自然の多様性を説明するダーウィンの理論を踏まえて考える 

 生存競争なんてないんだって人たちの世界と理論

じつのところ彼らの主張する理論は

ダーウィンの進化理論にくらべて

自然の有り様を説明する能力を失っているか

あるいは説明の質を低下させているのではないか?

  

 人間は価値観に基づいた判断と確からしさに基づいた判断をごちゃまぜにする動物です。例えば”生存競争”という言葉について考えてみましょう。かつて、いわゆる帝国主義時代の一部の欧米人(あるいは過去の日本人の一部も?)などはこの言葉を自分たちによる世界征服の正当化に使いました。

 こうした意見はその根本がそもそもたわ言でしょう。自然現象と人間社会の価値観は別に関係ありません。地球が平面であるほうが望ましいといっても地球は平らになったりしません。自然界で生存競争、より適切には”存続をめぐる争い”が起きているからといって、そのことによって他国を侵略して植民地化し、現地人を奴隷化することが価値観として正当化されるわけではありません。それは自然と同じような現象が人間界でも起きるといっているだけです。

 反対に生存競争という言葉に異様なまでに反感を覚える人たちもいます。概して彼らは以上のような人類のいわゆる負の歴史を踏まえて、生存競争というのは危険な思想であり、虚無である。そもそも生物は共存共栄するものなのだ、自然界に”存続をめぐる争い”などというものはないと主張します。

 まあ、こちらも根っこからして単なるたわ言ですね。仮に生物が共存共栄していたとしても、それが”理想的な共同社会”を築こうという人間の価値観を正当化するわけではありません(ついでにいうと生物の共存共栄というのは存続をめぐる争いで機械的に生じた現象であって、生物自身が共存共栄を目的にしているわけではありません)。

 以上の2つの意見、帝国主義者と生存競争否定論者の考え方は表と裏の対立する関係のように見えて、実際には手をとりあう兄弟姉妹であると言えます。どちらも価値観と現実をごちゃまぜにしているという点では同じものでしかありません。ようするにどちらも間違っている意見ですから個人的には両者の意見を特に識別しないということです。ただし当然ながら相違点もあります。例えば生存競争否定論者の意見は帝国主義者たちと同様の部分で理屈がこんがらがっているだけでない。以上に加えて存続をめぐる争いという現実までも否定してしまっているらしい。ようするに彼らは帝国主義者たちよりも間違いがひとつ多いわけですな。

 さて、このコンテンツで取り上げるのは”自然界には存続をめぐる争いなどない”という生存競争否定論者の意見に関して、さらにいえば彼らの中核である”存続をめぐる争いを否定した”という部分に関してです。帝国主義者とかそういう意見はここでは”僕は痛みを感じることが遺伝的に決定されているので手術の時に麻酔をするのは不道徳だと思います”というジャンクな言葉として解釈し、興味がないので無視します。

 さて、まず簡単に”存続をめぐる争い”についてのおさらい、あるいは再チャックをばいたしましょう(詳しい内容の方はこちらで)。

 そもそもダーウィンは種の起原、第3章の冒頭の部分で”存続をめぐる争い”、つまり一般的にいうところの生存競争について次のように述べています。

I should premise that I use the term Struggle for Existence in a large and metaphorical sence, including dependence of one being on another, and including (which is more important) not only the life of the individual, but success in leaving progeny.

 これをちょっと訳してみると、

私は前置きとして次のことをいわねばならない。私は”存続をめぐる争い”という単語を幅広く、なおかつ比喩的な意味で用いる。また、ある生物がほかの生物に依存すること、そして(これがより重要なのであるが)個体が生存するだけでなく、子孫を残すことに成功するという意味もこの言葉には含まれている。

という意味になります(以下でも述べるように北村の英語力はへろへろなので各自による翻訳を本質的に推奨)。

ようするにダーウィンが言っていることとは、個体が生き延びるだけではなく、個体が子孫を残すことに成功すること、それがより重要であるということですね。事実、子孫を残せなければ遺伝が残らないのでその個体は進化に寄与できないわけですから、それは当たり前(ちなみにここでは血縁者が生き残る場合に起きる事柄などは省略します)。

 さて、その次はこちら

We forget that each species, even where it most abounds, is constantly suffering enormous destruction at some period of its life, from enemies or from competitors for the same place and food; and if these enemies or competitors be in the least degree favoured by any slight change of climate, they will increase in numbers, and, as each area is already fully stocked with inhabitants, the other species will decrease.

