G・K・チェスタトンにおける探偵小説の地平

 二、驚異の哲学

 チェスタトンの思想的立場がおおよその完成を見たのは、彼の思想的主著とされ、その中で初めてカトリック信仰が宣言される『正統とは何か』が書かれた1908年だと考えられる。しかしここでは、同年『正統とは何か』の直前に刊行された長編小説『木曜の男』に特に注目しておきたい。
 『木曜の男』は、チェスタトンの精神的自伝とでもいうべき内容を備えており、自らの哲学を打ち立てる直前の、それまでの精神的遍歴を総決算するものとして読むことのできる一風変わった小説である。『正統とは何か』によって補足しながら『木曜の男』を読んでいくことで、彼の驚異の哲学について検討していくことにしたい。

 チェスタトンが自らを投影していると思われる『木曜の男』の主人公は、法律と秩序に味方し、世間体を尊重する詩人、ガブリエル・サイムである。近代化を遂げた大都市ロンドンに暮らすサイム。秩序を愛するという彼は、ある日、無政府主義者グレゴリーと論争する。
 サイムに反発するグレゴリーは、秩序の退屈さを訴え、地下鉄に揺られる会社員が疲れて悲しそうな顔をしているのは行先に必ず着くことを知っているからだ、だから文明の秩序を壊さねばならない、と主張する。ここで気をつけておかねばならないのは、実はグレゴリーは科学的思考の万能さを承認しているということだ。その上で決定論のもたらす虚無を避けるために、近代社会の破壊を唱えるのである。
 これに対してサイムは次のように答える。「……乗り物に乗って遠くの駅に着くことでも、やはり、たいしたことなのじゃないだろうか。……人間は魔法を使って、ヴィクトリアというと、そのとおりにヴィクトリアに着く。詩だの、散文だのの本なんていうのは、つまらないものなので、それよりも僕は時間表を読んでいるとうれし泣きに泣きたくなる。人間の敗北を歌ったバイロンよりも、その勝利を語るブラッドショーの時刻表のほうがどんなにいいかわからない」(木、13ー14頁)。
 ここでわかることは、サイムはグレゴリーと違って科学の万能さを認めていないということである。なぜ列車は予め定められたように動くのか。科学者は列車の動くメカニズムを物理法則によって説明するかもしれない。しかしそれは根本的な説明にはならない。現に正しく動いているということを、言葉を変えて言い換えたに過ぎないからである。いかなる法則も過去の有限回の実験、観察によって証明されたものに過ぎないのであって、次の事象を保証するものではない。今までうまくいったことは、次うまくいくことの保証にならない。つまり、地下鉄がなぜ物理法則に従って動き続けるのかを科学者が説明することはできない。それなのに、毎回毎回列車がヴィクトリアに到着し続けるのはまさに驚異であり奇跡だ、とサイムはいうのだ。
 このサイムの主張が、チェスタトン哲学の要点である。『正統とは何か』では、反復することの生命力について述べられている。「……自然界の反復というものが、私には深い感動に満ちた反復と感じられることがよくあった。……野の草は、いっせいに指を振って私に何かしら合図しているように見えた。群がる星は、一心に何かを語りかけているように思われた。太陽は、何千回でも昇ってくるのをよく見ていてくれと私に求めているような感じであった」(第1巻、98頁)。他でもありえるはずの事物が、今、目の前にあるように存在しているということ。ここにチェスタトンは理解しえない神の意志を見る。子供時代に感じた感動が、信仰へとつながっていく。「その時までにも、すでに私は、漠然とではあるが、世にいわゆる事実と呼ぶものが実は奇跡なのだと感じてはいた。だがその意味は、事実があまりにも驚異に満ちているというにすぎなかった。しかし今や私は、もっと厳密な意味で事実は奇跡だと考え始めていたのである。つまり事実の背後には意志が存在する、その意味において奇跡だと考え始めたのだ」(同、101頁)。
 世界に住み慣れてしまった大人はこの奇跡に気付かない。しかし子供にとってそれは不気味なほどの驚きなのだとチェスタトンは言う。世界に驚嘆することができる子供の目を、今、取り戻さなければならない。それは世界を「おとぎ話」として見ることができる目である。「私の最初にして最後の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学――私はそれを子供部屋で学んだ。……私が最も深く信じているものはおとぎ話なのだ」(同、78頁)。
 さて、実は詩人サイムは、ロンドン警視庁新刑事部の局長から命を受けた公安警察の一員でもあった。彼は「日曜」と名乗る人物が議長を務めるヨーロッパ無政府主義中央会議に、幹部「木曜」となって潜入し、スパイ活動を開始する。自己同一性を消すことがスパイの存在条件である。「木曜」の仮面をかぶることによって「秩序に味方する詩人」という真の自分を意図的に隠すのである。
 ところが、他の無政府主義者たちとの戦いのなかで、サイムは本当の自分を見失ってしまう。無政府主義者と信じて追っていた人物が実は味方の刑事の変装であり、味方であったはずの大衆や警察がなぜか自分を攻撃してくる。こうした善と悪、敵と味方、虚実が入り乱れる状況下で、自分の本当の敵は何だったのか、自分自身はそもそも何であったのかということがわからなくなってくるのだ。

