おちるゆめ
第三回エントリー作品  落ちる夢
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 落ちる夢を見た。
 一面の青空。雲が綿菓子みたいに浮いていて、胸一杯に空気を吸い込むと肺まで青く染まるような。本当は夢にも色がついているって聞いたことあったけれど、こうして実感できたのは初めてかも知れない。すごく気分が良くて、何だってできそうな気がしてきた。
 ――飛ぼう。
 どうやって飛ぶのか考えてから実行すればいいのに。でも、今ならどんな方法でも飛べるんじゃないかな。これは夢なんだし。
 だから、飛んだ。
 ちょっと笑っちゃうポーズ。バンザイしながら跳ねただけだもの。それなのに体がふわりと風に乗ってしまうなんて……そんなに軽かったかなぁ?
 最初は風の力だけで上がったり下がったり、地面すれすれ。もっと高いところへ行きたいのだけど。足がついてないから不安定で、心もとなさも倍増。じっくり考えていられるほど呑気な場合じゃないと思いつつ、やっぱりじっくり考えてみた。
 で、結局バンザイのまま足だけ蹴った。できるだけ空を見上げて。すると、ぐんぐん体が空に向かっていく。蹴れば蹴っただけ空に近づいていく。あの青い空に手が届きそう。なんだ。こんなに簡単に飛べるんだ、知らなかった。
 高い高い場所まで来る。風が手助けしてくれるお蔭でようやっと安定した姿勢を保てるようになった。耳元を通り過ぎる風。何だかくすぐったい。少しばかり周りを見る余裕もでき、見廻して気づく。
 ここって本当に高いんだ。だって、さっきまで立っていた町があんなに小さい。家も車も豆粒みたい。たぶん、あれが大学。あれは、私の家。あ、あれは彼のマンションじゃないかな、きっと。近くに公園あるし……
 気を抜いたのがいけなかった。飛ぶのにも緊張感が必要なのか。いきなり風に突き飛ばされて視界が180度変わってしまった。要するに、頭が下になっちゃったってこと。
 ウソ! 地面がどんどん近づいてきた。豆粒がだんだん豆粒でなくなっていく。ミニチュアの町がむくむく成長している。今、縮尺どのくらいなの? ……そんな悠長な状態じゃないって。加速度ついてるし、今さらバランス立て直せないし、何とかしなきゃ、何とか。落ちたらどうなっちゃうの、私。
 ああ、ダメ! 手足をばたつかせてもムダ、ますます落ちていく。どうしよう、どうなっちゃうの……良く考えてみたら、コレ、夢じゃないの。夢なんだよ、夢。だから目を覚ませばいいんだ。早く、早く目を覚まさなきゃ。町はもうミニチュアなんて呼べない。目を覚ますのよ。早く、早く! 目を覚ませ、私!
 
「ヘンな夢……」
 彼がボソリと呟いた。明らかに軽蔑の眼差し。
 えーっ。面白い夢だと思ったのになぁ。そんな目で見なくてもいいじゃないの。
「悪かったわね。最後は最悪だったけど、最初はすっごく最高だったんだから」
「ふ〜ん……」
 この頃の彼はいつもこう。何だか何話しても気のない返事。別に今のつまんない夢の話ならいいけど、他の大切な話の時までこういうの、やめてくれないかな。こっちだって気が抜けちゃう。
「ね、それよりさぁ、前から気になってた映画、今日初日だよ。午後の講義ないんでしょ? だったら今から行こうよぉ。後悔させませんって。絶対面白いんだから」
 彼はテーブルに突っ伏した。
「あのなぁ……俺、来週から就職活動なんだよ。それまでに調べたいこと山ほどあるし、先週のレポートだってまだなんだ」
「そんなのいつでもいいじゃないの。私との時間の方が大事でしょ? んなコト言って放ったらかしにしたら、浮気しちゃうぞ〜」
 ペンで彼の頭を小突きながら冗談。でも、彼は笑わなかった。ゲンナリと体を起こすと、そこら中に散らばるノートやレポートを一気に片づける。コーヒーはもう冷めていて手もつけない。
 怒ったの? そんなはずないよね。今までだってワガママいっぱい言ってきたし、どんな時でも何だって聞いてくれたじゃないの。それに最初は彼から声をかけてきた。私が好きなよりも彼の方がずっと好きだって、わかってるんだから。
 不機嫌な顔のまま立ち上がって、彼が一言。
「行くぞ」
 そう来なくっちゃ。
 やっぱ彼っていいオトコ。みんなが羨ましがる気持ちもわかるなぁ、うん。
 後をついて歩きながら、得意げに心の中で頷いた。
 
 また、落ちる夢を見た。
 目に眩しいほどの夕焼け。雲と空が見たこともないグラデーションを描いている。今までは好きじゃなかったけれど赤い色がこんなに綺麗だなんて初めて感じた。これからは赤い服も着てみようかな、とか考えたりして。私がイメチェンしたら、彼はどんな風に思うかなぁ。想像するとウキウキしてきた。地に足なんかつけていられない。
 ――飛ぼう!