 この文章は先に(全文はこちら)以下のように訳したのですが、

私たちはそれぞれの種が、そこがどこであろうが生存できる限り最大の個体数にまで増えていること、そして成長のある時期において、敵や、あるいは生活場所や食物をめぐって争う競争相手によって大量に死に追いやられていることを忘れているのである。もし、気候のちょっとした変化でこれらの敵や競争者がわずかにでも有利になれば、彼らはその数をただちに増やすだろう。そしてどこであろうが生物はその環境で許されるだけの数にすでに飽和しているのであるから、敵や競争者が増えた分、他の種が減ることになるだろう。

 ここでダーウィンによって語られていることは、存続をめぐる争いの一環において、すべての動植物がお互いにギチギチと圧力を加えあっているということです。だから、

:気候のほんの少しの変化がある生物に好適な影響を与えるのなら

:その生物は数を増し

:その影響として別の生物が数を減らす 

これらは後の文章につながる極めて重要な指摘だと思うので心にとめておいてください。

 さて、ダーウィン自身は以上のような事柄を示すたくさんの事実を列挙してみせました。そういったことの詳しい内容は以上の2つのリンク先にも書いたことなのですが、ようするにダーウィンの”存続をめぐる争い”という言葉、そしてその考えの根底にあるものは単なる事実であるということです。

 そしてそれは誰でも確かめられることでもある。

 例えば北村が近所の公園を見ても、毎年ドングリが何千個も落ちているのにシラカシの芽生えはほんの少ししかありません。そして若木はもっと少ない。つまりとほうもなくたくさんのシラカシが毎年毎年死んでいることがわかります。春先や秋の終わりには辺り一面シラカシの芽がはえている場合もありますが、それはいつのまにか消えてしまいます。

 また、生物に数を増加させるすごい力があるということもいわずもがなです。国外からやってきて空き地にはびこるヒメジョオンやハルジオンなどはそうした例でしょう。在来の種であってもそれは変わりません。近所の公園にはもう何年もかよっているのですが、クズだらけになった公園の草地から公園の管理会社がクズをとりのぞいたら、こんどはススキが猛烈においしげるようになりました。それを全部刈り取ったら今度はセイヨウタンポポだらけです。数年前からは年ごとに交代で半分ずつ冬にススキを刈り取っているようですが、今ではススキを主体にしてクズやタンポポ、タチツボスミレ、様々なイネ科植物やキク科植物、シダなどが混在して生えています。

 さらに外来の動植物が猛烈な勢いで数を増やして、それにともなって在来の動植物が少なくなるという例は誰でも思い浮かべられるでしょう。セイヨウタンポポとカントウタンポポしかり、アメリカザリガニとニホンザリガニしかり、ブラックバスやブルーギル、ミシシッピアカミミガメの増加で在来の魚やカメがへっていることはよく知られていることです。

 さて、ここから先は第3章を越えて第4章後半の内容ともダブルのですが、どうもダーウィンは”存続をめぐる争い”と生物同士の強烈な圧力の加え合いを前提として、そこから自動的に多様な生物が分化するのだ、と考えているらしい。それを主張しているとおぼしき部分を以下に見ていきましょう。ちなみにここはすでに第4章の部分です。

 さて・・・・・・

存続をめぐる争い

生物が数を増す傾向

この2つの現象が合わさると

生物の子孫は必然的にお互いに異なるものへと分化する

 

 岩波文庫版の訳本では151ページにあたりますが、ダーウィンは人間によって栽培/飼育されている動植物が、人間の育種家によって1つの原種から異なる幾つかの亜品種へ変化すること、さらに違いがあまりない個体や亜品種が人間によって淘汰されることでお互いの違いがますます大きくなり、最終的に異なる品種へと分化していく傾向があることを指摘し、これと同じ原理が自然界にも適用できるのではないかと考えました。

 ここで続く原文を読んでみましょう。

 But how, it may be asked, can any analogouse principle apply in nature? I belived it can and does apply most efficiently, from the simple circumstance that the more diversified the descendants from any one species become in structure, constitution, and habits, by so much will they be better enabled to seize on many and widely diversified places in the polity of nature, and so be enabled to increase in numbers.

