種の起源:

On The Origin of Species

By Means of Natural Selection

or The Preservation of Favoured Races in The Struggle for Life

 

[ A plant which annually produces a thousand seeds, of which on an average only one comes to maturity, may be more truly said to struggle with the plants of the same and other kinds which already clothe the ground. ]

個人的に(前後の文章を含めて大幅に)意訳

平均して1個体の成熟した子孫を残す一年生の植物で、1000個の種子をつける種類。この種の植物はすでに地面を覆っている同種の、あるいは他の種類の植物と存続に関する争い [ Struggle for Existence ] を行っており、この事例に対して争い、つまりstruggleという言葉を使うのは、獲物を奪い合って戦う肉食獣に対して使うよりもより適切な使い方である。

 

種の起原、第3章。訳書である岩波文庫におけるこの章のタイトルはずばり

生存闘争

英語では[ Struggle for Existence ]

 

 Struggle は手元の辞書「新英和中辞典 第四版」研究社 1977 では、もがく、あがく、苦闘する、苦心して押し分けて行く。Existence は存在、生存、実在の意味であるとされています。

 さて、じつはこの [Struggle for Existence] という言葉。これを生存闘争と訳すのには異論があります。例えば「現代によみがえるダーウィン」文一総合出版 1999 pp109~110 における九州大学理学部の矢原さんの言葉を引用してみましょう。

「第3章「存続をめぐる争い」では、人為淘汰との類比で自然淘汰を論証するために、すべての子孫が生き残るわけではないという事実を提示します。この事実を、ダーウィンは`struggle for existence`と呼びました。この表現に対してこれまでは「生存闘争」という訳語が用いられてきました。しかしこの訳は正確ではありません。ー中略ーstruggle for existenceという表現は文字どおりに訳せば「存続をめぐる争い」という意味です。struggle という言葉の中に競争のない環境のもとでの生存力の差を含め、existence という言葉のなかに生存だけでなく繁殖のうえでの成功を含めていたという点は、ダーウィンの自然淘汰説を理解するうえで、とても重要なポイントです。existence =「生存」、struggle =「闘争」という訳はこのポイントを正しく伝えていません。」

 「現代によみがえるダーウィン」文一総合出版 1999 pp109~110

 実際、「生存闘争」という訳語は非常に誤解をまねく言葉のようで、この単語から多くの人が

 動物どうしの直接的なバトル

を連想するようです。まあその人がそういう連想をするのは当たり前なのですが、その連想はダーウィンの主旨とはまるで違うものですし、そしてまたこうした誤解に基づいた訳の分からない批判(<言っている本人は批判のつもりらしいので批判という単語を使いますが、あれの何が批判なんだかよく分からん)も後を断ちません。

なお、ややこしいことに生存闘争という言葉は日本ではしばしば生存競争と同じ意味で使われています。むしろこちらの”生存競争”の方がポピュラーな単語ですね。さらにややこしいことに生存競争という言葉はこれまた 別の単語、[ 競争(competition)とほぼ同義の言葉:岩波 生物学辞典 第4版 pp750]で使われるそうな。

 そういうことからこの先、このコンテンツでは [Struggle for Existence] の訳語に生存闘争/生存競争と言う言葉をあてずに、 

存続をめぐる争い

という訳語を使います。ただし引用する訳文は例外です。

 

さて、存続をめぐる争いとはなんでしょうか?ダーウィンは以下のように語っています、

「私は〈生存闘争〉という言葉を、ある生物が他の生物に依存するということや、個体が生きていくことだけでなく子孫をのこすに成功すること(これはいっそう重要なことである)を含ませ、広義に、また比喩的な意味に、もちいるということを、あらかじめいっておかねばならない。」p88

 原文は [I should premise that I use the term Struggle for Existence in a large and metaphorical sence, including dependence of one being on another, and including (which is more important) not only the life of the individual, but success in leaving progeny. ]

