4.そして雨が降る



 神谷さんのその表情には憶えがあった。
 久保嘉晴を想う時の笑みだ。
 オレが帰国するすぐ前に、試合中に亡くなったという天才・久保嘉晴。
 親友だったというその人のことを語るとき、神谷さんは今みたいな表情を浮かべる。
――ちょうどピエタ……荊死したイエスの亡骸を慈しむように抱き締める、哀しみのマリアの微笑み。
 なぜ……その表情を?

「わり、馬堀。タクシー呼んでくれか?」
 一瞬でその表情を引っ込めた神谷さんが、申し訳なさそうに頼んできた。
 なんだかそれで、ほっとする。
「上で休んでいきませんか? 着替え、貸しますし」
 タオルを手渡すと神谷さんは、自分を拭く前にルディをゲシゲシと拭いた。
 自然に行われた行為に、心が痛む。
「そういえば……こいつって、いつドイツに帰るんです?」
 こいつが居るせいで……神谷さんは!!
 だけどオレの質問は、再び神谷さんにあの表情を浮かべさせた。
「明日の朝だとよ。だからそれまでに勝負をつけなきゃなんねえんだ。おれが勝ったし」
 胸を張る姿を、表情が裏切っている。
「朝?! 成田でしょう?」
 思わず暢気に眠っているドイツ人を蹴りたくなる。
 オレに指摘されて漸く思い出したらしく、神谷さんが慌て出す。
「多分……ハンスにでも訊くわ。とりあえず払うもんは払わねーとな……」
 ドイツ人の懐を探り出す。
「ウァッ………」
 途端にドイツ人が飛び起きた。へへん! ザマーミロ!!
 少し浮いたオレの気分も、
「代ならいらねえよ。圭吾のバイト料から天引きだ」
 叔父さんの一言で地獄に堕ちる。
「おじさ〜ん!」
 涙で訴えているうちに、ドイツ人が我に返った。
「ナ? ナンダ? そういえば勝負、勝負は?!」
「お、おきやがった。オイ、金払え」
「そうだ! 払え」
 神谷さんとオレにたたみ掛けられるように責められて、ドイツ人の目が見開かれる。
「圭吾!」
 ああ、また叔父さんに怒られちゃった!
「いや、おやっさん払います」
 ドイツ人を指差す神谷さん……漢です!
 それに比べてドイツ人の方は……何でオレを睨んでるんだよっ!!
「ア……?!」
 睨み返してやると更に睨まれて、だけどドイツ人は叔父さんの方に顔を向けるときにはコロリと神妙な表情に換えやがった。
「……店主。イイ。今日はワタシが奢ると行ったノダ。いくらダ?」
「じゃあ1000円だ! そんだけでいい」
 叔父さ〜ん、それって最初のビールと卵代より安いんじ…ゃ…ざっと計算したって8000円を下らないんじゃ……? ――え、じゃあオレ、バイト料どころか持ち出しか!?
 神谷さんが手招きしている。
「なんすか?」
 近付いて訊ねると、
「お前がバイトしてることも言わねえから、おれがこいつと来た事は誰にもいうな」
 神谷さんは、ドイツ人にも聞こえないように耳元で囁いた。
「なんで?」
「いいから! わかったな?」
 いててっ! 耳ひっぱらなくったて解りましたってば!
「いいですよ……言う必要もありませんし」
 頼まれなくったって、誰にも言わない。
 あなたとこいつが付き合ってるなんて……絶対に言わない。信じたくない!
 そんな間にも、酔っぱらいドイツ人は叔父さんに10000円札を差し出して、見事なボケをカマしてくれていた。――叔父さん、絶句。
「……わりいな。しかしいいおやっさんだな」
 大好きな叔父さんを誉めてもらって、オレの気分は少し浮上した。
 レジへと移動し、脇に置いてある電話でタクシー会社に電話をして送迎を頼む。メモ帳に車体番号を記入して、それが10番――奇しくも久保嘉晴の背番号と同じだった事に運命を感じる。
「――クリーニング代でチャラにしてくれませんか?」
「びしょ濡れにさせちゃったし……」
 叔父さんの声につられて反射的に、神谷さんに気遣いさせないための言葉が口をついて出た。
 オレの言葉に、神谷さんが微笑む。
「ありがとうございました」
 おじさんに礼を言って、ドイツ人から奪った1000円を、オレに差し出した。
「ありがとうございました」
 それをすっかり身に付いた威勢のいい声で受け取る。
 するとドイツ人から人懐こい笑みが帰ってきた。
「美味しカッタ。また日本に来たら是非寄りタイ」
 言葉に、初めてルディが好ましく見えた。
……ああ……やっぱりこの二人は、口惜しいけど似ている。

