ターナー症候群

★ターナー症候群とは

 ターナー症候群という名前は、1938年にHenry・H・Turnerが性腺発育不全、低身長、翼状頚、外反肘などの特徴をもつ7名の女性につて報告したことにちなんでいます。

 ターナー症候群は発生頻度の高い染色体異常の1つで、全女性胎児の約3%が発症します。ですが生に至る胎児はわずか1%で、自然流産全体の原因の7〜10%を占めています。出生女性の約2500人に1人の割合で発生します

 症状は性腺発育不全、低身長、翼状系、外反肘などのほかに、ほくろが多い、心疾患、中耳炎、糖尿病などの症状や新生時期に手背、足背にリンパ浮腫がみられたりします。

 これらの症状の原因はX染色体短腕の完全、または部分的欠失です。そのためターナー症候群を定義すると「性腺発育不全、低身長やその他の外表的特徴を持つ女性でX染色体短腕の完全、または部分的欠失を示すもの」ということができます。

★染色体

人の細胞は普通46本の染色体を持っています。44本が男女共通で残り2本が男女で異なり性染色体とよばれます。女性の性染色体はX染色体が2本、男性はX染色体が1本とY染色体が1本です。ターナー症候群の場合は2本のうちの1本のX染色体の全部または一部が欠けているということになります。また長腕のおなじものが2本あったり、環状になっていたりというさまざまな型がみられ、またそれらが混在していたりします。

 

ここからは、自分の体験を小さいころのことから順を追ってお話していきたいとおもいます。

1、生まれてから幼稚園まで

生まれは、かんし分娩でした。出生体重は2800gくらいで、特にこれといった問題もなく成長していきました。

体が小さいことも特に気にすることなく過ごしてきました

2、小学生時代 中学年まで

小学校に入学するころは、やはり身長は低くクラスではいつも1番目か2番目でした。最初はランドセルが歩いているような状況で、「ちび」とからかわれることも当然のようにありました。運動も苦手で、骨や筋肉のせいか、足が短いこともあってか特に走ることは苦手でした。その分勉強をがんばろうと、そのころから思い始めて、苦手でもなかったことも幸いして勉強だけはできる子になっていました。何かしら得意なもの、自分にあっているものもあるものなので、運動が苦手なことで早くから自分の能力について考えさせられたことはよかった面もあったのかなと思っています。

3、小学生時代  高学年

小学生も高学年になると、特に女の子は二次性徴の早い子もいたりして、ますます体格や体型の差が目立つようになっていました。両親もこのころにはさすがに心配になったようですが、自分では多少は気にしつつも、いずれはもう少しは背も伸びるかもしれないし、背が低いのは特に病気ではないとそんなに深刻には考えていませんでした。
そんなこともあり、自分としては病院にいきたいとは思っていなかったのでしぶしぶですが両親にいわれて低身長の精査をうけることになりました。今のように検査も簡単にはいかなかったため、入院の期間も今よりは長くかかっていました。教授回診というものも体験し、ちょっと自分が見せ物のように扱われている感じがしたものでした。看護婦さんや先生がたはとても優しかったりかっこよかったり、この検査入院は医者になりたいという思いの原点になりました。
一通りの血液の検査や尿の検査などがなされてやっと低身長の原因がはっきりしたようでしたが、自分にはその病名がはっきりとは告げられませんでした。診察の後などに親だけがよばれて医師とはなしをするということが繰り替えされていて、それだけでもなにか重大な病気だと気になりつつ、それだけに親としてもいいづらいのだろうという遠慮と、自分としてもこわくて、医師にも親にも病名を聞くことはできませんでした。自分では直接病名をきくことができなかったので、ちょっとした言葉や、どんな検査をされたのかなどを覚えて、それを手がかりに医学書などでいろいろと調べてみたりしていました。このように患者さんはちょっとした言葉や検査にも敏感に反応するものだということを知っていていただきたいと思います。病気についてはやはり漠然としか分からない状態で、このころから自分の病名を知りたいという思いが強まり、医学部に入れば病名がわかるかもしれないと考えて医学部をめざすようになっていました。