 ダーウィンは存続をめぐる争いをこのように説明していますが、これはどういう意味なのでしょうか?。

 結論に飛びつく前にダーウィンの文章を読み進めていきましょう。この文章の後、ダーウィンは飢餓状態にあって食べ物を奪い合う食肉獣(原文だとcanine animals なので食肉獣ではなくてイヌ科の動物が正しいのでしょう)も struggle (争う)と言われるだろうが、例えば一年生で1000個の種子を作り、そのうち平均して1つの成熟した子孫を残す種類の植物を例に上げ、

 この植物は、すでに地面を覆っている同種、あるいは他の種類の植物と struggle している。これはより適切な使い方であろう、そうダーウィンは述べます。

 原文は[ A plant which annually produces a thousand seeds, of which on an average only one comes to maturity, may be more truly said to struggle with the plants of the same and other kinds which already clothe the ground. ]

(疑問:ところで「種の起原」岩波文庫 八杉龍一 訳では、・・・・地上を覆っている同種類または異種類の植物と闘争しているということが、前の場合よりもたしかにいえるだろう。訳されています。正しいとは思うのですけど struggle を単純に闘争という単語に訳しているせいか、やはり struggle の意味あいがあまりよく分からなくなっているような印象を受けるのですよね)

 ここでダーウィンが言わんとしていることは、

 お腹をすかして餌の奪い合いをしているイヌもそりゃあ struggle しているけども、子孫を残すために種をばらまいている植物はすでに地面に生えている他の植物と struggle しており、さらにいえば struggleの使い方としてはこちらの方が適切だよね、

 ということでしょう。

 実際、そう考えないと先に述べた文章、

 [ .....(which is more important) not only the life of the individual, but success in leaving progeny. ]

(北村が直訳すると。個体が生き長らえるだけでなく、子孫を残すこと。それがより重要なのである、)

 (ちなみにprogeny という単語は集合的な意味での”子孫”だそうなのですが、この単語を持って来たことにもダーウィンなりの意図がこめられているのでしょうか?)。

 の意味が通りません。

 :子孫である種子をまいていること

 :そしてそれらの大半が他の植物によって殺されてしまうこと

 :しかし平均して1つの子孫を残せること

この事がなぜ肉食獣の喧嘩よりも重要/あるいは適切なのか?。それはダーウィンが存続をめぐる争いという単語に”子孫を残すこと”という含みを持たせたからでしょう

 例えば無敵のスーパー生物がいても、もしその生き物が子孫を残さずに絶えてしまったら、進化になんの痕跡も残しません。

 子孫を残すこと、これが大事。

 ちなみに昔、非常な勢いで興隆する遺伝学に対抗してソ連でルイセンコ学説というのがはやったことがあります。これは当時、革新的な学説という風を装っていたみたいですが、実体はどうも中世期からいきなりタイムトラベルしてきたような古式ゆかしい学説だったようで、さらにこれを日本で一生懸命普及させようとした人たちがいたんですね。そのひとり、石井友幸という人の書いた本「進化論の百年 ダーウィンからミチューリンへ」新読書社 1960 のpp36 を見ると、石井さんはこう書いている。

 「生存競争というと、動物のあいだの、食うか食われるかの、はげしい闘争を思いおこすのであるが、ダーウィンは生存競争という言葉を非常に広い意味に用いているのである。それだけにダーウィンのこの言葉の使い方はかなりあいまいであり、適切でない場合もある。これは、あえて生存競争といわなくてもよいものまでひっくるめて、何もかもこの言葉で片ずけようとしたためであるように思われる。」

 今から考えると石井さんはダーウィンの言っている意味や、彼の言った進化を説明するアルゴリズムをまるで理解していなかったのでしょう(おそらくルイセンコ学説というあっさり滅びてしまった学説に賛同した人々のほとんど全員がそうだったのではあるまいか?)。

 存続をめぐる争いという生物をとりまく環境や他の生物とのかかわり合いの中で子孫をどの程度まで残せるのか?