 店の前に、車が止まった気配がする。戸を開けると、いつも店で呼ぶときに使うタクシーの、オレンジと白のツートンカラーが目に入った。
「ごちそうさんでした」
「頑張レヨ。バイト」
 二人並んで、タクシーに向かう。
 神谷さんは出際にオレを振り向くと、
「馬堀、明日も朝練すっぞ」
 言外に恥じらう礼を込めて、俺を練習に誘った。
 解りました。本当は明日は日曜日だし、朝練さぼって渋谷で遊ぶつもりでしたが…
「待ってます! 朝一番で!!」
 あなたがそう言うのなら、何があっても帰ります。
 そして……一緒にボールを追いましょう。
 視線の片隅で酔っぱらったドイツ人が悲しそうな視線を神谷さんに送ったのを、オレはわざと意識の外に置いた。
「ありがたっした!」
 ツケ場から、叔父さんが威勢良く二人を送り出す。
 オレは何も言えず、ただ黙って頭を下げた。



                  オプション・タクシー運転手(小野伸治)編も見る?→



 嵐のような一時が過ぎ、店内はいつもの雰囲気を取り戻していた。
 叔父さんが、オレを見ている。
 そうだよな。今のオレの態度は、確かに客に対応する態度じゃなかった……。
「ごめんなさい、健吾叔父さん……」
 素直に謝る。……いや、謝るしかできない。
 しばらく黙っていた叔父さんは、握り終えた海老と鯛をオレに差し出した。
「高山さんの分だ。ほら、さっさと運べ」
 ぶっきらぼうに、でも優しく指示をくれる。
 ありがとう、叔父さん。……何だか泣きたくなってくる。
 寿司を受け取ると、常連の高山さんのテーブルに運ぶ。
「おまっとさんでした!」
 営業スマイルを向けると、高山さんは『仕方がないな』という風に笑った。
「ついでにビール、貰える?」
 空になったジョッキを示す。
「! すんませんでした。中ジョッキでいいですか?」
「いつもの生な」
 笑ってくれる。
 なんだろう、癒やされる。
 何となく叔父さんの方を見ると、やはり笑顔がそこにあった。
「叔父さん……」
「圭吾、高山さんにビールお出ししたら、今日はもう上がっていいぞ。明日、帰るんだろ?」
 明日帰る。掛川に……神谷さんが率いるあの場所に。
 明日
 明日……
 ……!! もし……もしあの人が帰ってこなかったら?!
 冷たい汗が、背を伝う。
 だけど表面上は何気ない振りをして、オレは叔父さんの申し出をありがたく受け入れた。
 ビールをサーバーから注ぎ、高山さんに渡す。
「じゃ、オレこれで上がります!」
 告げて、はちまきを取る。
「おお、ごくろうさん」
「圭ちゃん、また来いよ!」
 叔父さんと客に見送られて、笑顔で店の奥―二階への階段を上る。





 二階に上がると、窓の外に雨が降り出した事に気が付いた。
 眠っている叔母さんと香奈ちゃんを起こさないように気をつけて足音を忍ばせて廊下を歩き、いつも泊るときに使う部屋に入る。

 闇と、微かな雨音が出迎えてくれた。

 電気をつけて、荷物の中から携帯電話を探り出す。
 手にとって、しばし考え込んだ。
 どうしよう。――確かめるべきか?
 でも……もし神谷さんにバレたら神谷さんにどう思われる?
 だけど……このままじゃ眠れない!!

 ポケットに入れていたメモを取り出す。そこには先程呼んだタクシー会社の電話番号と、タクシーの車体番号が書いてある。
 深呼吸を一つして、オレはダイヤルを押した。








                          続く 2001.6.17.





                       エピローグ1・店主と常連編も読む?→





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