種の起源:

On The Origin of Species

By Means of Natural Selection

or The Preservation of Favoured Races in The Struggle for Life

 

存続をめぐる争いを頭に入れておかないと

自然を理解することなど不可能である

 

 さて、すでに説明したように種の起原、第3章は存続をめぐる争い[ Struggle for Existence ](日本語ではいわゆる生存競争/生存闘争)について書かれた章です。

  存続をめぐる争い、それを説明するためにダーウィンは

 :存続をめぐる争いとは何か?→それを説明する具体的な例

 :存続をめぐる争いは起きているのか?→それが実際に起きていることを示す具体的な例

 :存続をめぐる争いはどういう作用を生物の進化にもたらすのか?→その様相を示す具体的な例

など、それぞれの事柄に関して数多くの事例、さらには実験による観察をも示してみせました。そのためでしょうか?、この章は短い割には具体的な情報が多く、網羅的に見えますし、一見するとただ単に情報の羅列がなされているように見えてしまうかもしれません(はなはだしい場合には「種の起原」自体がそういう著作であると思われてしまうようです)。

 例えば、

 現在のラプラタの平原をうめる植物はヨーロッパ起原である

 ダチョウは20個、一方でフルマカモメは1個の卵を産む

 あるハエは数百、一方でシラミバエは1個の卵しか産まない

 雑草の芽生えはナメクジや昆虫によって滅ぼされる

 インドのトラでさえ母親に守られているゾウの子供を襲うことはまれ

たしかにこういう情報をつらつらと読んだだけだと、ふーんそうなんだ、という感想を抱くだけかもしれません。

 さて、ダーウィン自身は3章の冒頭、訳書の87〜88ページでこのように述べました。ここでは原文を引用してみましょう。

Nothing is easier than to admit in words the truth of the universal struggle for life, or more difficult - at least I have found it so - than coustantly to bear this conclusion in mind. Yet unless it be thoroghly engrained in the mind, I am convinced that the whole economy of nature, with every fact on distribution, rarity, abundance, extinction, and variation, will be dimly seen or quite misunderstood.

これを訳すと(いささか意訳なんですが)次ぎのような意味になりそうです。

 生物が生活する上で存続をめぐる争い(struggle for life)があまねく行われるものであることを認めるのは簡単である。しかし、この結論を心にとめておくことは、ー少なくとも私はそう思うのであるが、ー非常に困難だ。このことを徹底的に頭に入れておかないと、生物の分布、種による個体数の少なさ、個体数の多さ、絶滅、多様性、こうした自然界の経済( economy of nature )に関わる事柄全般をおぼろげにかいまみることしかできないか、さもなければまったく理解できなくなる。

 ようするに、

 存続をめぐる争いを念頭に入れて自然界を見ないと自然界の様相やその仕組みなんてぜんぜん分からなくなっちゃうよ

ということをダーウィンは言っているわけですね。

たしかにこれは注意すべき警告のように思えます。人間であれ、そのへんの生き物であれ、使える時間も空間も資源もなにもかも有限なのだから生きてそこにいるだけで他のものたちになにかしら影響を与えているわけですし、それは当然圧力にもなる。例えば樹木は木陰を作るけれども、それは生物によって憩いの場にもなるし、あるいは光りをさえぎられたエネルギーの低い場所にもなる。そういう環境を好むものもいればそこでは死ぬものもいる。森を見て生物の豊富さと命の輝きに眼をうばわれると、そこに”いない”生物がなぜいないのかを見落とすことにもなるのでしょう。

 そしてこのような、自然を見ているようでじつはまるで見ていない、ということが起きる原因のひとつは存続をめぐる争いという現実を念頭から消し去っているためかもしれません。実際、存続をめぐる争いとは厳然として自然界で起きている現象なのですから、これを認識しなければ自然を正確に理解できないことは確実です。

注:ところで訳書、岩波文庫「種の起原」上pp88 では economy of nature をー自然の経済[ 原義は自然界の秩序 ] ・・・ーと訳しているのですが、原義は自然界の秩序ってどういう意味なんでしょうね?。いや、たしかにeconomy にはもともと摂理という意味があるみたいなんですが。別にそのまま経済と訳すだけでもよかったのではないかと・・。

 ともあれ、感想を以下につらつらと。

 

自然界の経済全般に関する事柄:生物の分布(distribution)はなにから影響をうけるのか?