それがダーウィンの主旨であることをお忘れなく。

 そしてまた、そもそも生まれた子供達が無事に次代に子孫を残せるまでに生き延びる確率は、子供達のどれでも同じというわけではありません。それにすべての子供達が成長できるわけではありません。これがために生物が進化するという現象が起きるわけです。つまり、

 :子孫のすべてが生き延びられるわけではない

 :生き延びられる確率は個々の子孫によって違っている

 :その結果、生物の進化が起きる

というわけなのですが、生き延びられる/生き延びられない、そういう状況をつくるもの、それが、

存続をめぐる争い

なのです。

 では存続をめぐる争いとはどういう現象で、なぜ起きるのか?、それは観察することができるのか?。それを見ていきましょう。

 

 :存続をめぐる争いとはなぜ起きるのか?、観察できるのか?

 ダーウィンは

 [ A plant which annually produces a thousand seeds, of which on an average only one comes to maturity, ......]

 と述べたのですが。(ちなみにこの文章における annually という単語は一年生の意味、つまり1年で寿命がつきてしまう植物とか、あるいはそういう植物の生活サイクルのことで、文章全体を意訳すると、1000個の種子を生産し、それらの種子のうち、きちんと成熟するまでに生き延びられる子孫が平均して1株残る、そういう一年生の植物。という意味)

 ダーウィンはこの先の文章(pp89~94)で存続をめぐる争いについて幾つかの事柄を列挙していきますが、それらの内容はいずれも以上の一文でほぼ述べられていることです。つまり、

 1:生物は高い比率で増加する傾向がある

 2:そうした増加は通常、捕食されたり、他の生物との競合によって多くの個体が死ぬために押さえ付けられている

 3:そのために存続をめぐる争いが起きる

 4:生物が産む子供の数は、成熟して子孫を残せるまで生き延びられる個体が平均して1個体(雌雄のある生物ではちょっと話が複雑になるのだろうけど)だけ残る数である

 では、こんどはダーウィンの文章を追ってこれらの事柄を具体的に見ていきましょう。

 

 1:生物には高い率で増加する傾向がある(まずは理論で語ろう)

 高い率で増加する傾向・・・。答えを先にいってしまうと、存続をめぐる争い(生存闘争)が起きる原因は、生物が高い比率で増加する傾向がある、そのことにあります。それをダーウィンは次ぎのように述べています。

 「生存闘争は、あらゆる生物が高率で増加する傾向をもつことの不可避的な結果である。ー中略ーこのように生存の可能な以上に多くの個体がうまれるので、あらゆる場合に、ある個体と同種の他の個体との、あるいはちがった種の個体との、さらにまた生活の物理的条件との、生存闘争が当然生じることになる。p89」

 さてはて、高率で増加する傾向、とか、生存可能な以上にうまれる多くの個体とはどういう意味でしょう?。さっき話した、1000個の種子を生み出す一年生植物、について話すと次ぎのようなことになります。その植物があなたの身の回りに生えている植物で、何年のもの間、別段数を増やしもしなければ減らしもしないとしましょう。その植物が一年生であるとしたら、毎年、一株の植物から一株の子孫が生き残ったことになります。そうですよね?。

 では1000個の種子のうち、生き残った株以外の999個の種子はどうなったのか?。

 答えは簡単。みんな死んじゃったわけです。

 ではなぜ死んだのか?。

 また、もしも彼らの生き残る率がちょっとだけ上がるとどうなるか?。

 ここでまずダーウィンがあげるのは理論上の話です。例えばある生物の一対のつがいから産まれた子供がもしもすべて生き残って子孫を残したらどうなるか?。

 計算するとどんな生物も時間の速い遅いはあるけれど、ほどなくしてものすごい勢いで増えて地球を覆い尽くさんばかりになります。ダーウィン自身の計算でも1つがいのゾウのすべての子孫が生き残れば5世紀で1500万頭のゾウが子孫として生じることになる(pp90)。

