G・K・チェスタトンにおける探偵小説の地平

 三、探偵小説の地平

 チェスタトンは1905年刊の『奇商クラブ』以来、ブラウン神父シリーズをはじめとして、『知りすぎた男』『詩人と狂人たち』『ポンド氏の逆説』と、生涯を通じて多くの探偵小説を書き続けており、それは彼の小説全体の中でも主要なジャンルを形作っている。既に述べてきたように、チェスタトンにとって小説は哲学的実践の場であった。そうした実践としてなぜ探偵小説が好んで用いられたのか。いよいよこの点について検討していくことにしたい。その際、あくまでも探偵小説が持つ機能的側面に注目したい。そうすることで、チェスタトン哲学と探偵小説との構造的親和性を明らかにできればと思う。

 チェスタトンにとって探偵小説はいかなる意義を持っていたか。彼は有名なエッセイ「探偵小説弁護」で次のように言っている。

 探偵小説の第一の本質的な価値はどこにあるのか。現代生活の持つある種の詩的感覚を表現した大衆文学形式として、最初にしてかつ唯一のものであるということだ。人間は何千年、何万年ものあいだ巍然たる山岳、幽然たる森林に囲まれて生活した後に、はじめてようやくにしてその詩美を悟った。同じ理由で当然次のように類推できるだろう。われわれの遠い子孫は、いつの日か煙突が山頂と同様崇高であり、街頭の柱が樹木と同様蒼古として自然の趣きを具えていると感じるのではあるまいか。そして現代の大都会そのものが奔放かつ注目に値するものであると悟ったという点で、探偵小説はまさしく 『イーリアス』にも相当するのだ。(第4巻、35頁)

 現代人の多くは、あまりに理性を偏重する結果、視野狭窄に陥っている。ブラウン神父曰く「人工光線でまばゆく照らし出された社会だけが世界で、その向こうや周りは真の暗闇で何もないと思いこんでいる」(秘、271頁)。そして、全てが分かった気になって満足したり、「文明というような普遍的にして自動的なるものに取り囲まれていると、なんとしてでもそれに反抗し、脱出と反逆を説かずにはいられ」なくなったりする。しかし実は「あらゆる脱出のうちもっともセンセイショナルなもの、あらゆる反逆のうちもっともロマンティックなものは文明そのものにほかならぬ」(第4巻、38-39頁)。探偵小説は、都市の全く異なる相貌を浮かび上がらせることでこのことを明らかにし、世人の硬直した世界の見方を破壊するのである。
 具体的に考えてみよう。探偵小説では普通、何らかの事件が発生する。多くの人々は常識や社会通念に従ってそれを解釈し、全てを理解したかのように思い込む。事件は無事解決したと誰もが信じる。ところが探偵だけは、取るに足らぬと思われた細部に着目し、一般人が予想だにしない視点を提示する。それによって、事件は全く違うものとして新たに捉え直される。その瞬間、読者にとって今まで自明と思われていた小説世界が音を立てて崩壊し、様相は一変する。畏怖と驚異に満ちた新しい世界がそこには立ち現れてくる。幸福なミステリ読者なら、「どんでん返し」の瞬間に陶然とした経験を幾度か持っているのではないかと思う。探偵小説の大団円は破局である。そして破局は新たな創造である。自らの解釈がいかに硬直し閉じたものであったかを悟った人は、新たな目をもって世界との生き生きとした関係を取り戻す。ミスディレクションによって読者に誤った解釈を抱かせ、のちにその概念枠組みを破壊するという探偵小説にはよく見られるプロット構造が、チェスタトンにとっては魅力的だったのである。
 チェスタトンにとって探偵小説がこうした意義を持っていたとすれば、彼自らが書く探偵小説は、他の作者の作品に比べて、そうした意義をより直截的に反映した独自の構造を有しているのではないか。現代の我々から見て違和感を感じる部分があるとすれば、それはその独自性に由来するのではないだろうか。そこで、探偵の推理、プロット・トリック、の二点に注目して、チェスタトン探偵小説の特異性を検討していくことにしたい。
 第一に、探偵の推理について。探偵の主要な役割は独善的な事件解釈を揺さぶることにこそあり、事件の解決、真相の看破といったものは二次的価値しか持たない。つまり、探偵の攻撃対象となるのは犯罪そのものではなくその解釈のほうである。そして、チェスタトンの目に普遍性を自認する硬直した事件解釈と映ったのは、当時確立されつつあった警察の科学的捜査だった。ブラウン神父はこう言っている。

