アッ、この絵は幸三郎さんだね、こんな不細工な器は幸三郎さん・・、あの滑りは遠くから見てもすぐ判るよ・・・。

夫婦でもすぐ飽きてしまう間柄もいます、なかなかいつまで経っても魅力的な関係もあります、北さんはどんな人なんだろう・・謎めいてきました。


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