 先に述べたようにダーウィンは、存続をめぐる争いは生物の分布や種類による数の多さなどに影響を与える、そう語りました。では生物の分布など、そうした事柄は存続をめぐる争いによってどう影響されているのでしょう?。

 まずダーウィンは生物に直接作用する要素として以下のような例を上げてみせます。

 :食物の量

それぞれの種にとって、その食物の量が増加の極限をきめてしまうものとなることは、言うまでもない。pp95

 :肉食動物による捕食

ーしかし、ある種の平均個体数を決定するものが、食物の取得ではなく他の動物の餌食となることである場合も、きわめて多くおこる。pp95

 :気候

気候が、種の平均個体数の決定に重要な役割を演じる。極度の寒冷あるいは乾燥が周期的な季節としてめぐってくることは、あらゆる抑制作用のなかでもっとも強力なものであると信じられる。私の見つもりでは、1854ー55年の冬には私の所有地の鳥の5分の4が、死んでしまった。pp95~96

 わおう、鳥さんたち派手に死んでますねえ。

 さて、こうした観察例を示した後でダーウィンは、次ぎのような自然界の傾向があること、そしてそれが存続をめぐる争いによって説明できることを示しました。まず原文を引用してみましょう。

When we travel from south to north, or from a damp region to a dry, We invariably see some species gradually getting rarer and rarer, and finally disappearing; and the change of climate being conspicuous, We are tempted to attribute the whole effect to its direct action. But this is a very false view: We forget that each species, even where it most abounds, is constantly suffering enormous destruction at some period of its life, from enemies or from competitors for the same place and food; and if these enemies or competitors be in the least degree favoured by any slight change of climate, they will increase in numbers, and, as each area is already fully stocked with inhabitants, the other species will decrease.

 えーと、これを(かなり意訳なのですが)、以下のように訳してみました。

 私たちが南から北へ、あるいは湿潤な地域から乾燥した地域へ旅行した時、私たちは幾つかの生物種がじょじょに数をへらし、そして最終的にいなくなってしまうのを見るのがつねである。そして気候の変化が目立つために、私たちはこうしたことが起きる原因のすべてを気候変化が直接作用したものとみなしがちだ。

 しかしこれははなはだ間違った見解である。

 私たちはそれぞれの種が、そこがどこであろうが生存できる限り最大の個体数にまで増えていること、そして成長のある時期において、敵や、あるいは生活場所や食物をめぐって争う競争相手によって大量に死に追いやられていることを忘れているのである。もし、気候のちょっとした変化でこれらの敵や競争者がわずかにでも有利になれば、彼らはその数をただちに増やすだろう。そしてどこであろうが生物はその環境で許されるだけの数にすでに飽和しているのであるから、敵や競争者が増えた分、他の種が減ることになるだろう。

 以上の訳のうち、以下の箇所はそれぞれ、

even where it most abounds

→そこがどこであろうが生存できる限り最大の個体数にまで増えていること

as each area is already fully stocked with inhabitants

→そしてどこであろうが生物はその環境で許されるだけの数にすでに飽和しているのであるから

と訳したのですが(さて、適切かな?)。すくなくともこれ以前のページでダーウィンは

 :生物が実際に生き延びるよりもたくさんの数の子孫をつくり出すこと

 :つくり出された子孫のうち、おびただしい数の子孫が死ぬこと

 :そして実際には平均的に生物1個体につき1個体の子孫しか残らないこと

を述べているわけですから、

 it most abounds(最大限にまで増える)

 already fully stocked with inhabitants(すでに住人によっていっぱいになっている)

という原文はそれぞれ、

it most abounds

→ 産んだ子供が死んで死んで死にまくっても、なお、この個体数を維持しています。条件さえゆるくなれば爆発的に増える余力は、当然、十分ありますぜ

already fully stocked with inhabitants

→ いやもう、みんながそれぞれギチギチに増えているんで、おたがいの圧力でもう満杯です

という意味なわけですよねえ、多分。そういうわけで意訳すれば以上のような感じではなかったかと、思うわけですよ。

 

