驚きの色を隠さずにオレを見つめる瞳が、やがて困惑で曇った。
「神谷さん……」
「……馬堀……?」 会いたかった人の声が、遠い。 やっぱりあなたは、ここにいたんですね。
「あなたは……」
あなたはあいつと…… 「なにをしたんです?」
そんなの訊かなくても解っている。 だけどウソでも否定して欲しくて、言葉が零れた。
神谷さんは答えない。 ただ困惑したようにオレから視線を外すと、出てきたばかりのホテルの最上階をチラリと見てから、足元の犬に視線を転じて優しく撫でた。 間違いなく血統書付のジャーマンシェパードは、おとなしく撫でられている。艶やかな黒い毛並みに触れる神谷さんの指先が、やけに白い。
犬を見下ろすために伸された首筋に、隠しようのないキスマークが現れた。 所有の証を見せつけるように、緋色の刻印が散っている。
無意識のうちに手が伸びた。
触れた首筋はうっすらと汗ばんでいて……熱を持っているのかと思っていたキスマークは、意外にも冷たかった。
神谷さんは手を振り払わない。 触れるままにまかせ、黙って視線を上げてきた。 何も言わない。 いいですよ、解りましたから。 あなたにとって、必要な事だったんでしょう? 言葉はなくても、残酷なほど正直な態度が語っている。 自分は何も言わないくせに、オレの言葉を待っている。
そんなに困らないでくださいよ。……本当に不器用なんだから。
手を離し、微笑みかける。
「さぁ、朝練に行きましょう」
『朝練』という日常の言葉が、神谷さんを立ち上がらせた。 「ああ」 ほっとしたように、微かに笑みさえ浮かべている。
「掛川が……あなたの場所です」 「知ってる」 「帰りましょう」
「帰るか……」
掛川が、あなたと……オレの場所です。 久保嘉晴が造った、あなたの為の結界。
それまでオレ達の様子を見ていた犬が、トコトコと近付いてきた。 「この犬は?」 腰を屈めて、そっと手を伸してみる。 大きい犬だとは思っていたけど、近くで見ると迫力が違う。 優しげな黒い瞳、滑らかな毛並み。 可愛いとは思う。…元々犬って好きだから。
だけどこいつは――! 太い足が、オレの足を思いっきり踏みつけてきた!! 踏むだけ踏んだらさっぱりしたという風に、テコテコと神谷さんの元へ戻っていく。 そうか、お前は敵(ライバル)か。
犬とオレとの遣り取りを、神谷さんは疲れ切った様子で見ていた。
「オレももう疲れてんだよ……」 いかにもしんどそうにぼやいている。 「これから練習なのに?」 疲れている理由は知っているけど…からかいを込めてとぼけて聞いてみる。 だけどオレの皮肉は通じなかった。 「馬堀、始発何時だ?」 言われて腕時計を見る。大丈夫、まだ5時半にもなっていない。 「今からなら、こだまの始発に間に合います」 45分もあれば十分だ。
あれ?でも、まさか…… 「でも、まさかこいつも?」 犬を見下ろすと、 「ぐるる……」 睨み返されてしまった。 お前、ついて来るというのか? オレの疑問は、神谷さんの言葉で肯定された。 「帰るぞ。掛川まで起こすなよ。こいつはまかせた、オレは寝る」 「バウ?」 神谷さんの言葉は、犬にとっても意外だったらしい。 諦めろ、犬。神谷さんの決定は絶対だ。
「……いいですよ」 オレが納得したのを確認すると、今度は犬に言い聞かせる。 「オレは寝る。わかったな?」 「バウ!」 了解したらしい。結構頭良いじゃないか。 神谷さんは言うだけ言ったらほっとしたらしい。眠気に襲われたらしく、瞳が半分閉じられ身体がふらついている。 「神谷さん」 起こそうと肩を掴んだけど、見る間に神谷さんは眠りに引きずられていく。
力の抜けた、無防備にまどろむ表情……
魅入られて――そっとキスをした。
柔らかな感触。
暖かくて、少しかさついていて……
初めて触れた唇。 なんだ、キスなんて簡単なことだったんだ。
でも……
でも苦い。 なんて苦いキス。
この唇に触れられるのが、オレだけなら良かったのに……!
