6.白い朝


 暗い部屋に、時計の秒針の音が響き始めた。
 外の雨が、おさまって来たんだろう。
 世界が、ゆっくりと現実に戻されて行く。

 今、何時だろう。
 そういえば、店の方は?

 のろのろと立ち上がり、蛍光灯のスイッチを入れる。
 そしてやっと、着替えもしていなかったことに気が付いた。
 馬鹿みたいだ。こんなカッコで……
 可笑しくて悲しくて、もう笑うしかない。
 声を出さないように笑いながら、改めて着替えをし、時計を見る。
――もう3時。
 どうする?
 電車の始発は、たしか5時くらい。こだまは6時17分だから、5時半に出れば十分に間に合うんだけど……。

 今は神谷さん……あなたに早く会いたい。
 あなたの姿を見て、声を聞いて、一瞬でも良いから触れてみたい。
 あなたの存在を感じたい。






 荷物をまとめ、足音を忍ばせて階段を下りる。
 店を覗くと、何故か電灯がついていた。
 片づけを終えて、誰も居ない光景の中で――
 カウンターの上に置いてある包みとメモに気が付いた。
 近寄ってみると、メモは鍵の重しをされていた。
『圭吾へ』
 最初の文字が目に飛び込んで、慌ててメモを取り上げた。

『圭吾へ
 もしオレが寝ている内に帰るんだったら電車でこれを食べろ。
 ついでに昨日の分のバイト料も入れといた。
 キャプテンさん達の分はきちんと引かせてもらったからな。
 鍵は、かけたら郵便受けに入れておけ。
                            健吾叔父より』


 包みの中には弁当の折り詰めが2人前と、茶封筒が入っていた。
 茶封筒の中身はきっちり1000円。
 1000円―あいつから受け取ったのと同じ額。
 叔父さんの優しさが嬉しくて、苦しい。







 まだ真っ暗の内に出発して、静かな街の中を歩く。
 雨は小雨に変わっていた。ビニール傘に付く水滴が、なかなか流れなくなっている。

 渋谷駅で調べたら、下北沢方面の始発はやっぱり5時だった。
 だけど下北沢駅の始発は4時55分で……
 入れ違って会えなくなるのが怖くて、歩いていくことにした。東京に来るときに必ず持ってくるポケットサイズの地図帳で調べたら、大丈夫、歩いて行けない距離じゃない。





 見知らぬ街。
 日曜早朝の都会には、人の気配はない。
 歩いている内に雨は止み、ビニール傘を閉じるのを合図としていたかのように西の空が白み始めた。
 一歩進むたびに、辺りは光に照らされていく。
 雨に洗われて綺麗になった街は、なんだか妙に作り物めいて見える。
 時々通り過ぎる車が無かったら、現実じゃないと思っただろう。





 ホテルに着く頃には、夜はほとんど明けていた。雀の囀りが五月蠅いぐらいだ。
 ここにあの人と、あいつが居る。
 どの部屋かは解らないけど……。
 こんなに近くに居るのに、なんて遠いんだろう。


 この中には入れない。あいつのテリトリーになんて入るもんか。


 本当はそんな理由か?
――神谷さんがあいつと一緒に居るところを、これ以上見たくないだけだろ?
 馬鹿だな、救いようがないくらい。
 わかってる。嫉妬だ。醜くて汚い、弱気な自我。


 ゆるゆると、心が死んでいく。
 下北沢では息が出来ない。
 ここにいると死んでしまう。
 一人で、雨上がりの街の中で、足元から朽ちていく。


 立っているのが辛くなって、ホテル入口前のガードレールに腰を下ろす。ここなら出てくる神谷さんを見つけ損なう事は無いだろう。


 ホテルの大きなガラスに、オレの姿が映っている。
 髪の毛が乱れていた。
 そうだ……髪の分け目を変えると、久保嘉晴に似てるって言われたことあったっけ……。
 手櫛で髪型を変えてみる。
 普段とは違う雰囲気。
 自分じゃないような表情。

 あなたが久保嘉晴なのか?
 ガラスに向かって心で訊ねる。
 見知らぬ男は、悲しそうに笑った。
 そして哀れむ視線を送ってくる。
 見るな! そんな目で。
 あんたにはそんな権利はないでしょう?!
 あの人の何もかもを奪って、さっさと逝ってしまったあなたには!!
 何でそんな顔が出来る……?

 今でも神谷さんは――あなたに捕らわれている。
 神谷さんも……ルディも。
 そしてオレもあなたに縛られている。
 狡い人ですね。




 人通りが出てきた。電車が動き出したんだろう。
 髪を、もう一度手櫛でいつもの形に戻す。
 もうそこには久保嘉晴は居なかった。


 外から見るホテルは、朝の準備が佳境に入ったのだろう、先程から従業員が動き回るのが見える。レストランは特に慌ただしく、バイキング用の食器が積み上げられているのがガラス越しにわかった。

 そろそろ、出発したほうが良い時間だ。
 だけど、まだ神谷さんは現れない。
 もしかしたら、神谷さんはここには泊まらなかったのか?
 馬鹿な願い。
 そんなわけないのに……
 あの人があいつと過ごしているって解ってるのに……
 きっと抱き合ってるって、確信があるのに。



 土壇場になって、逃げ出したくなる。
 だけどオレの足はもう朽ちかけていて……
 目がホテルの出入り口から離せない。
 あの人と会うのが怖いのに
 あの人と会いたい。




 オレの気持ちを感じたかのように、ホテルの奥から自動ドアに向かって歩く人影が現れた。
 いつも見つめていたのと同じシルエット。
 ゆっくりと近づいてくる。
 そしてドアが開き――



「バウ!!」
 何故か犬のほえ声。
 その後に――
「……あ……」
 聞きたかった、でもここでは聞きたくなかった神谷さんの声が耳に悲しく届いた。









                          続く 2001.7.2.





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