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そして、9時50分、根名草山頂上に到着。
頂上は狭く、西側は木々に覆われ、北から東方面が開けている。南側方面はそばに樹林があり、展望はあまり利かない。
1996年に発刊されたアルペンガイドには、『山頂の展望は素晴らしく、北には鬼怒沼の後方に
燧ヶ岳の双耳峰、
その右に会津駒ヶ岳、
東には男鹿山塊と重なるように那須連峰の山並、
さらに右手には高原山が均整のとれた・・・』 と書かれている。
当然 13年も経てば、木々も伸び、展望が得られなくなってしまうこともあろう。それに加えて、この日はやや遠くが霞んでいることもあって、
アルペンガイドに書かれている山をほとんど確認することができなかった。 |
アルペンガイドの記述内容の中で、
確認できたのは、鬼怒沼と
燧ヶ岳だけ。
それも、根名草山の斜面ギリギリまで進まねば木々が邪魔をして見ることができない状態であった。
それにしても黄金色の草紅葉となった鬼怒沼は素晴らしい。まるでそこだけ空中に浮かんでいるようにも見える。
俄然、鬼怒沼に行きたくなったのであった。無論、このまま先に進めば鬼怒沼に行けるが、それでは日帰りできない。
暫し地図を眺めていたところ、大清水側から毘沙門山 (物見山) を越えて到達するルートがあるのを発見。
険しい ? 山を越えてエルドラドに達するような感じで なかなか魅力的である。
次の山行は鬼怒沼で決まりである。 | |
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頂上には 9分程居ただけで、9時59分に出発。往路を戻る。途中の原生林などは大変素晴らしかったが、体力的には物足りない。
頂上で後から追いついてきた方と少し話をしたが、やはり物足りないと言っておられた。金精峠まで戻ったら、
そこから金精山に登ってちょうど良いくらいであろう。
辿ってきた道を忠実に戻る。細い尾根道を下り、鞍部から原生林の中の登りに入る。
時々振り返り、樹林越しに根名草山の姿を探す。なかなか見えなかったが、ようやく見えたのがこの写真。
やはり先ほど往路で見た山は根名草山ではなく、隣の大嵐山だったようだ。 |
道は良く踏まれているが、
一方で過剰に人の手が入っていないのが良い。
こちら側、北の斜面は倒木や苔も多く、いかにも原生林という感じがする。
やはりできたら、根名草山より先に進み、日光沢温泉に一泊して鬼怒沼から大清水に下りたいところである。
もっとも、そうした場合はアプローチおよび帰りも、
交通機関が無いに等しく大変不便であるが・・・。 | |
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樹林帯の登りも終わると、再び背の低い若木と枯れた老木が並ぶ場所に到着。
奥白根山もまだそれほど逆光とはならない状態で見ることができる。
10時34分に避難小屋を通過。順調に進み、旧 避難小屋跡には 10時43分に到着。
原生林の斜面を登り、温泉ヶ岳の東斜面を巻いて、11時12分に温泉ヶ岳分岐に到着。
平坦な樹林帯を進み、下りに入る。奥白根山や菅沼を見ながら順調に下る。 |
11時36分、金精峠に戻り着く。
今朝ほど全くの逆光であった湯ノ湖、男体山
方面をややカスミ気味ながらも見通すことができる。
金精神社前の階段に腰掛け、金精山登山前の腹ごしらえをする。峠には誰もいない。
考えたら、本日 ここまでの行程で会った人はわずかに 6人。なかなか気持ちの良いルートなのに人気がないのが残念でもあり、
また このように静かなままでいて欲しいとも思う。
目に前には温泉ヶ岳が大きい。しかし、頂上は見えない。 | |
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ついでと、金精神社の祠を覗いてみる。やはり、立派な金精神が祀られている。
この金精神社は、弓削道鏡 (ゆげのどうきょう) の男根を 「金精様」 として峠に祀ったのが、
始まりとされている。
奈良時代、女帝の孝謙天皇の寵愛を受けたは道鏡は、孝謙天皇の崩御後、皇位を窺った罪で下野薬師寺別当に左遷されてしまう。
道鏡が上野国 (群馬県) から下野国 (栃木県) に至るため、
この厳しい金精峠を越える際、あまりにも自分の男根が大きく重かったため、峠で自分の男根を切り落としてしまったとも、
孝謙天皇に捧げるつもりで峠で自分の男根を切り落としてしまったともいわれている。
その切り落とした道鏡の男根を峠に祀ったのが始まりとのことである (Wikipediaより) 。 |