 探偵法が科学だというのはどういうことです。犯罪学が科学だというのはどういうことですか。それは人間を内側からではなく外側から吟味することです、でかい昆虫か何ぞのように。そして偏見を交えぬ冷厳なる光とかいうものに照らして研究しようというのだが、そんなものはわたしに言わせれば非人間的な死んだ光にすぎん。……それが時には役に立つこともありましょう。それは私も認めます。しかし、それにしても当今に言う科学は知識どころか知識の抑圧です。なにしろ、わたしどもの心に近く親しい事柄を、手のとどかぬ遠方の不可思議として理解したい、というのだから。(秘、18頁)

 社会の常識となりつつあった科学的捜査や、それを通して見られた事件の風景に衝撃を与えるには、それとは全く違った方法が採られなくてはならない。ここに、ブラウン神父の有名な推理手法である「徹底的な感情移入による犯人の内在的理解」が誕生する。

 わたしは人間を外側から見ようとはしません。わたしは内側を見ようとする……いや、いや、それ以上だ。なぜって、このわたしは人間の内部にいるのですからな。いつも一個の人間の内部にあってその手足を操っているのが、ブラウンなる存在でしてな。そのわたしが、殺人犯の考えるとおりに考えるのです。殺人犯のと同じ激情と格闘するのです。やがてわたしには、殺人犯のからだの中に自分がいるのがわかってくる。(秘、19頁)