 しかしながら、ーこれはおそらく問われることであるがー、このような原理とアナロジー的に類似な原理が自然界において適用されうるのだろうか? 

 私は次のような単純な事柄、すなわち、なんであれ、あるひとつの種に由来した子孫たちが、構造、体質、習性において様々に多様になると、彼らは自然界における多くの様々に異なる地位をうまく手に入れることになること、そしてそれゆえに数をより増すことが出来るようになること、このような事柄から私は先のような適用が可能であるし、非常にうまくあてはめることができると信じている。

 注:以上も北村の訳です。意訳もしているので正確な訳は自力ですることを推奨。あと、by so much will...ってどう訳せばいいのでしょうね? いやはや馬鹿まるだしで申し訳ないですが、どうも肯定的に文章を接続する表現?らしいので、以上のような感じに。polity of nature は直訳すると自然の行政組織とか自然組織体というようなことになるんですが、たぶん、現在でいう生態系みたいな意味あいですね、たぶん。だから以上の文は、ある種に起原し、種分化の過程で多様化した子孫たちは生態系のさまざまなニッチを占めることができるので、個体数を増加させることができる、という意味合いですね。さらにいうと、逆に個体数を増加させる力が働いているのでひとつの種に起原する子孫たちは異なる生態的地位へと種分化する、という説明がこの後、以下に続きます。

 次にダーウィンはやや空想的ですが以下のような例え話をします。

Take the case of a carnivorouse quadruped, of which the number that can be supported in any country has long ago arrived at its full average.

If its natural powers of increase be allowed to act, it can succeed in increasing ( the country not undergoing any change in its conditions ) only by its varying descendants seizing on places at present occupied by other animal: some of them, for instance, being enabled to feed on new kinds of prey, either dead or alive; some inhabiting new stations, climbing tree, frequenting water, and some perhaps become less carnivorous.

The more diversified in habits and structure the descendants of our carnivorous animal became, the more places they would be enabled to occupy.

 ある肉食の四足獣の場合を見てみよう。この動物はどの地域においてもその地域が支えられうる限り最大の数にとっくの昔に到達してしまっている。

 もし、その動物がもつ”数を増やそうとする自然な力”が作用するのなら、この動物は(その地域の状態がまったく変化しないのであるのなら)、現在、他の動物たちによって占められている場所を、彼らの多様な子孫たちが手にすることによってのみ数を増すことができる。すなわち、そうした子孫たちとは、例えば新しい種類の獲物を餌とするようになったもの、死肉食のものやあるいは生きた獲物を餌とするものがいるし、幾つかのものはすむ場所が変わっているだろう、樹上生活をするもの、主に水中で生活するもの、肉食の度合いが減ったものもいるだろう。

 こうした、習性と構造においてより多様となった、私たちの肉食動物の子孫たちはより多くの場所を占領することが出来るようになっているのだ。

注:以上の原文において

 arrived at its full average =最大限に達している(変動はあるが個体数は平均的に最大限にまで到達している?)

 natural powers of increase =数を増大させようとする自然の力

というのは、たぶん、重要でありつつ相当に正確な表現ではないかと・・・・。

また 、( the country not undergoing any change in its conditions ) =その地域の状態が変化しないならば、と注釈をいれたのも当然といえば当然ですし、慎重だといえば慎重ですね。環境が変動すれば新しい環境にもっとも有利なものが数を増大させて、他の生物がそのあおりをくらって消えてしまうことは先にダーウィンが話した通りです。

 ここでダーウィンが言っているのは

:生物は数を増加させる傾向を持ち、結果的に個体数を変動させつつもお互いにぎしぎしと圧力を加え合っている

:こうした現象はいわば”自然にある力”として働く(万有引力みたいな感じ? まあ、あれよりは具体的ですか・・・)

:仮に環境が変動しないために生物にかかる淘汰も変化しないとする

:この条件のもとでは数を増やす抜け道は子孫がお互いに異なるものへと分化することである

:個体数を増加する力が働く以上、ある生物の子孫はお互いに異なるものへと分化して自然の組織(≒生態系)のさまざまに異なる場所へ進出していくだろう。

:必然的に生物の子孫はお互いに分化して異なるものとなる

ということですね。

 ダーウィンはここからさらに、より具体的な事例を上げて話を進めていきます。

 So, it will be with plants, It has been experimentally proved, that if a plot of ground be sown with one species of grass, and a similar plot be sown with several distinct genera of grasses, a greater number of plants and a greater weight of dry herbage can thus be raised.

