G・K・チェスタトンにおける探偵小説の地平

 一、ヴィクトリア朝的妥協と狂気

 チェスタトンは、1874年5月29日、ロンドン郊外ケンジントンのキャムデンヒルに生まれ、ヴィクトリア(1837-1901)末期に少年時代を送っている。十九世紀のイギリスは、第二次産業革命のなかで急激な工業化が進み、社会構造や思想状況の劇的な変化を経験していた。例えば、科学技術の発展を背景に合理主義的思考が浸透し、圧倒的な経済的繁栄がもたらされるとともに都市の近代化が進展した。他方、繁栄の背後では、ひそかに虚無の雰囲気が広がりつつあった。打算と駆引きが支配する功利的秩序の中で、画一化した大衆がひしめき合っていた。救いとなるはずの宗教も、聖書の歴史的批評やダーウィンの進化論などによって大きなダメージを受け、無神論や不可知論に道を譲りつつあった。
 チェスタトンは『ヴィクトリア朝の英文学』(1913年)という著作の中で、ヴィクトリア朝の作家・思想家の課題は、対立する二つの力、合理主義とキリスト教信仰とを調停することであったと述べている。コールリッジ、ニューマン、ハクスリー、アーノルドなどは皆、信仰と理性との均衡を目指していた。チェスタトンは彼らの達成を高く評価しつつも、結果としてそれらはすべて両者の妥協、当たり障りのないこじんまりとした調和に終わったのだという。「この時代の精神は、寛大ではあったが偏狭だった。宇宙全体を包括しなければ満足しない代わりに、満足した宇宙そのものはいかにも矮小だったのだ」(第8巻、95頁)。曖昧で宙ぶらりんの状態に置かれた結果、信仰も合理主義も共に衰退していくことになったのだという。

 宗教的理想主義と政治的理想主義とが、共にたまたま時を同じくして廃れたというこの事実が、一種奇妙に冷え冷えとした虚ろな空気と、真から意識の根底に食い込んだ不可知論的雰囲気を生みだすことになった。……この虚脱感とは所謂「世紀末」なるものに他ならない。……精神的な意味で秋がきたのである。……二つの理想が共に幻滅に色褪せてしまった後に現れたこの時代とは、まるで雨の日の金持ちのお邸の永い、永い午後のようなものだった。ただ単に、誰も何一つ起こらないと信じ切っていたばかりではない。誰もが、たとえこれから何かが起こったとしたところで、何も起こらないよりもさらに退屈にちがいないと信じていたのだ。(同、206-208頁)

 チェスタトンによれば、世紀末的頽廃を特徴付けるのはワイルドやビアズリーらによる唯美主義であった。彼らによってヴィクトリア朝的妥協の崩壊は決定的なものとなり、虚無が社会を覆い始めたのだった。そして実は、若き日のチェスタトンも時代の狂気から自由ではいられなかった。画家を目指してスレイド・スクールという美術学校に通っていたチェスタトンは、その青年時代を耽美主義や印象派の嵐の中で過ごしたことで、精神的危機を経験したのである。彼は最晩年に書いた『自叙伝』(1936年)で、当時の精神状態について次のように振り返っている。

 印象派の画家はむしろ紫の牛しか見たことがない、あるいは牛など見たことはなくて紫の色を見ただけだと言っているのだった。……こういう態度は万物はわれわれがそれを知覚する形でだけしか存在しない、あるいは何物も実際には存在しないという形而上学的な見方に傾くことになり、印象派の哲学は必然的に錯覚の哲学と密接な関係を生じる。そしてこういう哲学の影響は当時私をとらえていた現実感の稀薄、八方塞がりの孤独感といったものを間接的にではあるが助長しないではいなくて、これは多くの他のものにとってもそうだったと思う。……私には夢を見ているのと目覚めているのとの区別がはっきりしなくて、それは単にそういう気分としてでなくて一つの形而上学的な疑問としてもすべては夢ではないかという気がすることがあった。それは木も星も、宇宙のすべてを私が自分のうちから作り出したような感じで、これは自分が神であると思うのに近くて従ってそれよりも発狂することに更に近い。……ここで私が言いたいのは私が悪魔を発見する所まで道を掘り下げて落ちていったということで、それははっきりした形でなくても悪魔というものを認めさえしたということである。(第3巻、104-107頁)