 しかし実際にはそうはならない。つまりこの架空の計算は前提がおかしいということになります。前提がおかしいので計算が正しくても答えが現実とは一致しないのですね。

 ではその前提とはなにか?。

 そもそも産まれた子供のすべてが成長できるわけではないので計算の通りにはいかないのです。現実に生物は成熟して子孫を残す前にたくさんの子供達が死んでしまいます。身の回りの自然をちょっと詳しく見てみれば、アリンコにひきづられていく毛虫や寄生蜂に喰われた青虫なんかを見ることができるように、とてつもなく多くの子供達が死んでいくのことに疑いはありません。

 逆にいうと、もしもたまたま生き延びる子供の割合が多くなったらどうなるか?。

 例えば先ほどの、1000個の種子を生み出す一年生の植物、が生み出す種子と、そこから芽吹く幼い植物の生き残る率がちょっとだけ上がると、例えば生存率が1/1000ではなくて3/1000になるとどうなるか?。

 もしそうなったら単純計算でもとの3倍の数に増えるわけですよね。翌年もこの傾向が維持されたら最初の年の9倍になる。このように生存率が少し上がるだけでその生物の数はやたらに増えてしまうだろうことが予想されますし、事実、生物は状況次第ではものすごく増えてしまう。

 

 1-02:生物には高い率で増加する傾向が確かにある(理論だけでなく、具体的に語ろう)

 ダーウィンは以上のような理論的な計算の後に具体的な実例を上げて話しを進めます。例えば条件の良い季節が続いておびただしく数を増やした動植物の記録や、あるいは外来生物のものすごい増加(pp90~91)。

 ダーウィンは種の起原91ページで南米に導入されて膨大な数に増えたウシやウマ、移入された植物の法外な増加などを上げていますが、彼の1839年(出版の過程が少し複雑なのですが)の著作、「ビーグル号航海記(上)」ではもうすこし詳しいことが書かれています。

 それによるとダーウィンは南米でこんな光景を目撃したそうな。

 「ガルディア附近で、今ではいちじるしくありふれたものになっている二種のヨーロッパ産の植物の南の限界を見つけた。ういきょうはブェノスアイレス、モンテ ヴィデオその他の市の附近で、溝の辺を極めて過剰におおうている。しかしちょうせんあざみの一種カルドーンcardon (キナラ カルドウンクルス Cynara cardunculus )はそれよりもはるかい広い範囲にはびこっている。これは大陸を横断してコルディエラの両側ともに、この辺と同じ緯度の範囲に生ずる。私はこれをチリー、エントレ リオス Entre Rios 、パンダ オリエンタルの人跡の少ない所に見た。パンダ オリエンタル地方に関する限り、幾多の平方マイル(おそらく数百)にわたって、この刺のある植物が一塊をなして地をおおい、人も獣も通過ができなくなっている。起伏のゆるやかな平原で、この類の大群落がある所は、他の種類は生活ができない。しかしこれが移ってくる以前は、地表は他の所と同様に、茂った禾本類を育てているに相違ない。一種類の植物が在来のものをしりぞけて、これほど大規模な侵略を遂げた記録がはたしてあるか、私は疑っている。」

 「ビーグル号航海記」(上)pp183~184

 ちなみにカルドーンとは手持ちのささやかな資料「週刊 朝日百科 植物の世界1」ではチョウセンアザミ属の植物で、学名は Cynara cardunculus 、地中海沿岸とカナリア諸島に分布する植物だそうです(この本ではカルドンと表記されている)。カルドーンは地方によっては食用で、アーティーチョーク C.scolymus はこれから改良されたとされているそうな。アーティーチョークは江戸時代に日本に渡来。アザミに似ているのでチョウセンアザミと呼ばれているそうな。