 これは植物においても同様である。すでに確認された実験として、地面のある区画に一種類の牧草の種をまく、そして似たような区画に幾つかのはっきりと区別できる属の牧草の種をまく、すると植物の数をより多く、乾燥重量でもより多くの牧草を育てられることから、これは明らかである。

 注:grass は牧草と訳したのですが、イネ科の植物とか、あるいは単純に草の意味かもしれません。

 The same has been found to hold good when first one variety and then several mixed varieties of wheat have been sown on equal spaces of ground.

 同じことはまず小麦の変種1種類を、それから幾つかの変種を混ぜたものとをそれぞれ同じ面積の区画にまいた場合にはっきりと観察することができた。

 Hence, if any one species of grass were to go on varying, and thoes varieties were continually selected which differed from each other in at all the same manner as distinct species and genera of grasses differ from each other, a greater number of individual plants of this speces of grass, including its modified descendants, would succeed in living on the same piece of ground.

 これゆえ、もし、ある一種類の植物が変異を生み続けるのならば、彼らの変種はお互いに異なるものとなるような継続的なセレクションを受けるだろう。これはお互いに異なる属やはっきりと区別できる牧草の種で見られた状況とまったく同じである。この植物のこの種に属する個々の植物個体の数は増加し、分化した子孫たちは同じ場所で生活し繁栄することが出来るようになっているだろう。

 注:go on varying は変異し続けるではなく、変異を生み続ける、に意訳しました。変異し続けるではどうも獲得形質的な臭いがするように思えたので。ダーウィンが獲得形質をどう考えていたのかはおいおい議論しますが、どうも一部の人がいう、彼はラマルク的な獲得形質を認めていた、というのは種の起原を読んだ限りでは深読みのしすぎではないかと・・・・。

 また、continually selected which differed from each other.....は”お互いに異なるようになる継続的なセレクションを受ける”と訳してます。その方が意味が伝わりやすいと思ったもので。なんというかダーウィンの文章は北村のように英語が不得意な人間にはなんとも難解なんですが、言わんとすることははっきりしているのではないでしょうか?

 And we well known that each spices and each variety of grass is annually sowing almost countless seeds; and thus, as it may be said, is striving its utmost to increase its numbers.

 そしてまた、牧草の各々の種や、変種の各々がそれぞれ毎年数えきれない種をばらまくこと、すなわち彼らが最大限にまで数を増そうと争っていると言ってよいことはよく知られている。

 注:ここで使われている as it may be said 直訳すると、そのようにいうことができる、という表現からすると、ここの文章で数を増そうと争っている、という生物があたかも主体的を持って行動しているかのような表現(実際にはやや不正確な表現だと思う)はあくまで比喩である、ということでしょうか? 英語でas it may be said という表現が使われた時、それにはどんなニュアンスがあるのか確認しないといけませんが・・・・・・。

 Consequently, I cannot doubt that in the course of many thousands of generations, the most distinct varieties of any one species of grass would always have the best chance of succeeding and of increasing in numbers, and thus of supplanting the less distinct varieties: and varieties, when rendered very distinct from each other, take the rank of species.

 従って、私は何千世代もの間に、あるひとつの牧草の種に含まれているもののなかでもっともはっきりした変種が最も繁栄し、そして数を増大させるチャンスにめぐまれること、そしてさほどはっきりしない変種にとって代わること、そして変種がそれぞれお互いにはっきり異なるものになることから、変種は種のランクに値するものになるということ、これは疑いないと思う。

 Grass を牧草と訳すべきか、あるいは草と訳すべきかはともかくとして、このように以上一連の文章でダーウィンは、存続をめぐる争いと数を増加させようという生物が持っている傾向から