 虚無に陥ったチェスタトンがそれに埋没せず克服することができたのは、心の中に残っていた少年時代の思い出のためだったという。「子供の時代が素晴らしいのは、この時代には何でもが素晴らしいものに見えるからである。それが驚くべきもので溢れている世界だというだけではなくてそれ自体が驚異の世界なのだった」(同、38頁)。「幼年時代には自分が今よりもはっきりと目覚めていて、今よりも明るい光の中で生きていたような気がするのであり、あの頃の明るさと今とを比べると、真昼間と黄昏時ほどにも違っているのである」(同、56頁)。「子供の頃にはあの時代を照らしていた朝の光がいつか失われるかも知れないということを知ってさえいなかった」(同、59頁)。甦った世界への驚異は、狂気にすら驚くことができるほど強靱なものだった。彼は再び「朝の光」を取り戻すことに成功した。子供時代の光の下では、悪夢は楽しい悪夢へと変貌する。

 凡そ生きているというのはそれを最も基本的な面にかぎってみてもそれだけで興奮するに足るたいへんなことで、どんなものでも存在するものは無に比べれば素晴らしいものなのである。たとえ日光そのものが夢であったとしてもそれは白昼夢であって悪夢ではない。……たとえそれが悪夢であっても楽しい悪夢である。(同、107頁)

 青年期の苦悩から脱したチェスタトンは、時代が見失っている光を甦らせるためにジャーナリストとして健筆を揮い始めた。1895年頃のことである。やがて彼は驚異の哲学とでもいうべき思想的立場を創りあげていくことになるのだが、狂気の克服から哲学構築に至る経緯については後で検討することにして、ここでは、時代の狂気との戦いという目的が小説を含むチェスタトンのあらゆる仕事を一貫して貫く公分母であったことを強調しておくことにしたい。終生自らを「ジャーナリスト」と称したチェスタトンは、思想的ないし神学的著作をものする際にも体系的叙述を嫌い、小さなエピソードを積み重ねつつ警句や逆説を散りばめるというスタイルを採った。おそらくそれは、抽象的理論が事実の多様性を削ぎ落としてしまうこと、首尾一貫した理論構築はまとまりはよいが中途半端な妥協に終わりがちであることを、先人たちから学んだ結果であろう。チェスタトンは、ヴィクトリア朝の錚々たる文人の中でも、小説家ディケンズを最大級に評価している。「ディケンズが得意とし、特に独自の異彩を放ったのは、まったく非現実的としか思えない人物の周囲に有り余るほどの事実の山を積み上げることによって、否応なく読者にその人物の実在感を納得させてしまうという手際であった」(第8巻、114頁)。「ディケンズの攻撃をもっともめざましい成功に導いたものは何であったか。それはつまり、彼の攻撃がニューマンのような異常非凡な宗教の立場からする攻撃ではなかったためであり、カーライルの如き異常非凡な直観の立場からする攻撃でもなければ、アーノルド流の異常非凡の客観的かつ冷静なる見地からする攻撃でもなかったからに他ならない。ディケンズの攻撃は、完璧に尋常平凡な、完璧に腹の底から発するところの、生の憎悪に発した攻撃だったからである」(同、77頁)。
 こうした小説観からすると、チェスタトンの多くの小説は決して評論家の手慰みとして書かれたのではなく、まさに戦いの主要な武器だったと考えるべきだと思う。そしてとりわけ彼が探偵小説を好んで書いたという事実に鑑みれば、探偵小説という様式自体が彼の哲学と強い親和性を持っていたと推測することができるのではないだろうか。
 チェスタトンはこう述べている。「我々の脳裡のどこかには自分の存在に対する今は忘れられた驚異の炎、あるいは炸裂があるはずだった。それで芸術的な、あるいは精神的な生活の目的はこのどこかに埋められた驚きの日の出を掘り出し、人が椅子に腰掛けていて自分が実際に生きていることを突然に悟って幸福であるのを感じることができるようにすることにあった」(第3巻、108-109頁)。


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