 ∧∧
( ‥) しっかし、おいちゃんが英語を訳すって危険ですよねえ
 
    (  ̄  ̄) まっ、メモですから。
 
 閑話休題

 

 ・・・・・ともあれ、ここで興味深いのはダーウィンが

 気候の変化にしたがってある生物種の数がへるのは気候が直接作用するというよりも、むしろ他の生物種が有利になって数を増やした結果だ

と主張している点です。たしかに考えてみれば生物っていうのはすべてではないですが、気候に対してはかなり幅広く対応しているはずなのに、ある地域を境に急に姿が見えなくなったり、あるいは障壁が特にないのに分布がとぎれるものがままいるような・・・・。

 例えば北村がいるのは神奈川県、そして近所の公園にアラカシが1本はえています。そのアラカシの他にもアラカシは生えているみたいなんですが、北村が知っているのはそれだけです。森の他の樹はスギなどを抜かすと常緑の高木は全部アラカシの近縁種であるシラカシ。アラカシは関西に多い種類だそうな。でも関西と関東ってそんなめちゃくちゃに気候は変わっていないですよねえ??。なのになんでこんなに分布に制限があるんだろうと・・・。

 これはやはりシラカシの圧力のせいでしょうか?。もしシラカシがいなかったら関東でもアラカシの森ができるのでしょうか?。

 これを確かめるひとつの方法はシラカシの樹をことごとくぶった切ってアラカシがどうなるかを見る、というやり方なんですが、まあ、普通はそんな実験をするわけにはいきません(すくなくとも北村がこれをやったら捕まる)。こういう時はこうした仮説に適合する事例が他にもあるか見る、というのが一般的なのでしょう。例えば天文学や物理学では時間や空間のスケールの問題で徹底、実験できないような大規模な仮説を検証するために観測を行いますよね。星の一生しかり、特異な天体現象しかり。社会学でも、例えばジャレド・ダイヤモンドさんは著作の「銃・病原菌・鉄」でそれをやったし、ダーウィンも進化は分岐する、という仮説に基づいてそれをサポートする事例をいろいろ集めたわけです。

 

気候のダイレクトな効果よりも存続をめぐる争いがむしろ効いてくる事例

 さてダーウィン自身は少なくともこの文章の少し後でこういう証拠を述べています。

That climate acts in main part indirectly by favouring other species, we may clearly see in the prodigious number of plants in our gardens which can perfectly well endure our climate, but which never become naturalised, for they cannot compete with our native plants, nor resist destruction by our native animals.

 気候が大部分、他の種を有利にすることにより間接的に作用するということは、わが国の気候にはまったくよくたえうるが、しかしわが国の自生植物と競争することができずにまたわが国の自生動物による破壊に抵抗できないために帰化植物とはなりえない植物が、きわめて多数わが国の庭園にあることで、明白にみられる。pp97(こちらは訳書から引用)

 

 確かに・・、言われてみれば自分達の身の回りで考えてみても庭や公園で植えられているのに野外にまではびこっている園芸植物ってあんまりありません。もちろん、なかには原産地の気候と日本の気候が違うので人間の助けをかりて世代を重ねている園芸植物も多いのですが、例えばダリアとかはそうらしい。チューリップもそうであるけども、夏場は涼しく、冬は湿潤な気候が好きなので日本海側では大規模園芸がされているそうです。

 でもチューリップが野生化しているかといったらどうか?。

 他にもヒマワリはどうなのでしょう?。あれは北米原産だから野生化してあっちこっちに生えてもおかしくないように見えますが・・・。もしかしたら競合うんぬん以前に栽培品種として育種されたので種を効率的にばらまけない(ヒマワリの種は花についたまま)とかあるからでしょうか?。まあ種をばらまけないのも競合で破れる原因になりうるので、競合といえば競合ですが。