 彼自身も仮面を着けているのだろうか。人間が仮面を着けるということがあるのだろうか。一人の人間というのは、いったい何なのだろうか。……単に影と光の混沌でしかないこの魔法の森は、サイムにはこの二日間、彼が生きてきた世界の完全な象徴に思われた。それは、人間がひげや、眼鏡や、鼻を取って別な人間になる世界だった。……彼は友達と敵がどう違うのか、ほとんどわからないところまできていた。外観のほかに、本当のものが別にあるのだろうか。……すべてはこの影と光が踊っている、何がなんだかわからない森の中のようなものではないだろうか。……彼はいわゆる、印象主義というものを手に入れたので、これは宇宙に根拠があることを信じない、最終的な懐疑主義である。(木、160-161頁)

 印象派に触れていることからも、チェスタトンは若き日の自分をサイムに重ねていると言ってよい。社会は急変し、あらゆる価値は自明のものではなくなった。人はみな仮面をつけてさまよっているように見える。幼い頃は周囲の世界に驚異しつつ安住することができていたが、もはや世界も、人も、すべてがよそよそしく思われる。サイムが陥った狂気の淵は、青年チェスタトンが垣間見た悪魔の世界だった。この苦境をサイムはいかにして克服するのか。これが『木曜の男』の主題となる。
 やがて、サイムたち公安警察の面々は、怒り狂った市民や警察に追いかけられる。世界中の人間が無政府主義者になってしまったのか。世界は狂気に覆われたのか。いよいよ両者がぶつかり合うかと思われたとき、本当は無政府主義グループなど存在せず、警察のスパイ同士が互いを本物の無政府主義者だと思い込み、追跡しあっていただけだと判明する。
 では、無政府主義者の幹部(と思われていた人たち)を統括していた「日曜」とは一体誰なのか。「日曜」はサイムたちに言う。君たちを刑事に任命して無政府主義中央会議にスパイとして送り込んだのも実は私なのだ、と。無政府主義中央会議議長「日曜」と、ロンドン警視庁新刑事部局長とは同一人物なのだった。
 ここから物語は一際幻想味を増し、「日曜」の奇怪な逃避行の様子と、それを追う刑事たちの衒学的な会話が延々と続くのだが、やがて「日曜」の邸宅に着いたサイム一行は、創世記を模した仮面舞踏会に招かれる。その奇妙な祭典の行われているところに、唯一本当の無政府主義者グレゴリーが姿を見せるのだった。
 彼は刑事たちに叫ぶ。君たちは権力を持ち、安全な地位にいて少しも苦労することがない。だから僕は君たちを呪うのだ、と。そのとき、サイムは体を震わせながら立ち上がって、こう言った。

 僕にはいっさいのことがわかった。……なぜ、地上のものはすべて、他のものと戦わなければならないのか。なぜ、世界にあるどんなに小さなものも、世界全体と戦わなければならないのか。……それは法に従うどんなものにも、無政府主義者の光栄と孤独が与えられ、法のために戦うどんな人間も、爆弾を投げる人間におとらず勇気があって善 良な人間であるようになのだ。それでサタンのついた嘘がこの神を冒涜する男に向かって投げ返されることになり、われわれは涙と苦痛を通してこの男に『君がいっていることは嘘だ』と答える資格を与えられるのだ。この告発者に『僕たちも苦しんだ』といえる権利を得るためには、どんな苦痛も大きすぎるということはない。
 われわれがくじかれたことはないなどというのは嘘だ。われわれは粉々にくじかれた。 われわれがこの椅子から降りたことがないなどというのは嘘だ。われわれは地獄に降りて行った。……僕はこの男の言葉を否定する。われわれは幸福ではなかった。(木、231頁)