 警察の科学的捜査が全面的に理性に依拠しているとすれば、ブラウン神父が犯人の内側に入り込むときに用いる能力は想像力である。無論、想像力を行使する相手は人間だけに限られない。彼が事件全体を、世界を眺めるとき、それは常に行使されている。理性が既に見えているものを素朴に信じてその精緻な分析に没頭するのに対し、想像力はまだ見えていないものを見出そうとする。理性が外から見るのに対して、想像力は内から見る。そこで推理は感情移入という形を取るのである。それを外から見た場合、直観、思い付きと見えるのはやむをえない。理屈を越えた跳躍によってしか理性が暗黙のうちに依拠している判断枠組を相対化することはできないからである。
 ただ、ここで注意しておく必要があるのは、ブラウン神父が想像力だけを行使しているわけでもないということである。想像力の暴走は単なる妄想に終わる。探偵小説が狂人の妄想日記ではなく、あくまで探偵小説であるためには、つまり、小説内の登場人物や、読者に衝撃を与えることができるためには、最低限の共通理解を前提としていなければならない。全く違う解釈が衝撃を与えるのは、それが「同じもの」についての解釈だからである。そのとき「同じものについて語っているのだ」という認識は、最低限共有されていなければならない。それに加えて最低限度の論理的妥当性、整合性も維持されている必要があるだろう。「同じもの」から違った結論を導く理由付けや推論過程が、説得力を持っていなくてはならないからだ。想像力は常に現世の現象のなかに係留されていなければならない。それを行うのは理性である。理性なくして登場人物や読者に衝撃を与えうる事件解釈が導かれることはない。理性と想像力が互いに抑制しつつ均衡して働くところに、チェスタトン探偵小説における推理の特色があるといえるだろう(1)。
 第二に、プロット・トリックについて。探偵小説は探偵の推理を中心に据えた物語である。そして、探偵の推理が事件の相貌を一変させるような事件解釈を提示することで驚きを与える行為なのだとすれば、それを効果的に演出するためのプロットが考案されることになる。最も典型的なのは、目撃者によって付与された事件の図式が探偵の推理によって反転させられるという筋書である。
 例として「三つの凶器」を紹介しておこう(2)。楽天主義者で度を超して陽気な慈善家が邸宅二階の自室から転落して死亡した。現場には撃ち尽くされた拳銃、ロープ、ナイフという三つの凶器が残され、他に部屋には秘書と娘がいた。娘の証言によると、秘書は父親の前で銃を連射した。父親が窓枠の方へ逃げると今度はロープで絞め殺そうとし、ロープが足に絡まると秘書は父親を凶暴に曳きずるのが見えた。そこで娘は床のナイフを拾って父のもとに駆け寄りロープを切ったが、そこで気を失ったのだという。そして秘書自身も殺人を認めた。秘書が逮捕され誰もが事件は解決したと思ったとき、ブラウン神父は驚くべき推理を披露する。死んだ慈善家は自殺狂であり、三つの凶器は自殺のための道具だった。自殺しようとしていた主人に気付いた秘書は慌てて銃の弾を撃ち尽くし、窓から飛び降りようとする主人をロープで縛った。すると娘が飛び込んできてロープを切ったため、主人は飛降り自殺に成功した。娘に自分の行為で父親は死んだと悟らせないように秘書は罪をかぶったのだ、という。楽天家という外見に惑わされ、自殺という可能性に誰もが思い至らなかった。しかし実は陽気さの陰に無神論の虚ろな心が潜んでいたのだ、と神父は真相を喝破する。事件を眼前で目撃した人の解釈ですら、何らかの先入観の影響を避けられない。全く違った解釈もありうるということが探偵によって示されたのである。
 先入観が一定の解釈図式を導くということを犯人が自覚的に利用し犯罪の隠蔽を図ろうとするとき、チェスタトン独特の心理トリックが生まれる。事実の世界は限定の世界である、というチェスタトンの言葉を先に紹介したが、これをいわゆる「図と地の問題」と捉えることもできるだろう。ルービンの壺の騙し絵などがよく例に挙げられるが、要するに人が何か(図)を見ているというとき、無意識のうちに背景(地)と図との選別を済ませてしまっている。地と図とを一度に見ることはできないということ、これが限定の世界に生きているということなのだ。今見えている世界はひとつの選ばれた世界である。そして選択は常に排除を伴う。他でもありえたはずの世界の総体から一定の景色が捨象されてこの世界が現れているのである。「何かを得、かつ何かを捨てるかぎりにおいて、人は初めて何かを創り出すことができるのだ。というのもその時初めて人は明確なる輪郭を引き、一個の形態を描くことができるからである」(第8巻、39頁)。人を見るということも同じである。一定の解釈の中で人を見ることは、他の可能性から目を閉ざすことで可能となる。人がそのなりうる限りの総体に一度になることはできないし、それを一度に見ることもできない。しかし人は往々にしてこの事実を忘れがちである。自分の見ている「あの人」だけが全てなのだとつい思い込んでしまう。犯人はこの現実を逆手にとって、一般人の視野から自らの犯行の痕跡を抹消する。
 「見えない男」のトリックなどはその典型である(3)。門番も警官もアパートに出入りした人物はいないと断言する。しかし犯人は堂々と玄関から出入りしていた。郵便服を着ることのみによって、人々の目から犯人の姿はまさしく忽然と消えてしまうのである。
 犯人にとって都合の悪い証拠品を抹消しようとするのが「折れた剣」である(4)。木の葉は森の中へ、死体は死体の中へ、というトリックはよく知られているが、犯人は無数の戦死体の中に自ら手を下した一つの刺殺体を隠そうとする。戦場という図式の下で、人は一つの死体を見ることができなくなるのである。その他、チェスタトンの探偵小説には一人二役トリック、入れ替わりトリックなどが頻出するが、ほとんどこれらの変奏と言えるだろう。他方、こうした錯覚を利用した心理トリックの多さに比して、物理トリックの数は非常に少ない。それは、世界や人間の多様性を忘却した人間に心理的ショックを与える意図で探偵小説が書かれているためではないだろうか。トリックの多用がマンネリ化につながり、かえって当初の目的を困難にしている可能性は否定しきれないとしても。
 