 いずれにしてもダーウィンが訪問した当時、ブエノスアイレスのあたりは地中海原産のチョウセンアザミだらけになっていたらしい(現在はどうなっているんだろう?)。こうした具体例から生物は条件が変化して生存率が少しばかり上がると数を膨大に増やせること、そしてもともとそれだけの数の子孫をばらまいていることがわかります。

 たしかに私たちの身近でもセイヨウタンポポのような外来植物がカントウタンポポとか在来の種類を圧倒して日本で猛烈に数を増やしていますし(交雑もしていますが)、何年かに一度はヒトデなどが海で大発生します。

 しかし自然界を大きく見回すとそこまで爆発的に数を増やす生物はなかなかいません。ヒトデの大発生はそもそもがひとつの事件ですし、すべての外来植物が猛烈にはびこるわけでもありません。じつはなかなかそうはならないというこの事実それ自体が、産まれた生物の大多数が死んでしまうことを物語っている。それをダーウィンは指摘します。

 ようするにチョウセンアザミの大繁茂という現象は

 :生物には高率で増加する傾向があることが単純な事実と計算で示すことができる

 :しかし多くの場合、現実にはそういうことがなかなか起きない

 :その原因はおびただしい数の個体が成熟前に死ぬからである

 :もしもちょっとそういう抑制がゆるんだり、あるいはちょっとその生物にとって都合のよい環境になると、生物はとたんに物凄い勢いで増えることが予想されるであろう

 :そして事実としてそうである、チョウセンアザミなどの例を見よ

という事柄を観察から示しているわけですね。では、具体的には生き物はどういう風に死んでしまうんでしょう?

 

 2:生き物はおびただしく死ぬので増加が押さえられている(観察と実験)

 生き物はどのようにして死ぬのか?。ダーウィンは自分の観察結果から植物の場合、例えばそれは芽生えの時であること。そしてその時期に、

 1:外敵によって殺される(原文では destroyed )

 2:他の植物によって殺される

ことで数を大幅に減らしてしまうことを述べます。具体的には

 私は長さ三フィート、幅二フィートの小さな土地を、たがやして草をとり、他の植物の妨害をうけないようにしておいて、自生雑草の芽ばえが出てくるごとに、それらのすべてに印をつけた、そうしてみたところ、357本のうち295本以上が、主としてナメクジや昆虫よってほろぼされた。pp94~95

 草のはえるままにしておくと、より弱い植物は、たとえ完全に成長していても、より強い植物によって、しだいにころされてしまう。このようにして、小さな芝地(辺が三フィートと四フィート)にはえた20種のうち9種が、他の種が自由に成長をゆるされたがために、ほろびてしまった。pp95

 という例を上げました。この結果は重要ですし、そして付け加えるとダーウィンのこうした行動もまた非常に重要です。彼がやったことはまさに実験です。このようにダーウィンは理論と現実の観察例、そして実験によって、

 1:生物は高い比率で増加する傾向がある

 2:そうした増加は通常、捕食されたり、他の生物との競合によって多くの個体が死ぬために押さえ付けられている

 ということを示し、ここから、

 

 3:存続をめぐる争い [Struggle for Existence] 、というものが自然界にある

 という結論を導き出したのです。なお、世の中には”存続をめぐる争い”(彼らは生存競争と呼びますが)はないのだ、という人もいます。そうした意見に関する北村の感想はおまけとしてこちらにまとめておきました→生存競争なんてないんだって意見な話

 まあそんな勘違いな意見はともかくとして・・・・

 