 世界に希望などないと言う者に対して「君がいっていることは嘘だ」と本気で抵抗しうるためには「地獄に降りて行く」ことが必要だということ。本物の無政府主義者を前にして、あるいは自分以外の全てが無政府主義者となったとしてなお、彼らに向かって、世界は驚異に満ちているのだと宣言できる境地に達するには、一度本気で世界は無意味だと思うことが必要だということ。サイムはこう言っている。しかし、それはなぜか。そして、どのようにすれば虚無を通じて驚異の信憑に至ることができるのか。
 ここで、この問題を旧約聖書「ヨブ記」の主題と重ね合わせてみることにしたい(1)。ヨブもまた神の徹底的な懐疑を経ることで真の信仰へと至りついているからである。
 ヨブは信仰篤い義人である。にもかかわらず神は全く不合理としか思えない苦難をヨブに与え続ける。それはなぜか。実はここで「不合理」と言うとき、善き行為をすれば幸福になれるという応報思想が暗黙のうちに前提されている。しかし、神からの見返りをあてにして善行を積むとき、そこに打算はあっても信仰はない。幸福を求めて神を信じるというのは、神を利用しているだけである。ヨブは財産をなくし、子供を失い、病に冒されてついに神を恨む。神を利用する気持ちがどこかにあったからである。しかし、神の行為の意図を人間が推し量ることなど不可能である。一見ひどい仕打ちに見えるけれど、実は深い意図があるのかもしれない。それなら子供が死んだこと、自らも病にかかったことを、とにかく神に感謝しよう。こうしたほとんど変態的なマゾの境地に達して初めて、本当の信仰へと至るのだ。世界への驚異についても同じである。「理屈にかなったものであるかぎり、驚嘆、驚喜すべきことではなくなる」(第4巻、24頁)。世界が予測可能な範囲での驚きしか伴っていないとすれば、それは驚異ではない。チェスタトンは更にこう書いている。

 現存する最高の宗教詩たる『ヨブ記』が信なき者にも確信を得させる所以は、十八世紀の合理主義神学者が説明したように、そこに描かれているのが慈愛と秩序に満ちた宇宙の姿であるからではなくて、かえって逆に、世界が茫漠として解読不能な非・理性の塊とイメージされているからこそなのだ。……この、物事のあるがままの姿に素直に驚嘆する心、そして物事が、われわれの知的な基準やケチな定義の群れをあまりに軽々と無視してほとばしることに素直に歓喜する心――これこそが信仰の基礎であり、そしてノンセンスの基盤にほかならぬ。(同、24-25頁)

 心の底から世界を愛していないとき、理性の許容を越えた世界の有り様は往々にして人を狂気に導く。例えば、サイムが無政府主義者から刑事へ、刑事から無政府主義者へと変転する人々を前にして深刻な懐疑主義に陥ったように。その狂った様をそのまま世界の豊かさと受けとめる発想の転換、精神の跳躍によって、混沌の狂気が多様性の驚異へと相貌を変えるのである。
 ここで、「仮面」概念の転換についても検討しておきたい。かつてサイムは、外観のほかに本当のものが別にあるのか、と煩悶した。仮面は「本当のもの」を覆い、意味や根拠を隠蔽するものと感じられていた。仮面という形式を破壊し、その奥にあるものを求めさまよう過程で、サイムは深刻な懐疑主義に直面したのだった。しかしながら、理解しえぬものに驚異する境地に達したとき、仮面は隠すものから開示するものへと意味合いを変える。外面−内面、仮面−素顔という両者が一般に対立したものと見なされるのは、現代人が他人からの疎外の上に立っているからである。純粋無垢な子供の目で世界を眺めたとき、不意に変貌するその外見、仮面こそが本当の姿である。人間の振る舞いでいえば、状況によって様々な顔を見せることを、本当の自分を隠す打算的行為と捉えるのではなく、むしろ人格の多様性だと考えるということである。千変万化する仮面の総体が本当の自分なのであり、ただ、人は一度にそのすべてであることができないだけなのだ(2)。世界を愛することとはそのつどの仮面を愛すること。「事実の世界に一歩足を踏みこむことは限定の世界に一歩足を踏みこむことにほかならぬ」(第1巻、62頁)。この限定を通じてこそ本当の自己は形あるものとしてこの世に存在できるのだ。そして、サイムが狂気を克服し世界への驚異に目覚めたのは、まさに「日曜」が主催した仮面舞踏会においてなのだった。サイムは「日曜」から与えられた衣装を身にまとう。その瞬間、

