下北沢・●●ホテル タクシー会社が教えてくれた、神谷さんとあいつが入っていったホテルの名だ。
『客の外人が店にパスポートを忘れていったから、知らせたいので行き先を知りたい』――とっさについた嘘を信じて、タクシー会社はすぐに調べて答えてくれた。
下北沢――こからそう遠くない。井の頭線で3駅先で、電車に乗ってしまえばものの5分だ。
なのに……それが遠い。
今からなら終電に間に合うかも知れない。
でも追いかけたとして―― 自問する。 追いかけて、ホテルの部屋に踏み込もうとでも言うのか? 神谷さんとあいつがどんな刻を過ごしているのか、解らないのか? 先程店で見た二人の姿に、何も感じなかったと言うのか?
哀しいことに、オレはそれほど馬鹿じゃない。
電灯の明るさが嫌になって、スイッチを切る。 闇の中、畳んだままの布団を背もたれ代わりにして座り込んだ。 どうせもう、眠れやしない。 瞳を閉じると、四畳半の部屋は不安なほどに広く感じられた。 耳を澄ます。少しずつ強まっている雨音のせいで、階下の店の音さえ聞こえて来やしない。 上体を倒して、布団に頭を乗せてみる。 柔らかく冷たい感触に、泣きたくなった。 でも泣かない。 絶対に泣かない。 泣くもんか、ちくしょう!
店に入ってきた神谷さんとあいつは、まるで一緒にいるのが当然のように寄り添っていた。 シンクロするような動作。 それでいて互いの内側を覗き込もうとするかのような視線。 馬鹿騒ぎの影に潜む緊張。
知っている限り、あの二人が一緒にいた時間は少ない筈だ。 掛川でも全日本ドイツ遠征でも、出会っていた延べ時間はそんなに無い。 その短い時間の中で、どうしてそんなに寄り添えたんだ?
二人を繋ぐもの……
オレになくて、二人にあるものは……
!…… ああ、そうか。またあの人か。 目を瞑ったまま溜息を吐く。
久保嘉晴だ。
オレになくて神谷さん達にあるのは、久保嘉晴と過ごした日々だ。 また、あの人なのか。 今は亡き天才。伝説の人。 神谷さんの親友は、ドイツではルディのチームメイトだった。 そして、いつもオレの前に立ち塞がる人。
日本に帰り、掛川のサッカー部に入った時に感じたのは、見えない存在の大きさだった。 皆が喪失感に捕らわれ、時間を止めていた。 心ここにあらずという風情で機械的な練習を繰り返しているのが気にくわなくて、わざと挑発したオレに返ってきた反応はチームを二分する勢いになってしまった。 そんな中、一番最初にオレを認めてくれたのが神谷さんだった。 赤堀先輩や平松が積極的にバックアップしてくれたのとは違い、黙って背中を押してくれる優しさで支えてくれた。その寂しげな瞳の光に捕らわれて
……気付いた時には恋をしていた。
神谷さんの仕掛けた紅白戦で、全てが丸く収まった後。 オレの外見が、どことなく久保嘉晴に似ていると知らされた。 最初は味方になってくれた理由を邪推した。 だけど神谷さんがオレ達を同一視していないのは、すぐに解った。
神谷さんには今も久保嘉晴が見えているから―― 似ている、なんてレベルのオレと重ね合わせる必要なんか無い。
どんなに神谷さんを想っても、いつも久保嘉晴が前に立ち塞がる。 それでも追い続けていれば、望みはあった。 好きになった時から神谷さんが久保嘉晴を抱えていたのだから、それごと抱き締める覚悟があるし、自信もある。
強いあの人が内面に抱えている寂しさを、癒やす存在になりたいのに……。
オレじゃダメなんですか? オレの中には久保嘉晴が居ないから。
あいつがいいんですか? あいつの中には久保嘉晴が居るから。
あなたは、あの人じゃないとダメなんですか?
雨音が激しさを増す。 大雨だ。きっと一歩でも外に出ればびしょ濡れになるだろう。 新幹線、動くだろうか? 『馬堀、明日も練習すっぞ』 照れ笑いと共に発された神谷さんの言葉が蘇る。 明日、もう今日か。 掛川に帰らなくちゃ。 神谷さんが約束してくれたから、どんなことがあっても掛川に戻る。
掛川は、神谷さんと久保嘉晴が作った場所だ。 あの場所にはいつも彼が立っている。 目に見えない結界の地。 オレ達の居場所。 あんなドイツ人には渡さない。
あんな……あんなヤツになんか! 掛川に帰れば、いつもの神谷さんに戻るはずだ。
久保嘉晴の作った結界の中でだったら……。
雨が降る。 降り続けてる。 うるさい! くそっ、うるさいぞ。 降るなよ、雨。 涙が抑えられないじゃないか。
オレは……オレは あなたが好きなんです。
続く 2001.6.25.
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