G・Kチェスタトンにおける探偵小説の地平

序言
第一節
第二節
第三節
結語

 序言

 ギルバート・キース・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton.1874-1936)の名は、死後半世紀以上を経た今なお、広く知られている。だが、実際、作品がよく読まれているかといえば、「古典」の座に据えられ、敬して遠ざけられているという面が少なからずあるようにも思える。
 思うに「古典」という名称が一般に用いられるとき、背後に若干の蔑みが含まれているような気がする。具体的に言うなら「古典」とは、昔に書かれたにも関わらず今でも通用する面白さを持つ、あるいはエポックメイキングな価値を持つ作品であるが、不幸にもやはり「時代の制約」のため、現代の読者からしてみれば欠点も目に付いてしまう作品のことではないだろうか。そして、チェスタトンの諸作品を前にして多くの人が抱く感想も、大体これに近いのではないかと思われるのだ。曰く、アンフェアである、推理はおよそ直観的・非論理的であり、奇妙な屁理屈で誤魔化しているだけである、等々。
 探偵小説というものがジャンルとして自立し、ポオなどを起点とする探偵小説史が提唱され始めたのが第一次大戦後、いわゆる黄金時代の本格ミステリ勃興の過程においてであることは、最近では周知となりつつある(1)。ヴァン・ダインの「二十則」に典型的な、ジャンルを規定するディシプリンが形作られたのもこの時期のことらしい。フェアネスや論理性といったルールが歴史的に形成されたものに過ぎないとすれば、それに依拠してチェスタトンを「古典」とみなすことは端的に欺瞞ではないだろうか。
 本稿で試みたいことは、チェスタトンの世界観、宗教観の次元から彼の探偵小説に光を当てることである。探偵小説が十分な市民権をいまだ得ていなかった時代、ホームズ譚が大衆の人気を勝ち得てはいたがなお評論家筋からは一顧だにされていなかった時代、当代一級のジャーナリストであり文芸評論家であった彼が探偵小説を愛し、自らも実作者としてペンを執ったのはなぜなのか。膨大なエッセイや評論が織りなすチェスタトンの小宇宙の中に探偵小説を位置づけることで、答えが見えてくるのではないかと思う。同時にその作業が、従来、僕たちのミステリ観を相対化することにならないかという淡い期待も抱いている。昨今、ミステリに対する共通理解の崩壊が喧伝されている。なぜミステリは面白いのか、なぜ僕たちはミステリに惹かれるのか、という基本的なことを、一度きちんと考えてみる時期にきているのではないだろうか。その際、ミステリというジャンルが確固たるものとして出来上がっていなかった時代にどうしてチェスタトンはミステリを書こうとしたのか、彼はミステリのどこが面白いと思ったのか、について考えてみることは、僕たちによい手がかりを与えてくれるのではないかと思う。


註.
(1)例えば、笠井潔『探偵小説論U』東京創元社、1998年、9-10頁、を参照。

*チェスタトンの著作からの引用について「G・K・チェスタトン著作集〈思想・文芸篇〉」(春秋社刊)に収められているものについては巻数と頁数のみを記す。創元推理文庫所収のものについては、以下の略号と頁数のみを記す。
  「奇」……『奇商クラブ』福田恆存訳、1977年(原著1905年)
  「木」……『木曜の男』吉田健一訳、1960年(原著1908年)
  「童」……『ブラウン神父の童心』福田・中村訳、1959年(原著1911年)
  「秘」……『ブラウン神父の秘密』福田・中村訳、1961年(原著1927年)
  「詩」……『詩人と狂人たち』福田恆存訳、1977年(原著1929年)
  「ポ」……『ポンド氏の逆説』中村保男訳、1977年(原著1937年)

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