 ……その縹色と金色の服が彼をつつむと、彼は妙に自由で、自然な心持になり、そして剣も付けることになっていることがわかると、彼には少年時代の夢が戻ってきた。彼は部屋から出て行く時、服の袖を勢いよく肩に投げかけて、剣はからだとある角度を作り、彼はプロヴァンスの吟遊詩人の格好になった。というのは、この仮装は仮装(disguise)するものではなくて、啓示(reveal)するものだったからである。(木、222頁)

 最後に「日曜」について検討しておこう。この小説において、サイムは終始この大男に翻弄され続ける。サイムを刑事に任命し、無政府主義中央会議にスパイとして送り込んだのも彼ならば、中央会議を統率する恐怖の黒幕だったのも彼である。サイムは彼の掌の上で踊らされた結果、狂気の淵にまで追いつめられたのだった。しかしまた、最後にサイムを救ったのも彼である。
 人智を絶する謎として描かれる「日曜」が神的なものの暗喩であろうことは、『木曜の男』をチェスタトン版「ヨブ記」として読んできた僕たちには薄々予想できるところである(3)。そして、サイムを再生させた仮面舞踏会は、宗教的には、カトリック教会が行う告解の儀式に対応する。チェスタトンはこう書いている。

 カトリックの信者が告解を済ませて出て来る時は、彼は本当に生まれ変わった人生の第一歩を踏み出したのであって、新しい目で世界を見渡し、その果ての本当に水晶でできた水晶宮を仰ぐのだ。彼はあの薄暗い小部屋でのあの簡単な儀式で、神が本当に再び御自身の姿に似せて自分を創り直して下さったのだと信じる。彼は今は創造者の新たな実験なのでそれは彼が五歳だった時と同じであり、前に言ったように人間の価値ある始まりに射している白い光の中に立つ。こうして年月の堆積はすでに彼を脅かすことができず、彼は白髪で痛風に悩まされていても生まれてから五分間しかたっていないのである。(第3巻、404頁)

 人間は、世界の不可解さに素直に驚くことができていても、やがて狭い驚異の中に安住してしまうかもしれない。狭い視野が不可解さに接したとき、それは容易に虚無へと反転してしまう。そのとき、神の恩寵によって狭窄していた視野が破壊され、新たにもう一度子供の目が獲得されるのである。神がもたらすこの一撃は、不意に、どこからともなく訪れる。人間にできることは、ただひたすら祈ることのみなのだ。

 本節において僕たちは、主に『木曜の男』を検討の俎上に乗せながら、チェスタトンの哲学、神学を駆け足で概観してきた。最後に、まとめとしてチェスタトン哲学の概念的整理をしておくことにしよう。
 まず、現実世界の中に驚異を見るというとき、そこに見出される秩序はいかなるものであろうか。無論、それは多様性を圧殺した静態的な機械論的秩序ではないし、一切の形式を喪失した無秩序な混沌でもない。それは、一定の形態を保ちつつ、その被造物性ゆえに一度に神の意志を表し尽くすことができず、絶えざる生成、発展の下に置かれているように見える神的秩序である。
 では、その秩序を見出す認識能力はいかなるものか。チェスタトンが用いる理性(reason)と想像力(imagination)という二つの概念によってまとめておきたい。極めて単純化していえば、理性とは感覚できる現世の事物を対象化し合理的に分析、把握する能力であり、想像力とは形なきもの、感覚できないものを現世の背後に見出す精神的能力であると言えよう。彼は言う。「世人が往々にして抱く大きな誤りを正しておく必要がある。〔その誤りとは〕想像力――殊に神秘的想像力は、人間の精神の平静に有害だという観念である。……想像力は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである」(第1巻、19頁)。「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」(同、23頁)。しかし一方で、理性なき「想像力の過剰」は「精神的な自殺行為」(第3巻、106頁)である。結局、いずれか一つの認識能力の偏重は傲慢と絶望に至る。「私の知っている他のあらゆる思想体系や流派では、一つ一つが……一つの真理に従うことで満足しており、普遍的な思想であることが強調されればされるほどそれは単に何か一つの真理を取り上げてそれをあらゆることに当てはめるということを意味しているのである。……私の見出した信仰というのは一つの真理で満足するのではなくて綜合的な『真理』によってのみ満足するものであって、『真理』とはつまり他の人生教師たちが各々唯一の拠り所とする、無数のそうした部分的な真理から成っていて、なおかつ一つの真理であるというそういうものなのである」(同、415-416頁)。絶えず世界に驚異し続けるためには、理性と想像力の間に均衡を保持することが肝要である。「平常平凡な人間がいつでも正気であったのは……薄明の存在の余地を認めたからである。一方の足を大地に置き、一方の足をおとぎの国に置いてきたからである。……人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめてものが立体的に見える」(第1巻、39頁)。
 チェスタトンによれば、こうした認識論的立場こそ正統信仰が採り続けてきたものだった。ともすれば両極へと分解しようとする理性と想像力の狭間にいて、正統信仰はよろめきつつも毅然として倒れることがなかったのだという。「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。……だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは狂気であることよりもはるかにドラマティックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ」(第1巻、180頁)。
 念のため繰り返しておくと、理性と想像力が均衡しつつ働くとき、世界は決して固定的なものとして、永遠不変の真理として見出されるのではなく、多様な生成の相貌の下に眺められる。より正確に言えばこれは、世界はひとつの意味連関のうちに眺められているけれども、それが常に多様性に開かれているということである。人間もまた神の被造物として同じ被造物たる世界の中にある限りは、世界の外から世界を対象化して一度に客観的に把握しつくすことはできない。むしろ、常に変転するもの、他でもありうるものとして捉えることこそが「真理」なのである。