 :存続をめぐる争いによって変異は保存され、進化が起きる

 では存続をめぐる争い、とは進化に関してどういう点で重要なのか?。第3章の一番最初で述べられているダーウィンのそもそもの言葉をここで引用しましょう。

 「この生活のための闘争によって、変異は、いかに軽微なものであっても、またどんな原因から生じたものでも、どの種でもその一個体にいくらかでも利益になるものであったら、他の生物および外的自然にたいする無限に複雑な関係において、その個体を保存させるようにはたらき、そして一般に子孫に受けつがれていくであろう。子孫もまた、これと同様に、生存の機会をよりめぐまれやすくなる。というのは、どの種でも周期的に多数の子がうまれるが、そのうち少数のものだけが存続していかれるからである、どんな軽微な変異も有用であれば保存されていくというこの原理を、それと人間の選択力との関係をあらわすために、私は[自然選択]の語でよぶことにした。p86~87」

 有利な変異が保存される。こういう現象それ自体は [ Natural Selection ] 自然選択のことなのですが、

 自然選択が起こる理由は

 存続をめぐる争い、すなわち[Struggle for Existence] があるからだ、

ダーウィンはそういっているわけです。たしかにその通りで、個体に変異があっても、自然選択がなければ進化は起きませんし、存続をめぐる争いがなければ、自然選択も起きません。

(注:自然選択がなくても対立遺伝子の頻度は確率的に変動しうるはずだから、自然選択がなければ適応的な進化は起きない、というべきか)

 そして自然選択の結果によって変種から種が、そして異なる属の生物がうまれる、つまり進化が起き、種分化という現象がおきて生物は多様化して機能的にふるまえる器官を持つようになるわけです。

 それゆえに存続をめぐる争いが重要なわけですね。

 ちなみに以上の文章の原文は

[ Owing to this struggle for life, any variation, however slight and from whatever cause proceeding, if it be in any degree profitable to an individual of any species, in its infinitely complex relations to other organic beings and to external nature, will tend to the preservation of that individual, and will generally be inherited by its offspring.

The offspring, also, will thus have a better chance of surviving, for, of the many individuals of any species which are periodically born, but a small number can survive.

I have called this principle, by which each slight variation, if useful, is preserved, by the term of Natural Selection, in order to mark its relation to man's power of selection. ]

 なのですが、ええっと北村、これを以下のように意訳したんですが、どうざんしょか?。

 この存続のための争いによって次ぎのようなことが起きよう。たとえほんのわずかであっても、その変異が個体にとって有益であるのなら、その個体がどんな種類の生物であるかにかかわらず、他の生物や環境との非常に複雑な関係において有利であった場合に、その変異を持った個体は生き延びる可能性が大きくなるし、そしてその個体の子孫にその変異があまねく受け継がれるだろう。

 この変異を受け継いだ子孫もまた同じ理由で生き延びるチャンスが増えるだろう。どんな生物であれ時期によって数多くの個体がうまれてくるが、生き延びるのはわずかな数である。そのなかでこの子孫は生き延びるチャンスを増すことができる。

 私はこの原理、すなわち、わずかな変異であっても、それが有益であるのなら保存されるという原理をNatural Selection (自然選択)と呼んでいる。こう呼ぶのはこの原理が人間による選択と類似性があることを強調するためである。

まあダーウィンの言いたいことはこういうことではないかと思うのです。そうでないと他の文章と多分、意味が通じませんよね。そしてここで重要なのは

 :個体に有利な変異はその変異を持った個体が存続をめぐる争いにおいて生き延びる可能性を高める

 :その変異は子孫に受け継がれる

 :その変異はそれを受け継いだ子孫が存続をめぐる争いにおいて生き延びる可能性を同様にたかめる

 :結果としてその変異があまねく子孫に行き渡るようになる

 という内容が述べられていることです。存続をめぐる争いという自然界に厳然として存在する現象によって、個体を有利にする変異が残され、そしてその変異が集団のなかにひろがっていき、その結果、生物の性質や特徴に変化が生じる。

 こうして進化が起きるわけです。

 ですから存続をめぐる争いと自然選択は進化を理解するのに非常に重要なキーワードなのですね。そして種の起原における第3章とはその”存続をめぐる争い”を具体的に検証し、説明するためのものなのです。 

