進化論は証明されていません?

演繹でない論証を行う進化理論が証明されていないとは これいかに?

 

 そもそも証明とはなんだろうか?

 ミラ:進化論は証明されていません・・・。なにやら不穏な題名ね。

 わらし:そうか? 進化理論は証明されていないんですよねえー、とか、そういう質問や思い込みはしばしば見たり聞いたりする話だがな。

 ミラ:まあ、そうかもしれないけど、証明されていませんってそんな・・・

 わらし:うん 証明されていないんじゃないか?

 ミラ:えっ??!! まじかよ??

 わらし:おや、驚いたか?

 ミラ:驚くわよ!! あれだけ盤石だと言われたダーウィンのアイデアが証明されていないって??!! ああ、なんてこと、このHPではさんざん進化理論のことをさも知ったかのように書いてきたというのに・・・・。

 わらし:詳しくは以下のコンテンツ

ダーウィンの進化理論

種の起源を読む

を見てねー ちゃお〜〜〜

 ミラ:ちゃお〜〜じゃねーよ、待て、こら、ボケぇ。とにかくきっちり説明してもらいましょうか。証明されていないってどういうことよ。

 わらし:うーーん? じゃあ証明って何ね?

 ミラ:?? 証明って、そりゃあ、、、、証明でしょ? あのほら、なんだ、絶対確実というか、はっきり確かっていうか・・・

 わらし:厳密な意味でいうと証明っていうのは数学の証明とか、あるいは三段論法の論理とか演繹とかそういうもの。こうした方法論によって理路整然と導きだされた過程と答えのことよね。

 ミラ:まあそうね

 わらし:でだ、そういう意味合いの証明って日常生活ではどう使うだがね? 例えばそうだなあ、今、ここに饅頭があるのだが・・・・

 ミラ:ああ、さっきあんたが買ってきたやつよね。2人で食べて、、おいっ、もう1個しかないんかい。あたし1つしか食べてないのよ。

 わらし:気にするな。さて、今、ここに残ったこの饅頭が喰えることを証明せよ。言っておくが実際に食べちゃうのは無しだぞ。

 ミラ:はあ・・・・ いや、他の饅頭が喰えたんだから、この饅頭だって喰える。はい、証明終わり。

 わらし:それ、証明っていわねーぞ。

 ミラ:そうかしら?

 わらし:今、おめーがやった証明とやらは饅頭Aは食べることができた、だから饅頭Bも食べられるだろう、そういう理屈だよな。

 ミラ:だからそれで証明終わりよ。ほら、証明、証明。

 わらし:では例えばだ、三角形Aの内角の和を分度器で計ったら180度でした、三角形Bも180度でした。三角形Cも同じく。ゆえに三角形Dの内角の和も180度に違いありません。これを数学のテストの答案に書いたら丸をもらえるかね?

 ミラ:うっ・・・・

 わらし:もらえますかね? もらえませんかね? どっちだがね?

 ミラ:もらえない・・と思います。

 わらし:そうだな。数学の証明というのはこういうものではないな。

 ミラ:そうねえ・・・。数学の証明というと平行線に交わる直線が作る同位角と錯角は等しい。ゆえに三角形の内角の和は180度である。そういうものよねえ。

 わらし:逆にいうとだな。、Aがそうだった、ゆえにBもそうだろう、そういう論法は証明とは呼ばないわけさ。

 ミラ:でもでも、こんなのはどう?

1:すべての饅頭は食べられる

2:物体Aは饅頭である

3:ゆえに物体Aは食べられる。

 どうよ? これならいわゆる三段論法になってない?

 わらし:すべての饅頭は食べられる、そのはずなのに饅頭Aを食べたらお腹が痛くなりましたとさ。

 ミラ:?

 わらし:賞味期限を見たらば、これが1ヶ月も前に切れていて・・・・・

 ミラ:当たり前だーー!!

 わらし:当たり前ではある。だがこういうことだよな。すべての饅頭が食べられるわけではない。ゆえにこの三段論法は反証されて成り立たない。ちなみにこの場合、饅頭自体はお腹の中には入れているのだが、問題なく食べて消化できるかがポイントってことにしておくだ。そういう意味において言えば、すべての饅頭が喰えるわけではない。

 ミラ:むむ。

 

 論理は現実について何も語っていない

 わらし:ガゲンボにグレンボを足すとメルトバルになった

 ミラ:はいっ?