 パンジーはどうでしょうか?。あれはなかなか寒さに強いようなのですが、どうもこっちも雑草化は、すくなくとも派手にはしていない様子。近所の空き地にパンジーらしきものがあることはあるのですが、イネ科草本に周囲を覆われてしまっています。ちなみに同じスミレ属の北米原産の種類 V.sororia 、こちらの方は園芸品種が逃げ出して野生化しつつあるようです。後はスイセンはどうでしょうか?。スイセンの原産地は地中海だそうですが、あれは、少なくとも神奈川県では時々野生化しているようです。ただ、当たり一面に繁茂するほどではありません。

 いずれにせよ、このあたりのダーウィンの指摘は(すぐ後で述べますが彼はこの指摘に関しては具体的な品種名を上げていないものの)かなり興味深いものを感じました。私たちの身の回りの自然をもう少し調べたら面白いように思えます。意外と子供に進化を教える教材になるかもしれません(もっともルイセンコ世代の教員とかは進化と存続をめぐる争いに断固反対したりして)。

 さて・・・、

 気候の直接作用もさることながら、気候の変化によって有利になった競合者や敵の増加の圧力が生物種の分布にむしろ影響を与える。これは、存続をめぐる争いを念頭に置いた自然への理解です。

 しかし、人によってはこのあたりの文章は具体性に少し乏しいと感じるかもしれません。たしかにダーウィンは、

 

 :私たちが南から北へ、あるいは湿潤な地域から乾燥した地域へ旅行した時、私たちは幾つかの生物種がじょじょに数をへらし、そして最終的にいなくなってしまうのを見るのがつねである。

 :気候が大部分、他の種を有利にすることにより間接的に作用するということは、わが国の気候にはまったくよくたえうるが、しかしわが国の自生植物と競争することができずにまたわが国の自生動物による破壊に抵抗できないために帰化植物とはなりえない植物が、きわめて多数わが国の庭園にあることで、明白にみられる。pp97 

 

という誰もが知っている/あるいは確かにそうだよなあ・・・と納得できうる現象を述べてはいるものの、気候の変化に応じて競合者が実際に数を増大させたのか、あるいは個体数が変わらなくても他の生物種に対する圧力を増やしているのか、という個々の観察例を少なくともここでは述べていないからです(「種の起原」の他のパートや、あるいはこれ以後の著作でも述べていないのかは別問題)。

 とはいえ、これまでの議論を見れば分かるように

 :存続をめぐる争いがあるのは単純な現実であり

 :ちょっと有利になると生物はその個体数を膨大に増やすのも単純な事実である

以上のことからすると、結論として予想されるのは

 :気候の変化にしたがってある生物種の数がへるのは気候が直接作用するというよりも、むしろ他の生物種が有利になって数を増やした結果である

というものであり、そしてこれは手堅い予想であるといえそうです。

 実際にダーウィン以後の進化学の成果を見ると、サンショウウオの一種、Plethodon glutinosus は、同属の別種が同じ山にいる場合よりもひとつの山で単独でいる場合の方が垂直分布の範囲が広い、というレポートなどがあります。こういった、生物どうしがどのような圧力をお互いに与えるのか、そのことを複数の生物種が共存する時としない時の差などから考察した研究はいろいろとあるのです(参考:「進化生物学」ダグラス・J・フツマイヤ 蒼樹書房 pp48から孫引き)。

 また新しい近縁種が導入されたことで既存の生物種が置き換わってしまう事例、これは意識的でないにせよ、人間が新しい競合者を導入することで既存の生物種がどのような影響を受けるのかを見た実験と言えるのですが、このような事例に関しては訳書pp106でダーウィン自身が列挙しています。

 

少なさと多さ、絶滅を説明する

 いずれにせよ、このコンテンツの最初に引用したダーウィンの言葉(訳書pp87~88)をここで再び考えてみましょう。  

whole economy of nature, with every fact on distribution, rarity, abundance, extinction, and variation,

自然の経済全般、分布、(個体数の)少なさ、(個体数の)多さ、絶滅と多様性

なるほど、存続をめぐる争いで分布( distribution )が決まることはすでに述べました。

また、存続をめぐる争いによって生物種、例えば敵や天敵が増大すること( abundance )、その結果、ある生物が希少になること( rarity )、そして最終的には消えてしまうこと( 広い意味で extinction )に連動することも先にのべた通りです。