 飛び方はもうわかっている。難なく飛び上がれた。もちろんバンザイのポーズ。それしか知らないから。風も心得たもので一気に上空まで押し上げてくれた。今度は落ちないように気をつけなくっちゃ。
 ステキ。ミニチュアの町が夕陽に染まってキラキラ輝いている。普段は埃っぽい町なのに、点り始めたネオンや窓の灯りが宝石みたい。ああ、何だかこんなに綺麗な風景、一人占めしちゃうの悪いな。彼にも見せてあげたい。その前に飛び方を教えてあげなきゃいけないけれど。
 頭にその様子が閃いて注意力が散漫になった。こういう時の風はなんて意地悪なの。またもや突き飛ばされて、あっと思った時には進行方向は真下。ちょっと待って。不意打ちは卑怯だわ。
 と、風に苦情を言ってどうする。落下が始まってるんだから立て直すことを考えないと。でも思うほど簡単じゃない。手足をばたつかせてもムダなのは前にも経験したけれど、何もしないで落っこってやるほど人生悟ってもいないし。悪足掻きだと思いつつ何かしなければ気が済まない。
 チャレンジしたのは空中ブランコの方法。足を引っかけてブランコに乗っている人が上体を起こす、アレ。お腹にありったけの力を込めて体を起こそうとした。だけどやっぱり加速度には敵わない。残された手はたった一つ。今すぐ目を覚ませばいい。
 これは夢よ、間違いなくただの夢。目を覚ませば自分の部屋のベッドにいる。いつもと同じ、何も変わらないはず。わかっているのに変に焦ってしまって目が覚めない!
 ヤバイ! 瞳はきちんと捉えている。どんどん近づいてくる町並みを。夢だからって甘く考えていたけれど落下の恐怖が実感として体に染みてきた。ホラー映画みたいな安っぽい恐怖じゃなくて、もっと冷たくて、刺すような、痛みに近い恐怖……夕陽の赤い色がまるで警告ランプのよう。もうイメチェンなんて却下だ! とにかく目を覚まさなきゃ。早く、早く! いつまで寝てんだ、このネボスケ! いい加減に起きろってば、私!
 
 彼は一言もなく、私の顔をちらりと見た。すぐにノートに目を落とす。微かに擦るペンの音。
「もぉ〜、落ちる夢見てこんなに怖い思いしたんだからさぁ、何とか言ってくれてもいいじゃない」
 パタン、とノートを閉じる彼。
「おまえ、そう言うトコ思いやりに欠けるよな」
 私がきょとんと見つめていると、
「さっきから落ちる、落ちるって連呼するけどな、俺が就職活動してるってわかって言ってんの? まったく縁起悪いヤツ。まだ始まったばっかだってのにヤル気失せるよ」
 何よ、そんな迷信かついじゃって。普段は何も気にしてないくせに。でも、ま、ここは私がオトナになってやろう。
「ゴメン、ゴメン、悪かった。ホントにゴメンね。君くらいの秀才なら就職なんて心配ないって。ね、それはそうと来週誕生日でしょ? 何でも欲しいもの買ってあげるし、ディナーもごちそうしちゃう。あ、でもあんまし高いのはダメよ。四時に待ち合わせでいいよね?」
 ノートをしまいながら、彼は頷いたのか項垂れたのかわからない動作をした。立ち上がって溜息。それから口を開いた。
「あのさぁ、俺、もしかしたら……」
 言葉が続かない。イヤだなぁ、もう。ハッキリ言ってよ。
 その間に立ち上がってスカートの裾を整える。彼の表情を見てもいなかったけれど、モジモジ佇む様子が妙に歯切れが悪いったら!