 わらし:ガゲンボにグレンボを足すとメルトバルになった

 ミラ:あの〜〜〜〜〜、、、、、あなたは何をおっしゃっているのですか?

 わらし:ガゲンボとは塩のこと。グレンボは水、メルトバルは塩水のことだ。

 ミラ:なんだ、塩に水を足すと塩水になったってことね? それ、どこの言葉?

 わらし:知らんよ。

 ミラ:造語かよ。

 わらし:だがだ、もしもこれらの単語が次の意味だったらどうなる? ガゲンボとはコップのこと。グレンボは椅子。メルトバルは机のこと。

 ミラ:コップに椅子を足すと机になった・・・?? 何それ? 意味ないじゃん。

 わらし:するとこうだよな。

 塩に水を足すと塩水になった

 コップに椅子を足すと机になった

 わらし:まずこの二つの文章は論理的に同じ構造をしていることが分かる。どちらもガゲンボ+グレンボ=メルトバル

 ミラ:えっ? ああ、そうね。

 わらし:さてこのように二つの論理構造は同じ。しかし片方は正しくて、片方は間違っている。

 ミラ:ああ...そうなるわね

 わらし:つまりこういうことになるな。理路整然とした文章がある。文章の構成、構造、それ自体が論理的だとしても、それは文章の正しさを保証しない。

 ミラ:うむ

 わらし:つまり論理的であるからといって答えが正しいとは限らない。論理は正しさを保証しない。主張が正しいかどうかは、言葉が指し示すものを見て、実際に観察して確かめてみないと分からん。

 ミラ:むむむ・・・、まあ、、、そうねえ。

 わらし:じゃあこれは?

1:すべてのガゲンボは食べられる

2:物体Aはガゲンボである

3:ゆえに物体Aは食べられる

三段論法で文脈は論理的? ではこれは証明されたと言ってもいい? そして証明したとしてもこれは正しい? 現実を記述できているかしら?

 ミラ:いや、正しいかどうかはガゲンボ次第だろ? ガゲンボが塩や饅頭のことなら正しいけど、ガゲンボがコップのことなら正しくないわ。

 わらし:つまりこういうことね。理路整然としていることが正しいかどうかは、現実を見ないとやはり分からない。言い換えればこうだ。現実を”証明しよう”とするのは無茶である。

 

 観察で正否を確かめることは演繹ではない それは帰納である

 ミラ:あーでも、こんなのはどう? ガゲンボが饅頭であった場合、

1:すべての饅頭は食べられる

2:物体Aは饅頭である

3:ゆえに物体Aは食べられる

が成立するわ。これで証明オッケー。実際、すべての饅頭は食べられるはずだから・・・・・あれ?

 わらし:すべての饅頭は食べられる、そのはずなのに饅頭Aを食べたらお腹が痛く・・・・・・

 ミラ:・・・・・

 わらし:このようにすべての饅頭が食べられるわけではない。まあ食べられないと言ってもお腹の中には入れているのだが、この場合は問題なく食べて消化できることが・・・・・

 ミラ:いや、それは繰り返さなくていい。

 わらし:つまりいくら証明らしきことをしても、それが正しいかどうかは現実を見ないと分からない。そして現実を観察して確認すること、それは証明ではない。

 ミラ:そうなるか...。

 わらし:そもそもな、観察で正否を確認するには演繹ではないよ。演繹でないからにはこうだ。観察で物事を確認する作業を論理とは言わない。

 ミラ:そう...なるのか?

 わらし:例えばさ三角形Aの内角の和は180度だった。三角形Bもそうである、CもDもそうだ。これが観察だろ? でだこれは証明か?

 ミラ:んー...証明ではないわね。数学でこんな証明はしない...