:同一の種に含まれる変種はお互いに競合する

:そのためお互いに異なるものとなるような継続的なセレクションを受ける

:ゆえにそれぞれの変種はお互いにより異なるものとなっていく

:違いが大きくなった変種はやがて種と呼べるものになっていく

:同一の種から異なる種がうまれる(種分化が起きる)

という結論を導きだしています。この後、原文は生物の系統とは古典的に考えられてきた直線的なものではなく、じつは分岐的なものであることへと続き、ダーウィンはそれがいわば生命の樹 Tree of life と呼ぶべき構造をつくり、そうして自然界における多様な生物たちが誕生したことを説明していくわけです。

 しかしその具体的な内容は後のコンテンツでのべることにしましょう。

 

 

生存競争を否定すること

それによって否定した個人にとって自然界は道徳的に解釈されるが

自然界の有り様は説明不可能になる

あるいは

説明の質は低下し

理論は腐る

 ダーウィンは生物に存続をめぐる争いがあること、特にそれは違いがあまりない品種や同一の種、品種で激しくなることを示し(今回、この部分は割愛してます)、だからこそ生命の樹が誕生すること、生物がかくも多様であることを説明したわけです。しかし生存競争否定論者はそれを信じません。

 例えばかつて一世を風靡したルイセンコ主義者たちはダーウィンを支持しながら、ダーウィンの最大の間違いは同種における生存競争がもっとも激しいと考えたことであるとも攻撃しています。どうもこれ、元ネタはマルクスやエンゲルスだったらしい。詳しくはおいおい補完の予定ですが、日本に限らずルイセンコ主義者たちはつまるところマルクス主義者であったのでマルクス/エンゲルスの言ったことをまんま引用して、そこから自分たちの理論をすべて構築したらしい。そして彼らはダーウィン的といいつつ、実際にはラマルクの獲得形質やさらには時代がかかった中世的な論理をふりかざしてこれで農業革命が起こせると邁進し、実験も検証も反論も全部無視し、絵に描いたような疑似科学ぶりを発揮して最後は挫折して消えていきました(簡単なルイセンコ騒動の解説は進化学はなぜ誤解されるのだろう2の中段以降を参考にしてください)。

 まあルイセンコ主義者たちの挫折はどうでもいいとして、注目したいのは彼らがダーウィンの進化理論を支持していながら、そのじつ同種の生存競争を否定した、ということです。これはかなりおかしな話で、同種で生存競争がなければどうなるか? 当然ながら先ほど長々と紹介したダーウィンの文章で説明されていたこと、つまり、存続をめぐる争いがあるから必然的に種分化が起きるのだ、は成り立たなくなるはずです。ようするに”自然界の多様性”を説明することがおそらくできなくなるわけですね。

 どうもルイセンコ主義者たちがやったこととはダーウィンの進化理論を口では支持しながら、そのじつ、結果的には彼の進化理論を骨抜きすることだったらしい。個人的には理解しがたいのですが、かつて日本でルイセンコ主義を喧伝した人たちの本を読んでみても、どうもこういうことに言及した人はいなかったようです。おそらく彼らは自分たちがしたことに全然気がついていなかったのではないでしょうか?

 代わりに彼らの本ででてくるのは、自分たちをダーウィンの後継と位置づけること、そして自分たちの理論が約束する農業の輝かしい未来などです。実際のところ彼らはダーウィンの後継でもなんでもないし、約束した農業の輝かしい未来とやらも生産量が上がりますというようなえてして抽象的なものです。反対に自然界の多様なあり方はなぜできるのか? 自分たちの理論はそれを説明できるのか? といった議論はほとんど見当たりません。たぶん彼らにとって、理論が自然を説明できるのか? 理論の説明能力はどうあるべきか? といったことはどうでもよいことだったのかもしれません。

 ですがこのことは、理論が自然を説明できる保証がないにも関わらず、その理論で自然界の産物である植物を操作する、ということを示しています。ようするにエンジンの動きを説明できる保証がない理論で自動車を作る、というわけですな。これでは彼らが破滅したのも(一部は団体の名前を改称して現在まで至っているらしいですが)当然だったのでしょう。