 ここまで、チェスタトンにとっての探偵小説は、偏固な世界解釈に安住する人、驚異を忘れてしまった人に対してその視野の狭さを自覚させ、もう一度新しい目を回復させるものだったことを確認してきた。それはちょうどカトリック教会の行う告解の働きと似ているように思われる。しかしここで僕は、最後の難問に逢着してしまう。確かに人々の閉塞した世界観は、思いも寄らない探偵の推理の前で崩壊するかもしれない。その瞬間、世界は驚異に満ちた多様な相貌を垣間見せるかもしれない。しかしながら、探偵小説は探偵の事件解釈が提示されることで終結する小説である。探偵の解釈が真相として絶対化されるとすれば、果たして驚異の世界が回復したと言えるのだろうか。閉塞した従前の世界解釈に代わって、新たな解釈の中に再び閉塞しているだけになりはしないか。
 思うに、ブラウン神父もゲイルもポンド氏も、神ならぬ人間であることに変わりはない。人間が多様性を超えた普遍的秩序を果たして認識できるのか。普遍性の確信が否応なく傲慢の狂気に至ることはチェスタトンの主張の柱であった。人は世界を前にして常に一つの選択を行っているが、それが他でもありえたはずの世界の一部だということを自覚している限りで、想像力によって新たな世界を再創造できるのではなかっただろうか。おとぎ話も固定化すればおとぎ話でなくなってしまう。世界が絶えざる再解釈によって変転し続けていくことが、世界が驚異に満ちているということである。
 ということは、哲学と探偵小説の厳密な対応を重視するとすれば、「童心」を忘れない探偵たちの推理も、普遍的真理ではなく絶えざる再解釈の途上にある一つの見立てと捉えることになる。探偵たちはそのつどそのつど見えてくる風景を語っているだけだと考えることになる。しかし、それで果たして探偵小説と言えるのだろうか。ここには、哲学をどこまで特権的なものとして扱うべきかという、方法論自体に内在する大きな問題が横たわっているが、この議論については別の機会に譲りたい。
 ともかく、チェスタトンの探偵小説が「閉じた」ものなのか、そうでないのかという当面の問題について言えば、チェスタトンが最晩年に著した『自叙伝』の中に、手がかりらしきものが残されている。ここで彼は、探偵小説のように自伝を書くのだと宣言している。自伝とは自分の人生の中でのいくつかの謎を解いていく物語なのだという。この生涯最後の「探偵小説」の終わりに、彼はこう書いている。

 こうしてこの物語はあらゆる推理小説と同じように、そこに提出された疑問に答えが与えられ、一番大切な問題が解決されればそれで終わりなのである。……しかし……私にとってはこの終わりは始まりなのであって、あらゆる扉を開くことができる鍵が一つあるという何ものにも勝る確信が私を、感覚するということについて私が最初に垣間見た栄光、この感覚という感動的な経験に私を連れ戻す。(第3巻、421頁)

 終わりは始まり。これが探偵小説にも当てはまる原理なのかどうか、この文章からはどちらとも解釈できる余地がある。告解を終えた信者が教会の外へと出ていくように、事件を解決した探偵もまた再び悪夢の地へ赴かなくてはいけないのだろうか。


註.
(1)ブラウン神父以外の探偵の推理についても瞥見しておこう。詩人探偵ガブリエル・ゲイルもまた想像力による感情移入という方法を採る。「ゲイルは、彼のいわゆる同情というやつで狂人を治すことができると考えていました。しかし、これは普通の意味でいう同情とはわけが違います。彼のいう同情とは、狂人の考えについて途中まで一緒に行くこと、できることなら最後までついて行くことだったのです」(詩、111頁)。そして想像力だけでは狂気の深淵に呑み込まれてしまうことに自覚的でもある。狂人と同化してしまっては理解することにならないのである。「ぼくが何よりも避けたがっているのは、発狂することだ。もしぼくが、深淵を超える綱渡りでバランスを失ったら、同じ仲間の狂人たちになんにもしてやることができなくなるじゃないか!……自分の一生の務めは、想像力に富んだ連中が大勢呑み込まれている深淵の上に張られた綱を歩き渡ることなのだ」(詩、93-94頁)。綱の上で、想像力とつり合ってバランスを保たせてくれるのは理性である。
 逆説探偵ポンド氏は泉水に喩えられている。「この人物は庭の泉水に不思議に似たところがある。ごく静かで姿もよく整い、いわば天と地と日々の陽光を平凡に映して、はなはだ明るいのがこの泉水氏の常態なのだが、しかしわたしはうちの泉水には何かしら奇妙なところがあるのを知っている。百ぺんも見るうちには一ぺんくらい、一年のうち一日か二日は、模様がへんに違っているのである。そういうときの泉水には、単調な静寂の中に舞うものの影がうごいたり、閃くものが走ったりする。そして魚だとか蛙だとか、さてはもっと奇怪な生きものまでが、姿を天にさらけ出してみせるのである。それと同じにポンド氏の中にも怪物がいるのをわたしは知っていた」(ポ、8頁)。外界の景色を平凡に映している泉水の表面は理性を、奥に潜む奇怪な生きものは想像力を暗喩していると思われる。
(2)『ブラウン神父の童心』に所収。
(3)同上。
(4)同上。


結語へ
戻る