 最後の多様性( variation ) はむしろ次ぎの章でのべられる事柄であると思いますが、以上のように自然界の生物の様相は存続をめぐる争いによって決定されるわけです。ダーウィンが述べた最初の文章の意味はおよそこのようなものではないでしょうか?。

 存続をめぐる争いでそれぞれの生物種の分布、個体数、絶滅が決定される。

 反対にいうと、存続をめぐる争いを念頭に置かないと生物と自然のことは理解不可能である。

 

存続をめぐる争いの複雑な様相

 さて自然界のなかではさまざまな生物がいるので、存続をめぐる争いは生物どうしの相互の作用によってかなり複雑怪奇な様相を示します。今度はそれを見ていきましょう。

 

1:牛は植生を変化させる

 ダーウィンは「種の起原」訳書の100ページで、サリー州ファーナム近郊で、牛が入れないようにヒースの野原に囲いをしたらスコッチファーが何本も生えてきた、周りのヒースを調べたらじつはヒースのなかにもスコッチファーの小さな芽生えや若木が何本もあり、それらは牛に喰われ続けた痕があった、あるものは年輪が26本あって、ヒースの上に顔をだそうとして失敗してきたことが分かったということを述べています。

 なるほど、北村の近所の公園にも草原があって、そこには若木や小さな樹がはえています。牛はいませんがススキなどが刈られる時には若木まで草刈り機にぶった切られていました。1年か2年に1度は切られてしまうわけで、これらの若木が大きな樹に成長するのはなかなか難しいようです^^;)。環境にもよりますが草原はいずれは森へと遷移していってしまうのですが、人間の手入れや牛とかが入ると若木はなかなか成長できなくて草原はしばしばそのままとなるわけですね。

 このように牛など動物の営みは植物に影響を与えているわけです、さて、牛の存在が引き起こす植生の変化についてダーウィンはもっと劇的な具体例を上げています。例えば種の起原 101ページでは

 ーそうするとウシやウマが野生になり、そしてそのことによって(私が実際に南アメリカの諸地でそれを観察したように)植生はたしかにおおいに変化せしめられるであろう。

 と書かれている。ここで今度は「ビーグル号航海記」から直に引用してみましょう。

 平原はブェノアイレスの周囲のものに似ていた。芝草は短く、あざやかな緑で、クローバーや、あざみをしきかためた所もあり、ビスカッチャの穴があった。サラド川を越えて、土地の外貌に著しい変化を強く感じた。こわい草本からみごとな緑の新鮮な敷物に移っている。私ははじめこれを土壌の性質がある変化をしたためと考えたが、土地の人は、パンダ オリエンタルでも、モンテヴィデオ附近と、人口の少ないコロニアColonia の草原とでは、ちょうど今述べたと同じようなはなはだしい差別が見られるが、これはすべて家畜の糞による肥料のためであり、また家畜が草を食うためによると断言した。北アメリカの草原でもこれと全く同じ事実が観察されている。五ー六フィートもあるこわい禾本類がうしに食われると普通の放牧場に変わってしまう」

 「ビーグル号航海記」(上)pp182~183

 「1535年にラ プラタの最初の移住者が72頭のうまを連れて上陸して以来、これほどいちじるしく変貌した国はおそらくあるまい。うま、うし、ひつじなど無数の群が、植物の全景観を変えたばかりでなく、グヮナコ、しか、だちょうなどをほとんど駆逐してしまった。その他の変化も同じように無数に起こったに相違ない。ある所では野生のぶたがペッカリと入れ代わり、野犬の群が人跡の少ない森の流れの岸に遠吠をしているのが聞こえ、また普通のねこも大きなおそるべき野獣と化して、岩山に棲むようになった。ドルピニー氏が述べたように、家畜が移入されて以来、腐肉を食うはげたかの数は限りなく大きなものである。ー略ーういきょうやちょうせんあざみの他にも、多くの植物が野生化したことは疑いない。こうしてパラナの河口に近い島は、河の流れに運ばれた種子から生じたももやオレンジの木で濃密におおわれている。」

 「ビーグル号航海記」(上)pp184~185

 このように牛のような大きな草食動物の存在はイギリスのヒースの草原も南米の植生も大きく変えてしまう。

 ところが牛自身はある種のハエの存在に影響を受けるのだそうな。

  

