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息を切らせつつ斜面を登っていく。
辛いが、展望が素晴らしいので、我慢できるといった状況である。
南アルプスの後方に見える富士山も、
見える範囲がさらに広がり、今や 冠雪していない部分も見える様になってきている。
そして、苦しい登りもようやく終わりとなり、八合目に到着。
時刻は 12時32分。ここには八合目の標柱の他、祠や石碑がある。
写真は その祠を入れて伊那前岳を撮っているが、この祠付近はロープで囲まれていたので、立入禁止だったようである。
写真に写っている石碑は新しいものだが、祠の傍らには割れてしまった古い石碑も置かれていた。 |
ここからは植生保護のロープ伝いに進む。
やがて道が二つに分かれたのだったが、ペンキ印に従って左側の道を進む。
記憶では、右の道を辿れば、目の前の高みに直登できるようであったが・・・。
それでも、左の道の方も、右上に見える伊那前岳と思われる高みへと岩場の道をジグザグに登っていくので、間違いでは無かったのだ と思いながら進む。
振り返れば、八合目 (写真の真ん中に見える盛り上がり) と南アルプスの山々が見える。 | |
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そして、前方には宝剣岳が見えてきた。
時折、千畳敷の方から吹き上がってくるガスがその岩峰を隠す。それが神秘性を醸し出していてなかなか良い。
さて、道の方であるが、途中から今登っている高みを巻いていくように進んでいく。
そのまま上まで行く踏み跡もあったのだが、明瞭な道の方を選ぶことにしたところ、道はそのまま高みを巻いたまま通り過ぎていくではないか。
おかしいなとは思ったものの、先の方にも高みが見えるし (実は和合山であった)、途中から斜面には立入禁止のロープも出てきたので、
そのまま進むことにする。 |
しかし何と言うことだろう、
前方の宝剣岳を眺めながらほぼ平らな道を進んでいくと、何と勒銘石に着いてしまったのだった。やはり先ほどの高みは伊那前岳だったようである。
仕方がないので、勒銘石の前に荷物を置き、伊那前岳へと戻る。今度は尾根通しに戻り、伊那前岳に到着。頂上には三角点があるのみで標識など何もない。
時刻は 12時49分。
なお、帰宅後ネットで調べていたら、伊那前岳は植生保護のため立入禁止との記述が多く見られた。迂闊であったが、状況としては、
頂上直下のハイマツの斜面は立入禁止になっているものの、尾根通しの道にロープは張られてなかったように思う。 | |
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無駄をしてタイミングが悪くなり、かなりガスが上がってきてしまったので、頂上からはあまり展望が得られない。
先程 勒銘石まで進んだ尾根方面を写したのがこの写真。
昭文社の地図では 2,911mピークと和合山は別になっているが、山と渓谷社のアルペンガイドを見ると、和合山 = 2,911mピークになっている。
そうなると、写真 真ん中のピークが和合山ということになる。
また、勒銘石はその和合山手前に見える高みである。
残念ながら、今回 木曽駒ヶ岳の姿を見ることはできなかったが、
ガスの中に中岳の姿だけはうっすらと見ることができたのだった。 |
一方、馬の背、濃ヶ池カール方面はまだよく見える。
伊那前岳頂上を後にして勒銘石へと戻る。
先程 勒銘石に着いたのが 12時46分。そして、再び戻り着いたのが、12時53分。
そのため、勒銘石から伊那前岳の往復時間が 7分とすると、本来 11分前には伊那前岳頂上に着いていたはず。そうであれば、ガスも少なく、
展望も違っていたかもしれない。残念である。
勒銘石の横で、宝剣岳を眺めながら暫し休憩。下方には 千畳敷が見える。
休憩後、勒銘石に刻まれているという文字を眺める。 | |
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宮田村のホームページから引用すれば、『 1784年、天明4年旧暦7月23日、高遠城下を出発し、宮田の宿場に宿をとった高遠藩郡代 阪本天山は、
その夜のうちに大田切川にそって山に分け入り、駒ヶ岳の頂上を目指します。父 阪本英臣が登山に成功した 28年後のことでした。
父と同様、道なき道をたどり、山中で一泊して ようやく前岳の尾根に出た天山が、即興の四言古詩に詠み、同行していた門子の岡村忠彝がそれを大きな黒い岩の上に書き、
石工が彫った。それが勒銘石です。(以下 省略) 』 とのこと。
岩には、「 霊育神駿 高逼天門 長鎮封域 維岳以尊 」 ( 霊は神駿を育み、
高く天門に逼る長しえに封域を鎮めこの岳を以て尊し ) と彫られている。 |