「何? どしたの?」
 何だか複雑な表情を浮かべて、彼は小さく首を振った。
「いや、何でもない」
 そう呟いて、背を向ける。私を待たずに歩き始めた。そっか。今日は就職対策の講義があるんだっけ。
 あれ? 今、胸がチクリ、ってしたけど。見慣れない彼を見たような気がして。振り払うために彼の背中に声をかけた。
「ね! 来週水曜、表門に四時だからね。遅れないでよ!」
 背中を向けたまま、彼は片手を上げた。返事は言葉にならなかったけれど。
 
 今夜も、落ちる夢を見た。
 空いっぱいの星空。広がる大宇宙。世界全体が黒一色でない不思議な黒に包まれている。何だか奥行きが良くわからない。都会では見たこともないほどの無数の星々。降るような、ってのはこういう状態? みんな一斉に流れてきそうで、少し、怖い。
 ――飛ぼう……かな。
 怖いのに好奇心だけは旺盛。星空から見下ろす町はどんななのかと思って。けれど躊躇いはある。真っ暗だから大空で迷子になると困るし。おずおずと中途半端なバンザイ。煮え切らない私を、風が一気に高みに引きずり上げた。
 恐々見下ろす。町にも広がる色とりどりの星空。ネオンや建物の灯りが夜に浮かんで、まるで星みたいだったから。頭の上にも足の下にも大宇宙。上下の感覚がなくなって、地球の重力はどこ行っちゃったのって感じで、乗り物酔いみたいに頭がふらふらしてきた。その瞬間、意地悪な風が待ってましたとばかりに背中を突き飛ばした。
 急降下の感触。吐きそう。どんどん落ちていくのが体でわかる。耳元でごうごう鳴る風。背筋がぞっとした。夢だってわかってる。わかっているのに焦りと恐怖で目が覚めない。こんな怖いのもうイヤ! 必死で足掻いてバタバタやるけど、これっぽっちも効果がない。
 地の星空が迫ってくる。闇の中だと距離がちっともわからない。どのくらい近づいたの? あとどれくらいで地上? 早く、早く覚めて! こんな怖い思い、二度としたくない! 覚めろ、覚めろ、覚めろ! いやーっ!! 私を悪夢から解放してぇーっ!!!
 絶叫したとたん、目が覚めた。辺りは真っ暗。夢の続きかと思ったけれど星空じゃない。いつもの私の部屋。まだ夜は明けていない。
 気がつけば体がガクガク震えていた。もう一度眠りに就こうにも、恐怖がこびりついてて意識が眠ってくれない。目をらんらんと見開いたまま、無情にも朝を迎えてしまった。
 あ〜、最悪。今日は約束の水曜日なのに。
 バッチリおめかししようと思って洋服も靴もスタンバイOK。バッグは彼にもらったお気に入り。髪もメイクも最高に決まるはずだったのに……目の下に薄っすら隈。もう! やっぱ最悪!
 ひたすら鏡とにらめっこを続けても、隈はいなくならないし時間は過ぎていくばかり。急がなきゃ。待ち合わせは四時。
 意外と時間がかかってしまって何とか五分前に到着。彼の姿がなくて、ほっと一安心。いつもは私がギリギリで彼は十五分前から待っているから、これはめったにない珍しい現象だわ。でも偶にはいいよね。今日は彼の誕生日だし。
 待つこと五分。約束の四時。彼はまだ現れない。遅刻だなんていよいよ珍しい。いつも嫌味を言われるのは私。仕返しにこっちから言ってやってもいいけど誕生日にそれは勘弁よね。楽しい時間に水を差したくないし。
 また待つこと五分。おかしいな。彼が来ない。場所間違えてないよね、時間も。携帯は電波が届かないみたい。猛ダッシュ中で電源切ってんのかな。焦らない、焦らない。はっきり約束したんだもの。
 彼が来る前に、念のため身だしなみをチェックしておこう。隈のやつはまだ目の下に居座っている。何だか陽が傾くと目立ってきたかも。一度気になり出すと異様に気になって仕方がない。見るからいけないんだ、と鏡をしまって、やっぱり気になって取り出す。覗き込んではゲンナリして、またしまう。馬鹿らしいくらい何度も繰り返す。無意味な行動を続けるうちに、思ったより早いペースで時間が通り過ぎていった。
 腕時計の針が四時半を指す。五時を指す。六時を指す。そしてついに七時。レストランの予約時間。360度見回しても、彼は何処からも現れなかった。
 何かあったのかな。まさか事故じゃないよね、冗談キツイ。急に来れなくなって連絡する時間もなかったのかな。それともお互いに電波が届かなかったのか。もしかして、家の留守電にメッセージ入れて安心しちゃったのかも知れない。
 歩きながら携帯で留守電チェック。メッセージは入ってない。予約も気になるし、連絡は着いてからでもできるし、とにかくレストランに向かった。
 あ? 彼? 窓際の席に彼がいる。
 なぁんだ。前から予約するって言ってたから、このレストランの話、覚えてたんだ。何か急用があって直接こっちに来たのね。
 安心して駆け足になったとたん、彼の向かいの席に視線を取られた。
 知らない女がいる。楽しそうに彼と笑っている。ひょっとして、妹? そんなはずない。彼には姉さんも妹もいない。じゃあ、誰?