2:ある種のハエは牛を抑制する

種の起原の101ページではパラグアイでは野生になった牛や馬や犬がいないこと、これらの地域では産まれたばかりの動物のへそに卵を産みつけるハエがいること、だからハエの存在が牛などの野生化をさまたげること、そしてハエ自身はおそらく肉食性の鳥に影響されることを上げています。

 先に話したように牛は植生を変えてしまうわけですが、植生が変わるとそこにすむ鳥の種類まで変わってしまうらしい。考えてみれば当たり前。ダーウィン自身はスタッフォードシャーにある親戚の所有地を調べることで、囲い込まれて、なおかつスコッチファーが植えられた区域の植生と動物相を調べて、牛が入らないように囲われてスコッチファーが1本だけ植林された場所では、

 :ヒース植物の数の割合が変化したこと

 :周囲には見られない植物があらわれたこと

 :周囲のヒースでは見られない食虫性の鳥が6種類いたこと

と、このような変化が起きていることを示してみせました。おそらく植生の変化によって昆虫の種類が変わり、そして昆虫を食べる鳥の種類まで変化してしまったようです。

 以上の観察例からからダーウィンは生物同士の関係が次ぎのようなものになりうることを示します。

 ある種の肉食性の鳥が増えたとする→へそに卵をうみつけるハエが減る→牛が野生化できる→

 野生化した牛が植生を変える→植生の変化によって昆虫の種類が変わる→それを食べる鳥の種類が変わる→

 昆虫を食べる鳥の種類が変化するとそれは食べられる側の昆虫にも影響が出る。当然、へそに卵をうみつけるハエにも影響がでる。そのハエが増えるにせよあるいは減るにせよ、それは牛に影響をおよぼす

 このように生物は複雑にからみあいながらお互いに影響をおよぼしあっている。そのために草原が囲い込まれたり、反対に牛が放たれたりすると自然の景観もそこにすむ動物や植物も変わってしまう。

 たしかに自然の性質がこういうものであることは多くの人に知られています。しかしこれが存続をめぐる争いを体現して変動しうるものだとはあまり自覚されていないのではないでしょうか?

 

”存続をめぐる争い”の複雑な関係は未来にある均衡状態をつくりだす

 このように自然界の生物どうしの関係、そしてそれらの生物が存続をめぐる争いによってお互いに影響しあう様子は複雑なものです。ところが結果自体はしばしば確定的で安定的です(もちろん力の均衡でなりたっているのでどっかが動くとすぐ元の状態から変化してしまうわけですけども)。

 ダーウィンは訳書のpp103~104でこのように述べています。

 われわれは彎曲した川岸をうずめている植物ややぶをみるとき、ともすればそれらの相対的な数や種類を、われわれが偶然とよぶものに帰しがちである。だが、これはなんとまちがった見かたであることか。アメリカの森がきりはらわれると、そこにいちじるしくちがった植生が生じることを、だれでも、きいたことがあるであろう。しかし、むかし木をきりはらったにちがいないアメリカ合衆国南部の古代インディアン遺跡には、現在、周囲の処女林と同様なみごとな多様性といろいろな種類の割合とが、みられる。

 ー中略ー

ひとにぎりの羽毛を、なげあげてみよ。すべては一定の法則にしたがって、地面に落ちるにちがいない。だがこの問題は、何世紀もかかっていま古代インディアン遺跡に生育している樹木の相対的な数や種類を決定した、無数の動植物の作用と反作用に比較すれば、いかに単純なものにすぎないことか。(訳書 pp103~104)

 ようするにここでダーウィンがいっていることは、

 :豊かな森林を伐採すると、それまでとはまったく違う植生が生じる

 :だがかつて森林を伐採してつくられたであろう古代インディアンの遺跡の森は周囲の森と同じ状態である

 :つまり伐採された時に成立する周囲と異なった独特の植生は、数世紀の後には周囲と同じ状態へと至る

 :何世紀もの間にお互いに作用しあった生物どうしの関係は恐ろしく複雑である

 :そうであるにも関わらず、その結果はこのように一定である

これだけ聞くと、なんだ、ふーん、なんですが・・・・・。いや、よく考えてみればここでダーウィンは、

 こうした現象が

 偶然(原文では chance )ではなくて

 必然である(原文では the action and reaction of the innumerable plants and animals which have determined, in the course of centuries, the proportional numbers and kinds of trees now growing on the Indian ruins ! :無数の動植物の(存続をめぐる争いによる)アクションとリアクション、この作用が何世紀もの間に、滅び去ったインディオの遺跡の上にはえている樹木の種類、そして個体数の割合を決定したのである!)