4、中学生時代
このころは生理がないとか、胸が小さいとかいうなやみが大
きくなり
ました

5、高校時代

医学書をみてもいまだに病名はわからず、というわけでおなじ病気の人との交流もなく、このころは他の友達と自分とは違うという違和感や孤独感がさらに増していったように思います。

今思えば、まったく同じ病気ではなくても悩みをかかえていたり、自分の悩みを分かってくれるやさしい人もいたかもしれないのですが、同じ境遇、もっと狭くいえば同じ病気の人でなければわかってもらえないと思いこんで、悩みを自分だけでかかえこんでいました。

医学部をめざして勉強を続けて、1年間予備校に通いました。予備校では同じ目標をもつ人たちと過ごせ、女子高出身だったこともあり高校時代とは違う面があり、充実した時を過ごすことができました。

6、医学部時代

医学部に入学することができて、1年生の時に早くも病名を知る機会が訪れました。基礎医学の発生学という教科書にそれは書かれていました。写真も載っていて、記憶からもわたしの病名はそこに書かれている「ターナー症候群」で間違いないのではないかとほぼ確信していました。

 その時どう感じたでしょうか。自分の病名を知りたくて医学部に入ったようなものなのである程度覚悟はしていましたが、それでも染色体の疾患で、わたしの遺伝子は残す価値のないものなのかと感じて、治らないということがとてもショックでした。
その年の冬に骨折をしたことを機会に骨のことも気になり、初めて産婦人科を受診しました。医学部の学生にもかかわらず何の知識もなく、内診台にはびっくりしましたが、それからホルモン治療が始まりました。

 そのときも子宮が小さいというだけで詳しい病名は告げられませんでしたが母には手紙が行ったようで、帰省の時に偶然発見してちらりと盗み見したその手紙にも、あまりじっくり読めなかったのですが「ターナー症候群」と書いてあったようでした。
最初のころは妊婦さんをみるのがいやで、産科と婦人科を分けてほしいと思っていました。

遺伝学の実習では、その題材としてクラスの数名の染色体が提供されました。もし遺伝学の実習で全員が自分の染色体で実習するようにいわれたらどうしようかと実習の前からちょっときどきしていました。学年が進んで、進路を考える時期になるとやはり産婦人科や小児科の方向に進もうかと思い悩み、結局は小児科を選びました。

7、小児科医になって

医学部を卒業し、医師国家試験に無事合格することができて、地元の大学の医学部の小児科医局に入ることになりました。

 以前入院していた時に担当だった先生とも再会しましたが、病名を告げられていなかったためお互いにちょっと気まずい面もありましが、なにかと気にかけてくれました。
外来でも、やはり人数が少ないのかなかなか「ターナー症候群」の子供に会う機会はあまりありませんでしたが、初診の子供に1人会う機会がありました。

研修医の期間を経て、5年目からは現在の重心児者の施設に勤めています。入所者のなかには染色体疾患の方もいらして、ちょっと親近感をおぼえながら勤務しています。職場内でも、重心施設ということもあってか、障害などにとても理解を示してくれる人が多いように感じ、気心が知れた仲間には少しづつ、病気のことも話せるようになりました。話しをすると、医学部の同級生にはショックだったと驚かれたり、ある看護師さんは自分の子供が染色体疾患で亡くなったことを告白してくれたり、恋愛や結婚についてもはげまされたり、はっぱをかけられたりとさまざまに語ってくれました。やはりいろいろな人のなかでは話そうと思える人と、やはり話したくないと思ってしまう人がいるのはしかただないことだと思います。医者の立場からいえば逆に、いろいろなことを気軽に話そうと思ってもらえるような雰囲気を作りたいと思います。


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