註.
(1)この場面の直前に「ある日、神の子たちが神の前に現れ、サタンもその中にいた」という「ヨブ記」の一節(1章-6、2章-1)が引用されていることからも(木、229頁)、チェスタトンが「ヨブ記」を意識していたことは間違いない。
(2)チェスタトンは『聖トマス・アクィナス』(1933年)の中で、この点を神学的に説明している。「……数々の事実を観察するようになると、多くの近代人が異様に不安にかられてそれらに関して懐疑的になってゆく原因ともいうべきひとつの妙な性格を、それらが備えていることを見てとるのである。たとえばそれらは、ひとつのものであることから変化して、他のものであることへと転ずる状態にある。もしくはそれらの持つ特質は他のものと相関的である。もしくはそれらは絶え間なく動いているように見える。もしくはまったく消滅するように見える。この点で……多くの賢者たちは、いったん容認した実在の第一原理を失ってしまい、退いて言うであろう。変化以外には何もない、比較以外には何もない、流動以外には何もない、結局は何もかも存在しないのだ、と。だが……時として、生成に見えようとも、存在が存在であることは疑いを入れぬところである。なぜなら、われわれが見るのは、存在の完全さではない。……われわれは存在が、それがなりうる限りの最大限の状態になっている姿を見ることは決してないのである。氷は溶けて冷水となり、冷水は熱せられて湯となる。だが、一時に三者ではあり得ない。だからといって、水は本物ではないとか、相対的なものだということではなく、水の存在は一時に一者であるということに限られているというだけのことである」(第6巻、344-345頁)。「ものは完全でないがゆえに変化するが、その実在性は完全なるあるものの一部としてのみ説明できる。それは神なのである」(同、346頁)。
(3)もっとも、「日曜」のように戯画化した形で神を描くことは一種涜神的な行為と言えるだろう。チェスタトン自身、「日曜」について「宗教的、あるいは非宗教的な意味での神であるよりも汎神論者の眼に映った自然、悲観主義から抜け出そうとしている汎神論にとっての自然である」(第3巻、117-118頁)と、若干言い訳気味に述懐している。「日曜」として人格神化されているように見えても、それはあくまでも汎神論的自然の象徴だということだろうか。とすると、この小説を書いたときのチェスタトンは汎神論からカトリック信仰へと移行する過渡期にあったと考えるべきかもしれない。すぐ後に書かれた『正統とは何か』では、明確に汎神論が批判の対象となっているからである。「作り出すということはすべて分かれるということだ。……キリスト教の根本の哲学的な原理とはまさにこれである。つまり、神の創造の御業において、神と世界とが分かれるということ――詩人が詩を生みだす時、詩人と詩が分かれ、母親が子を産む時、母とみどり子とが分かれるのと同じことであるが――このことによって、絶対的なエネルギーが世界を創ったその行為を本当に説明できるという確信である」(第1巻、135-136頁)。個物自体が神なのではなく神の意志が個物に孕まれているのということなのである。


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