 わらし:三角形を観察して、三角の内角の和は180度ではないか? とあたりをつけることはできる。だがこれは証明ではない。これは現実を観察して何か結論を導きだすこと。つまり帰納だべさ。

 ミラ:そうね、証明ではないわね。

 わらし:饅頭Aが食べられる、饅頭Bも食べられる、ゆえに饅頭Cも食べられるだろう。あるいはこう、賞味期限が過ぎた饅頭Xは食べられなかった。同じく賞味期限の過ぎた饅頭Yも食べることができなかった。ゆえに賞味期限の過ぎた饅頭Zも食べることができないだろう。そのようにあたりをつけることはできるが・・・・・

 ミラ:それは証明ではない。帰納に基づく結論なのね。

 わらし:実際、これが証明でないことは明らかだな。平行線に交わる直線以下ウンヌンから三角形の内角の和は180度である。こう言った時、直線で作られたすべての三角形は、そのすべてで内角の和は180度であると言えることになる。

 ミラ:証明の場合は一律にそう結論できるわけね。

 わらし:そういうこっちゃ。だが帰納で得た結論はもっとあいまいで生々しいものだよ。例えば賞味期限内でも条件次第では駄目な饅頭もある。

 ミラ:ああ、炎天下に置いちゃうとかねえ。

 わらし:あるいはその反対に、期限から2、3日過ぎていても普通は食べられるもんだ。帰納であたりはつけられるが、このように確実ではない。

 ミラ:そしてそれは証明ではない。

 

 進化論はそもそも証明するものではない

 わらし:つまりまとめればこうだ。経験の積み重ねから何か結論を下すことは証明ではない。これは帰納だな。厳密に言うとだな。

 ミラ:ふーん、なるほどね。でっ、これと進化論が証明されていないってことがどうつながるの?

 わらし:進化理論は現実の生物の有り様を説明するものだよな?

 ミラ:そうね。

 わらし:その妥当性を確認するためには生物を1つ1つ観察して経験的なデータを積み重ねなくてはいけない。さて、問題。こうして出した結論は証明か?

 ミラ:・・・・違う、わねえ。

 わらし:つまり進化論は証明するものではない。数学じゃあねえからな。進化理論とは観察によって経験的なデータを積み重ねることで妥当性を確認するものだ。仮説演繹、つまり広義の意味での帰納だな。

 ミラ:なるほど。つまりこの場合、進化理論が証明されていないとか、そういう風に言うことが方法論としてそもそもおかしいわけね。

 わらし:進化理論は演繹ではなくて、仮説演繹の手法で組み上げられて論証されている理論だ。ダーウィンの「種の起源」からしてそうだった。つまり仮説を立てて予想を導き、そしてデータを収集して妥当性を確認しているわけであって・・・。

 ミラ:それは証明とか演繹というものとは違うわけね?

 わらし:うんだな。進化理論を論証する過程は証明ではない。だからこうだ。進化論は証明されていないという言葉を使った時、それは”私は進化理論の論証の過程を理解しておりませんのです”と言っているのと同じなんだよ。

 

 証明では進化論どころか自分の同一性すら証明できない

 ミラ:証明って言葉は、経験とか日常で用いるものではない。日常のようにデータの積み重ねを用いる論証の過程では、原則的に使えない言葉なのね。

 わらし:そういうこっちゃ。証明というのは真面目に考えれば強力過ぎて普段はそうそう使える言葉ではない。例えばの話。昨日の自分と今日の自分が同一人物だと、どう証明する?

 ミラ:あー、自分は自分でしょ?

 わらし:昨日のミラちゃんと呼ばれる個体と今日のミラちゃんと呼ばれる個体が同一の個体であることを証明せよ。

 ミラ:むむむむ・・・・・・

 わらし:それにしてもあれだな。昨日の自分と今日の自分という言葉を使っている時点で2つの自分を同一個体と認めているではないか、というへ理屈もありだな。今度、これで誰かをおちょくってやろう。

 ミラ:なんか不穏当なことを言っているわね。あーー、思うんだけどさ。証明できないんじゃない? 

 わらし:なんで?

 ミラ:そうねえ、昨日の自分と今日の自分は別々の経験よねえ。少なくともあたし寝ているから連続して自分をモニターしてないし。

 わらし:そうなるだろうな。

 ミラ:だからあれでしょ、自分自身のこともつまるところ断片的な経験の積み重ねと、それに基づいた推論よねえ?

 わらし:うんだな。

 ミラ:だとしたら昨日の私と今日の私は同一人物だろうと帰納的に論証できても、それは証明したとは言えないんじゃない? 

 わらし:そうなりそうだな。経験の積み重ねからこれこれが同じだ、これこれはこういう性質を持っている。そう結論することはできる。

 ミラ:でもそれは証明ではない。

 わらし:そういうことになるな。進化理論が証明できないというのなら、同じ理由で昨日と今日の個体が同一の個体だということは証明できないってことになるだろうなあ。まあそれ自体は正しい意見ではあるんだがな。

 ミラ:うーん、じゃあ、何がいけないのかな?