 ・・・・ところで、この原文にある、any variation, however slight and from whatever cause proceeding, .....の部分をどう訳すべきなんでしょうね???。北村は英語が(英語だけに限ったわけではないですが)得意ではありませんのでなんとも。

 any variation, however slight and from whatever cause proceeding, ..... は変異の由来を語った部分なのか、あるいは適応の度合いについて語っている部分なのか?。今度、英語に詳しい人に聞いてみよう^^)

 

 ∧∧
( ‥) おいちゃん、大丈夫?。馬鹿だってばれちゃうよ・・

   ( ̄  ̄ ) しーっ、それをいうなって。黙ってれば分からないよ。
   ´

 閑話休題

 

 ともあれ、自然選択で生物は進化し、そして自然選択は”存続をめぐる争い”が厳然として自然にあまねくあることで生じる必然的な現象なわけです。

 少し先に飛びますが、種の起原の105ページでは

 コムギのいろいろの変種をいっしょにまき、混合して収穫した種子をまくというようにしていくと、土壌や気候にもっとも適合した変種、あるいはもっともよく繁殖する性質をもつ変種が、他の変種をうちまかして多くの種子を生じ、その結果、二、三年のうちには完全に他の変種をおいのけてしまう(上 pp105)

と述べられていますし、同じことが、さまざまな色のスイートピー、ヒツジの変種同士、医療用のヒルの変種同士、などでも起きることをダーウィンは指摘します。

 ようするに存続をめぐる争いの具体的な例を上げてみせるわけですね。

 考えてみればこういう事例は身近でも数多く見ることができように思えます。例えばこれは北村の経験なのですが、近所の公園にシラカシの樹があります。シラカシの樹は黒光りするドングリを大量に実らせて林にまきちらしますが、成長した若木はほとんどありません。春先には時に芽生えがたくさんあるんですが、しばらくすると見なくなります。もっと追跡観察して彼らがどういう運命をたどるのか見てみたら面白いのでしょう。やはり昆虫やナメクジでやられてしまうのでしょうか?。すくなくとも葉っぱがまるくかじりとられたりカビが生えたようなものは見たことがあるのですが・・・。

 また、公園にある草原でクズが勢い良く繁茂してしまった年があって、その時は樹木とその小さな若木以外はもうクズが平らに覆うばかり。それが取り去られてすべての下草が刈られたら今度はセイヨウタンポポでいっぱいになりました。しかしその後、ススキが生えるにまかされたらセイヨウタンポポはだんだん消えていってしまった。植物の種類によって環境や状況の影響の違い、もともともっている性質の向き不向きがあるのですからこういうことが起きるわけですね。

 すなわち存続をめぐる争いというものはそのへんの草原を見るだけでわかる。

 

 4:生物が産む子供の数は、成熟して子孫を残せるまで生き延びられる個体が平均して1個体だけ残る数である 

 さて、最後に生き延びられる個体が平均1個体であるという話をしましょう(雌雄がいてうまれるのなら個体数を維持するのに必要なのは2個体ですけど)。

 ダーウィンが原文のなかで average 、平均して、とか、tend to~、〜の傾向がある、とか、より多くのチャンスを持つ、have a better chance of surviving、と言ったことは重要です

  [ A plant which annually produces a thousand seeds, of which on an average only one comes to maturity, ......]

 平均して成熟にまでいたる1個体を残す、1000個の種子をつける一年生の植物・・・(pp88~89)

....will tend to the preservation of that individual, and will generally be inherited by its offspring.

 (その変異を持った個体は)生き延びる傾向があるし、そしてその変異はそうした個体の子孫に広く受け継がれる(pp86~87)

The offspring, also, will thus have a better chance of surviving,.....

