:サイエンスライターという仕事と展望

 そもそもサイエンスライターとはだいぶん奇怪な職業であるかもしれません。まず彼らは文章を売って生活しています。文章が売れなければ生活できません。一方で彼らが売る文章とは科学に関する事柄です。それはニュースかもしれません。あるいは科学的な事実や現象、論文の解説かもしれません。いずれにしてもそれらは科学に関する事柄です。

 そして彼らが生業の源としている科学とはなにか? この学問の世界では余計な仮定を排除しながら仮説を提案/あるいは探索し、そしてその次ぎには仮説を検証しテストし続けるという作業が果てしなく行われています。

 ここで大きな問題があります。じつはあまり認識されていないようですが、

 売れることと

 科学を正確に伝えること

この2つの要求は概して矛盾する関係にあるということです。例えば温暖化について私が次ぎのような文章を書いたとしましょう。

 人間は自然を破壊し、自然界のバランスを崩してきた、今、私たちはその結果による温暖化、集中豪雨、大形台風の猛威におびやかされている。私たちは地球に復讐され、まさに代償を支払っているのだ。

 これは正確さを求める上では明らかに不適当な表現ですね。復讐という表現は地球に報復する意志があることを示しています。もちろん

 ”地球さんは切れると相手に対して復讐する人なんです”

ということが実際にあってもいいのですが、そういうことが実際にあることは確認されてはいません。

 するとこの文章は確認されてもいない仮定を表現に持ち込んだわけです。ですから科学を語る文章としては明らかに不適切となる。科学は余分な仮定をなるべく削ろうとしますし、仮定を持ち込むにしても、その導入が妥当かどうか検証されなければいけません。

 だから以上の例文は不適切。どのくらい不適切かというと、

 あなたの病気の原因は祟りですよ

というのと同じくらい不適切。

 とはいえ、こういう表現は世の中にはびこっていますよね? 

 これは少なくとも現象としてはやもえないことかもしれません。人間は周囲の事柄を人間特有の仕組みで認識します。そうした認識のなかには理屈としては正しくない、あるいは物事を正確に把握するにはむしろ足枷になりそうなものがあります。人間が理解しやすい理解と、その理解が妥当であるのかどうか、2つの事柄はイコールではありません。

 例えば人間は同じ質問内容であっても、数字や記号など人間関係に関わらない問題設定では正答率が低く、人間関係に関することだと正答率が高くなるという特徴も報告されています。

 これは人間は社会を作る動物ですから当然の結果なのでしょう。そして以上のことは事実をそのまま伝えるよりも、むしろ人間が受け入れやすいように情報をねじ曲げる/あるいは改ざんした方がよく伝わることがあること、それを示しています。

 しかし、これって困りますよねえ? 人間関係になぞらえちゃいけないことだってあるし、それでは不完全な表現にしかならないことがあるのですから。このように人間が理解しやすい、あるいは理解したと思い込みやすい文章には事実としてまるで正確でないものがいくらでもあります。

 弱ったことにライターと呼ばれる人々は、どうも検証という作業とはあまり関係が強くない世界にすんでいるように見えます。ですから勢い、不正確ではあるが耳当たりのいい文章なり解釈をチョイスする場合がままあるようです。

 反対に自動的に検証を強制されるので、不正確なことをすると手痛い目にあう分野も存在します。

 例えばマンションの強度を偽造すると、それはいずれ遅かれ早かればれてしまいます。地震はいずれ起こります。ようするに遅かれ早かれ現実世界で起きる地震という現象がマンションの強度をテスト/検証してしまうわけですね。本人がどう思うのかは勝手ですが建築関係者とは実験と検証を強制的に受けさせられる存在です。法的にはどうだか知りませんが、それから逃れる手段はありません。

 同じことは技術者に関しても言えるでしょう。まずい設計をすると自動車のタイヤがはずれたり、あるはシャフトがどうかなってしまう。こちらの検証はよりハードかもしれません。何万台も車を作って多くの人がそれをガンガン動かすのです。こんなハードなテストはなかなかありません。

 料理人もそうですね。いかに頭のなかで理想的な料理を夢想しても実際に調理してみないとお味はわかりません。ジャングルのなかで生活する人だってそうです。ある種のキノコや果実がいかにおいしそうに見えてもちゃんと選ばないと死にます。

 ですがアーティストやデザイナーやイラストレーターやライターだの小説家だのではどうか?

 こういう人々は現実世界による検証やテストにさらされることがあまり多くありません。だから夢想の世界に耽溺して実現性のない政策をぶちあげて悦にいることだってできます。

 韓非子から引用すれば、口が達者で詭弁をろうすることができる人が大工をいいまかして役に立たない建築方法をさせてしまうことだってできます。知りもしない分野であるのに役にも立たないアドバイスを与えることだってできるのです。

 もちろん、例えばライターなりサイエンスライターでもまったくテストがないわけではありません。作品を作ればその作品が売れる売れないという形で結果が生活にはねかえってきます。それがテストと言えばテストですが、このテストは、

 ”作品が人間の心理に受け入れられやすいか否か?”

 ”作品が流通などの過程で伝播しやすいか否か?”