 すると彼が立ち上がった。女と連れ立って店を出て行く。反射的に物陰に隠れてしまい、何故隠れなきゃならないのかと少し腹が立つ。
 ちょっと。私との約束すっぽかして何処に行くつもりよ。突き止めてやるから。
 火が点いた気持ちはもう止まらない。怒りに任せて彼と女の後をつけた。お菓子屋でケーキ買った。酒屋でシャンパン買った――何のつもり? 二人でお祝いしようっての? 間違いないのは、この道が彼のマンションへ続く道だってこと。彼と女は仲良く肩を組んでマンションへ入っていった。
 彼の部屋は三階。見上げる窓に灯りが点る。
 信じられない。私と約束しておきながら、三時間も待たせた挙句、あんな女と一緒だったなんて。よりにもよって、私が予約しておいたのと同じレストランで。全くバカにして!
 言い訳は聞かない。散々文句を言ってやろうと思ってエレベーターに乗った。事と次第によっては、引っぱたいてやろうとも思っていた。
 二度目のベルで彼が顔を覗かせる。驚くと言うよりは予期していたと言いたげな表情。むっとして、彼を表に引っ張り出した。
「いったいどう言うつもりよ。人を待たせておいて結局来ないなんて!」
 彼は何も言わない。ただじっと私を見つめているだけ。
「ちょっと! あの女、誰よ?」
 彼がふっと鼻で笑った。心なしか嘲笑混じりで。
「つけてたんだ」
 まっ、失礼な! こっちが悪い事したみたいな言い方はやめてよ。約束破ったのはそっちじゃないの。
「なら話は早い。おまえだって薄々感づいてただろ?」
 何? どう言うこと?
「俺たちこれ以上付き合っても上手く行かないよ。いつの間にか擦れ違ってて、気がついたらどうしようもないほど遠く離れてた。俺はおまえと一緒にいても疲れるばかりで、おまえだって俺の事、情けないヤツだって焦れったく思ってたんだろ? 態度でわかるよ。だから、もう一緒にいても仕方ないんだ、俺たち」
 彼が何を言っているのかわからない。だって、彼が私に言ったのよ。付き合って欲しい、って。どれだけ私が嬉しかったか、わかってる?
「アイツといると何だか和むんだ。おまえといても俺は少しも気が休まらない。最初はそれでもいいと思ってた。おまえのワガママも自分勝手なトコも可愛いと思ってた。けど、そんなの長続きしないんだな。結局どっちかが不自然に気持ちを曲げても、いつかは合わなくなってしまうんだよ」
 何言ってるの? そんなことない……そんなことないよ……お願い、これ以上何も言わないで!
「俺、もうついてけないんだ、おまえのワガママに。おまえに振り回されるのは、もうゴメンなんだよ。だから、終わりにしよう、俺たち」
 一番聞きたくなかったセリフを残して彼はドアを閉めた。胸に響き渡る音。今までの何倍も、何十倍も、別れの辛さを実感させる音。
 何も言えなかった。唯の一言も。言いたいことは山ほどあったし、言い返したいことも山ほどあったはずなのに。何故だろう? 喉が硬直して言葉が出なかった。外に出なかった言葉が、心の奥に沈んで落ちて、チクチクと痛みに変わっていく。
 ふと気づいた。夢の中で風に突き飛ばされた時と同じ感覚だって。落ちる恐怖。痛みにも似た……突然足下の何もかもを失って、底知れない地上に落ちていく感覚。ここは空じゃないけれど、良く似ていた。
 どうやって家まで辿り着いたのか覚えていない。自分の部屋に入るとすぐにベッドに潜り込んだ。メイクしたまま。服を着たまま。
 眠りたい。何もかも忘れるために。さっきの情景は悪い夢だったんだって思いたい。だけどきっと、眠るとまた落ちる夢を見るんだ。そして何度もリフレインする。別れを告げられたあの痛みを。
 もしかしたら、心の何処かで予期していたのかも知れない。いつかこんな日が来るんじゃないかって。落ちる夢を最初に見たのは、彼と会話が噛み合わないと感じ始めた頃だったから……
 眠れない。夢を見たくなくて……違う、それよりも、彼の言葉を考えると眠れない。ベッドに起き上がり、両手で肩を抱き締めた。
 どうして、こんなことに、なっちゃったんだろう?

―――どちらの道を選ぶ?
いろいろ考えてたら怒りが煮えたぎってきちゃった。何で私が泣き寝入りしなきゃなんないの? なぁにが、おまえといると気が休まらない、よ! そんな一方的なの許せると思ってんの!
考えた事なかった。そんな風に思われてたなんて。もう少し私に思いやりがあったら、もう少し私が自分を振り返っていたら、もっと違う結末があったのかも知れない……
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