 その子孫もまた生き延びるチャンスをより多く持つ・・・(pp87)

ここで彼がいっていることは”確率”の話なわけです。ダーウィンが自身の理論に確率を導入しているのは結構大事なことらしい。なぜならどうもダーウィンの進化論を信じられない、嘘だっ!!、という人は確率という考えや統計というものが頭のなかからまるですっぽり抜けている場合が多いらしい。かつてルイセンコ学説を日本に熱心に紹介した人々は集団遺伝学を”科学に偶然という要素を持ち込んだ”と批判したようですし、今でも”でたらめによって生物のような精巧なものができるわけがない”と主張する人は後を断ちません。

 ダーウィンが自分の理論のなかに明らかに確率という考え方を組み込んでいるのは、読者としては自覚しなければいけないことでしょう。あと、ひるがえって考えると一般的にいって私たちは確率という考え方に非常に弱いか、あるいはちんちくりんな受け止め方をするものであるということも自覚する必要がありそうです。そうでないと、かつての、そして今もいる人々のようにダーウィンのいうことが全然理解できなくなるかもしれません。

 またダーウィンは世の中の全部の生物がばんばか子供を産むといっているわけでもないことに注意してよいのではないでしょうか?。彼に言わせれば、生物のある1個体は死ぬまでに平均して1個体の子孫を残せばいいのです。これは意外と盲点かもしれない指摘ですね。

 ダーウィンは

 平均して千年生きる樹木では、千年に一回たった一個の種子がつくられるだけで、もしもこの種子が破壊されることなく、好適な場所で発芽することを保証されているなら、十分な個体数をたもっていかれるはずである。pp93

 とのべている。

 確かにそうであるし、彼が述べるように種類によっては数百の卵を産むハエがいる一方で、たったひとつしか卵を産まないシラミバエもいる。卵を産む時はひとつしか産まないフルマカモメは世界中で最も数の多い鳥のひとつである、などなど。生物は平均して1個体の子孫を残せればいいのですね。そして一生のある時期に多くのものが死んでしまう種類では産む数が多いし、そうでない種類は少ない。

 そしてまた生き残る率がちょっと上がると猛烈な勢いで生物は増えてしまう。すこし好都合な状況に置かれただけでカルドンが南米の数百マイル四方をおおいつくしてしまうように。ではその一方で生物の数を抑制するのはなにか。例えばそれは植物の場合、芽生えの時に昆虫やナメクジに喰われてしまうこと、そして他の植物に殺されてしまうことである。それをダーウィンは実験で示してみせました。

 ですから種の起原 岩波文庫 pp88~89で出てくる文章、

 年ごとに千粒の種子を生じ、平均してそのうちの一つだけが成熟する植物では、すでに地上をおおっている同種類または異種類の植物と闘争している(struggle のこと)ということが、前の場合よりもたしかにいえるであろう。

 (犬科の動物が肉の奪い合いをしていることにstruggle を使うよりも、この一年生の植物と他の植物との関係をstruggle というのが適切であるという意味)pp88~89

 原文[ A plant which annually produces a thousand seeds, of which on an average only one comes to maturity, may be more truly said to struggle with the plants of the same and other kinds which already clothe the ground. ] 

この文章は象徴的であるし、すでにここで存続をめぐる争いの要点は述べられているようにも思えるのです。

 さて、この後本文は存続をめぐる争いが実際にどんな様相をていするのか?、その複雑怪奇な様子を述べていくことについやされます。その内容は次ぎのコンテンツで。

 

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 ちなみに存続をめぐる争いの説明で引用されるのが有名なマルサスの学説です。マルサスは人間の人口増加は理屈の上では2、4、8、16倍と倍々に増えるのに、土地が生産できる食料の増加はそれにおいつかないことを指摘しました。じつは北村、マルサスの著作はまだ読んでいないので、詳しくは申し上げられないのですが・・・^^;)ともあれ、マルサスの考えがダーウィンにヒントを与えたか、あるいは現実を理解することに貢献したのは事実らしいし、第3章でも引用されています。しかしマルサスの学説は簡単に述べられるにとどまっています。  

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