というものでしかありません。つまり人間という生物の認識の仕組みにひっかかりやすいか、否かであって、その提案なり作品の情報が、

 現実でも有効か否か、妥当か否か?

ではありません。建物は十分な強度を持っているか、自動車は安全か、その料理はおいしいか、あるいはこれは食べられるのか? そういうテストとは違うのです。

 ライターとかサイエンスライターの生産したものは、”噂として生き残りやすいかどうか”、ということでしかないのですね。

 つまるところ北村に言わせれば、

 サイエンスライターというのは

 余計な仮定をそぎ落し、仮説を選び、その検証を果てしなくくり返す科学という営みと

 効率的に繁殖する噂を作る作業との

ありうべからざる結婚をとりおこなう職業なのです。

 似たようなことは他にもあって、科学とアートを合体させようと熱心に主張する人たちがいます。北村はそういう人を何人か見てきましたが、さて、これもまた一体全体どんなもんだかと。

 そもそも入場者の動線を無視して変なデザインの建築をしたり、貴重な標本を演出重視で観察できない場所に持っていったりとやりたい放題した例があるわけですが、さてはて。そもそも彼らは科学と噂が根本的に並び立たないものであることを自覚しているのでしょうか? 否、していないのではないかと思えます。 

 科学の視点からするとサイエンスを人に語る時には

:最優先事項は正確/あるいは可能な限り妥当な内容であること

:効率的に伝達するからといって不正確さを増大させる、あるいは得体の知れない概念を挿入することはありうべからざること

なのでしょうが、アーティストなりイラストレーターなり、はたまたライターの視点からするとまったく違う要求がでてきます。

 彼らにしてみれば正確うんぬんもさることながら、売れるか売れないかが原理的に最重要な問題なのです。食えなきゃ死ぬわけですからそれは当然。

 当然なのですが、このことは次ぎの可能性を示しています。

:フリーランスなサイエンスライターは生活をする上で噂の方を優先させ、正確さを犠牲にする

これは強力な圧力であると言えるでしょう。生か死か?そうなったらそりゃあ噂をとるよなあ・・・という。

 

 また、こうした深刻な要求だけでなく、そもそもサイエンスライターが科学を理解していないということもあります。例えばある人はダーウィンの考えでは進化は起きない、と私に言い切ったことがあります。どうも話しを聞くと彼の進化論と科学に対する理解とは、

:非常に素朴な演繹

:実験の軽視/あるいは無視

:機械論ではなく生気論で生物進化を理解している

というようなものらしい。単純にいってしまうと理論的に正しければそれでいいのだって考え方なんですね。ちなみにこのような考え方は彼だけに限ったことではありません、実は科学に興味を持つ多くの人に共通して見られることのようです。そういえば科学の書評をしている人の書評リストを見たら進化に関する本に「種の起原」もなければ「進化生物学」もないってことがありました。所詮はせいぜいがそんなもんなんですよ、世の中の科学に興味があるウンヌンってのは概してうわっつらだけなのです。

 ですから、

 日本は技術立国なのになぜサイエンスライターの層が薄く、科学の本が充実しないのだ?

と疑問を持つ人がいますが、じつはこの疑問は愚問かもしれないのですね。書き手は生活がかかっているから噂に重点を置く傾向がありうるし、そもそも科学を理解していないわけですから。そうなるのが当然。多分、科学哲学などに関する知識も欠如しているのでしょう。

 サイエンスライターとは理屈と価値観を混同させるし、カテゴリーの包括関係を無視したり、勝手に拡張したり、はたまた生気論者であったりする。それが現実ではないかと思われます。

 日本の研究者はしばしば、

 日本にサイエンスライターなんかいない

といいますが、以上のことを踏まえるとそれはまったくの事実である可能性があります。

 ではどうするべきか?

 答えは簡単です。国家公務員がサイエンスライターをすればいい。ちなみにこれは北村のような人間を国が雇うべきであるという主張ではありません。

 国家官僚がサイエンスライターをやればいいじゃないか

ということです。国家官僚の人々のなかには学歴があり、研究者とパイプを持ち、大量の本を正確に読みこなす能力のある人がいます。科学哲学に眼を通せる人もいるでしょう。科学だけでなく、科学者たちが作り上げている共同体とその内部で起こっている経済の動向も把握しているはずです。おまけに国家公務員だから給料は安定している。ですから文章を噂で粉飾してまで本を売る必要もありません。

 というわけで、国家官僚の皆さん、サイエンスライターになってくれませんかね?

 サイエンスライターを育成しようという人もいるみたいですが、どう考えたって国家官僚から選抜した方が効率的だし速いんじゃないでしょうか? 

 官から民へ? そんなスローガンはこの件に関しては知りませんがな。必要な人員は数十人ですむし、科学と技術は国家戦略です。あなた方がやらないでどうするというのか?

 

 

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 ちなみに北村は自分がサイエンスライターなのかどうか? 自分がいかなるカテゴリーに所属するのか? そんなことは知らないし興味もありません。そもそも重要なのは動作とその結果だけなのです。自分が誰なのか、何者なのかを把握する気はないですし、必要もありませんね。

*2009.05.30 背景と文字の色、テクスチャーを変更。一部の単語や言い回しを(教養学部とか)削除。