 さて、日本の自然科学ではかつて今西進化論というものがあり、これもまた流行ったことがあります。今西進化論も生存競争を否定する理論ですね。こちらはダーウィンの進化理論と対立する理論ですから意図しないままにダーウィンを骨抜きにした、ということはありません。ただ、これもまた存続をめぐる争いを否定したためか種分化(あるいはそれに近いなにか)に関してはダーウィンとはまったく別の説明をせざるをえなかったらしい。例えばこの理論では種は進化する時には一斉に変わると説明します。しかし、まあたしかにこれは説明ではありますが実際にはたいした説明になっていません。なぜなら一斉に変わるシステムや仕組みを説明していないからです。仮に仕組みを考えても今度はそれが現実にあるのか? そしてそれが妥当な説明であるのかを実験や検証で示さなければいけません。結局、そういうことをしなかったので今西進化論は疑似科学の扱いを受けており、一部の人間を抜かすともはや支持者はいません。というかそもそも科学ではなかったのです。 

 興味深いことに今西進化論の支持者は時として、今西進化論はダーウィンの進化理論よりもより良い、例えば次元が高い、という説明をしたりします。どうもこれは2次方程式よりも3次方程式の方が次元が高いのでよりよい、というような意味合いであるらしい。これは非常にそそられる考えです。

 例えば自然科学の理論では現象を説明する時に使った要素や仮定、天球や電子といったものが実際に存在するのかしないのかが問題となるものです。ところが先の考え、つまり次元が高い方が望ましい、にはそういう発想がないらしい。

 2次方程式で十分世界が説明できるのになぜわざわざ3次方程式を使用するのか? 

 余計に加わった項は果たしてなにを指し示しているのか?

 種が一斉に変わるシステムという項はなにか?

 それは存在するものなのか?

このような問いに今西進化論が答えたことはありません。それはルイセンコ主義者たちも同じです。彼らはいずれも実験によってその問いに向き合ったことがどうもないようです。こうした発想の根幹にはおそらく理論の予想するものが現実に存在するかしないかはどうでもいい、という考えがあるのでしょう。そもそもそうでないと実験/検証抜きで理論を信じるということはできません。

 およそ理論の善し悪しは理論の見た目ではかられるべきであって、理論の説明能力はどうでもいいし、理論の説明能力に興味があるわけではない。そして場合によっては理論の骨子を破壊することも、説明能力を低下させることも辞さない、あるいは考慮しない、あるいは認識しない、意識しない。これがおそらく生存競争否定論者の基本的な考えであるように見えます。彼らは自然を賞賛するが、自然を理解することはなかった。少なくとも彼らは説明能力のない/あるいは劣った理論で自然を推しはかった。しかし説明できない理論で説明するとは、それは一体いかなる行為なのでしょうか?

 

 追記:ところで、生存闘争なんてないんですよ。子供を見て御覧なさい。好きにさせると野球したりサッカーしたりそれぞれ違うことやって遊ぶじゃないですか^^)、と教育テレビで大真面目に語っていた人が確かいましたが・・・、いやあ、そうかねえ?。北村の経験からすると皆がみなサッカーをやりたいと思うわけじゃないのは確かです。ですがそれにも関わらずサッカーボールの奪い合いとか学校で普通にあったもんです。備品の奪い合いだけではない。場所をめぐる争いもあります。だからこそ、あぶれた連中はしょうがなく他のことをすると理解していたのですけどね。

 個人的な経験からしても子供社会に(狭い意味でも)競合がないというのは非現実的で明らかな嘘でしょう。子供のボールの奪い合いが存続をめぐる争いと呼んでいいのかどうかは置いておくにしても、取っ組み合いの喧嘩だけが子供の競合だと思ってもらっては困る。お利口さんな大人は自分の非現実的な夢を子供におしつけたがるから困ったものだ。

 あと、今西進化論にせよルイセンコ主義にせよ、これらを信じた生物学者というものは過去も現在もいるのでしょうけども、説明能力のない/足りない進化理論を採用しながらも生物学に関わっていたというのはどういう行為なのか、個人的にはおおいに興味があります。考えられる仮説としては

:過去の一時期における創造論や地球膨張説と同じ状態であった

:進化理論がなくても業績が上げられる分野にいた

:進化理論がなくても業績があげられる作業を行った

:業績が事実上存在しない

ということかなあと思いますが、さてはて、どうだったんだか。

 

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