 わらし:証明できないから正しくない。これがまずいんだよ。あるはこう。証明できないのだから証拠がどんなにあってもそれを信じる必要はない、そう言ってしまうのがいかんのさ。進化理論は証明されていない。人がそう言った時、それはこういう意見を結果的に表明していることになる。

 ミラ:演繹ではないからそれは証明ではない。それは正しい。しかし、証明ではないから信用することはできない。そう言ってはいけないってわけね?

 わらし:言ってもいいが、自爆だってことかな。帰納で論証される進化理論は証明ではありませんから私は信用しません。そういうのは自由だが、それを言った瞬間に自分自身も自身の経験もなにもかもが信用できなくなる。

 ミラ:自殺行為なのね?

 わらし:まあな。地雷原にほいほい突っ込んでいくようなもんだ。

 ミラ:でも証明という言葉は普通に使うわよね。

 わらし:それは使い方が間違っているな。そしてこう言ったらどうする?

 1:異なる種は本質的に違うものである

 2:本質的に違うものを同じものから導く事はできない

 3:ゆえに異なる種は同じ祖先から由来したりはしない。つまり進化理論は間違っていると証明できる。

 どうだ?

 ミラ:あー、それに対しては反対にこう言えばどうかしら?

 1:異なる種は本質的に違ってはいない

 2:本質的に違っていないものは同じものから導ける

 3:ゆえに異なる種は同じ祖先から由来した。つまり進化理論は正しいと証明できる。

 どうよ?

 わらし:いい感じだな。そして注目すべきはだ、同じ論理構造を持ちながら進化理論を否定する証明と肯定する証明ができてしまった、ということだな。

 ミラ:AはBである。BはCである。ゆえにAはCである。この構文から正反対の結論の文章ができてしまった。

 わらし:つまり、これだけではどっちが正しいか分からんな。

 ミラ:これだけでは分からないわね。

 わらし:論理的な文章は現実をまったく語っていない。そしてお互いに矛盾する矛盾のない文章が2つできてしまった。さてどうすっぺや? どちらが正しいのか、それを知るにはどうするだ?

 ミラ:観察すればいいんでしょ? でも、そうするとそれはもう証明ではないわけだ。

 わらし:つまりだな、証明されていないとかなんとかお行儀のいいこと言ってないで、自然を観察しろってことだな。

 ミラ:そういうことね。

 

 *自然を観察した場合、自然界の有り様はダーウィンの進化理論に沿った様相を示す。近縁種の地理的な分布は生物の分散とそれに影響を及ぼす要因に左右されたパターンを示すだろう。それは地理的な障壁によって影響され、あるいは離れた地域に異なるものがいることになるだろう。タチツボスミレの変種が日本の異なる地域にいることを見ればよい。日本の東西、太平洋側、日本海側にそれぞれ異なる変種がいる様相を見ればよい。進化理論の証拠は目の前にあるのだ。

 つまりダーウィンの進化理論は証拠でサポートされた堅固なものであろう。そういう意味においてダーウィンの進化理論は証明されている、こう表現されることはしばしばある。もちろん、証明とは演繹の場合に使われる言葉であり、厳密に言うとこういう表現は正しくない。しかし証拠にサポートされた堅固なものであるという意味は伝えている。実際、科学者はこのような意味で証明という言葉を使うことがある。

 進化論は演繹ではない。演繹でないのなら、その論証は証明でない。そのように言うことはまったく正しい。少なくとも、経験で仮説を検証することは証明ではない、という意味においては正しい。だがそれは同時に、経験的なデータで論証する過程は演繹とは呼びませんよ、という意味しか伝えていない。

 だが人は時としてこの範疇を越えて得意げに語る。進化論は証明されていない、だから間違いだ。これは明らかに言い過ぎである。演繹で論証していないものを証明されていないとはこれいかに?

これを言う人は証拠をちゃんと把握しているのだろうか? あるいは論証の過程を正しく理解しているだろうか? 論証の過程を知らず、証拠も把握していない場合、彼が言う証明とは一体何を示しているのだろう? それは彼の信念を表明しているが、何も知らないことを伝えているのかもしれない。

 

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