ということを言っているわけで・・・・。

 じつはこれはなかなか重要なことではありますまいか?。なぜかというにダーウィンは存続をめぐる争いがいかに複雑であっても、結果として同じ状態で安定する、そのことを主張しているわけです。ようするに複雑な系ではあるが、

 前提条件が与えられていれば未来がある程度は予想可能である

ということをおそらく自覚している。もちろん科学というのはそういうものですし、そもそもある程度は未来を予想できないと仮説の検証のしようがありません(多分)。

 例えば野外から生き物を採集してきて大きさと年令をそれぞれ計測できたとして、それでその生物の成長のグラフを描いたとします。このグラフは明らかに予測なわけですよねえ?、ようするに手持ちのデータから、このデータを説明する仮説として提案された、それがそのグラフ。でもってこのグラフが正しいかはその生物が実際にそういう成長をするのか飼育して観察したり、あるいはもっとたくさんのデータを集めてどうなるのかを見ればいいわけで、これは明らかに将来への予想が含まれる行為である(少なくとも北村はそう思うのですが、いかがでしょうか?)。

 そしてダーウィン自身は生物が分岐して進化することを予想して、そうした進化理論をサポートする事例を数多く集めました。そして、彼は自分が行っている動作がなんなのかを、明らかに自覚していた様子→種の起原を読むの第2章02を参考

 ちなみに、

なんで北村がここでこういうことをくどくど述べるのかというと、最近、ちょっとショッキングなことがありまして→恐竜メモ03:2006年1月21日を参考のこと。

ここで北村が引用したある人の発言(正確には活字)、

進化理論は現象を後付けで説明するだけだ

こんなことをいったのはもちろん研究者ではありません。でもちょっとサイエンスに興味がある(と自称する)人々の間ではそれなりに名の知れた人だったので北村はおおいにショックを受けた次第。いやあ、ダーウィンやその系統の進化学はそんなもんじゃあないよねえ。これは、進化学と一般の知識人との溝がおそろしく深いことを示す、その事例のひとつですね。

 ちなみにこれをいった人はグールドなどを高く評価していたと思いましたが、そういう影響もあるんでしょうか?。なんというか、ほら、グールドは”偶然”という要素を比較的強く押し出したから。例えば生命のテープを巻き戻すと同じ光景は二度とでてこないといったし(そこんところは例えばコンウェイ・モリスの「カンブリア紀の怪物たち」講談社現代新書とかで突っ込まれていたように、多いに問題があろう)。

 確率ではなく、こういう意味で偶然を持ち込んだ場合、そういう理論なり仮説は未来を予測する能力がどうなっちゃうんでしょう?。そしてそういう理論は科学としてどうなのでしょうか?。北村自身はグールドの難解な説明や考え方がよく理解できないのですが(昔、ワンダフル・ライフを読んだら難しかった、最近読んだらもっと分からなかった)、グールドの真意はともかくとして、すくなくともあれを肯定的に受け取った読者はどういうふうに受け取ったのでしょうか?。

 そしてくだんの人はそこから何を読み取ったのか?、進化理論は現象を後付けで説明できるだけ、とはいったいどういう思想/哲学/知識を背景にもった発言なのか?。

 いずれにせよ、スタンダードな進化理論は未来を予測できるし、ダーウィンもそこのところは自覚していたことに疑いはないですね。さて、次ぎは複雑な自然界の様相を示した、アカツメクサとマルハナバチの話しです。

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      (‥ )ぶっちゃけ、サイエンスライターなんか全滅しちゃえばいいんだよ
 ∧∧   `
( ‥) いやあ、おいちゃんがそれをいいますか 
 

 

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