「バウバウバウバウッ!!!!!」 離れろと、犬が盛んに吠えついてくる。 その声が、神谷さんを眠りの淵から呼び戻した。 「うるせえな!!」 キスから解放した唇から、犬への文句が零れる。
――オレのキスは無視された。また寝ぼけているんですね……。
唇の上に、苦みが残っている。
「……血の味が……しますね」
本当は血の味なんかじゃないんだけど。 「ひっさびさにケンカしてきたからな」 あなたが笑う。
ケンカ……ですか。 「手当てしますよ。あなたは大切な人なんですから」
「……馬堀」 ああ、困ってしまいましたね。いまさら下手なウソをつくから…。 それとも本当にケンカだったんですか?
困ってしまった神谷さんは、きょろきょろと辺りを見回した。 「駅はどっちだ……」 「バウ!」 質問を理解しているのか、犬は鼻先を右側に向けて一声吼えた。 でもそっちは不正解。 「こっちです」 神谷さんの手荷物を取って、左側、駅方向へ促す。 「ずいぶん利口な犬ですね」
人語を理解するのは誉めてやろう。――駅への方向を間違えていたにしても。 「シツケが厳しいんだってよ、ドイツは」
ドイツ? やっぱりそうか。 「ああ、あのドイツ人の犬ですか」 「なんかしらんが預かれとよ」
預かれって……わざわざ日本にまで連れてきたような愛犬を? 「いいんですか?つれってっちゃって」
「来るっるーんだからな……」
来るって……犬が言ったのか。
神谷さんと犬は、視線を合わせて互いに頷いている。――本当の話らしい。 「ふーん。ところで神谷さん、犬の飼い方しってます?」 「知らん」 「バウ」 「とりあえず調子にのったら鉄拳らしい。ポイントはおさえた。なっ」 「キュン……」
神谷さん……それって違うみたいですよ。ほら、犬が不安に怯えてる…。
オレも犬は飼ったことがないからよく分らないけど…… とりあえず掛川に帰ったら、犬の飼い方の本を買おう。 さっきまで(あのドイツ人の飼い犬と聞いて余計に)気に入らなかった犬だけど、とたんに同情心が湧いてくる。 「大丈夫、何とかするから」
「キュウン……」 見上げてくる瞳が潤んでいる。 どうやらお前も、今まで苦労してきたみたいだな。
オレと犬がアイコンタクトで休戦条約を結んでいる間に、神谷さんはフラフラと車道に出てタクシーを停めてしまった。
駅までは10分ほどしか歩かないのに……それすらしんどいらしい。まったくあのドイツ人! 加減ってものを知れよ!! いざタクシーに乗り込もうとすると、運転手は犬を乗せることを渋った。
そこを「シツケが行き届いた犬だから大丈夫。粗相をしたら責任を取る」と言いくるめ、乗車することに成功した。近距離の上に犬連れ――運転手には悪いと思うけど、神谷さんの方が大切だ。
最初に神谷さん、次にオレ、最後に犬の順で乗り込む。 犬は、おとなしく座席にお座りした。どうやら車に乗るのは慣れているらしい。 乗り込んだ途端、神谷さんは安心したのか大きく息を吐いた。 横顔が疲れている。顔色が青ざめている。
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」 覗き込んで声を掛けると 「眠いんだ……」 半分眠りかけの瞳が、力無く笑った。
その表情に心臓が跳ね上がる。痛々しいんだけど……同時に抱き締めたくなる。
抱き締めて全てを包み込んで……あなたを感じたい。
だけど今のオレに出来るのは、眠りにつこうとするあなたに肩を貸して上げるぐらいで……。
頭がオレの肩に預けられた時に、ふわりと身体から立ち上った体臭に泣きそうになった。
普段はあまり体臭の無い人なのに――あいつの残り香なんだろうか。
体臭が染みついてしまうほどに、深く一つに溶け合ったんだ……。
今あなたを支えているのは、オレですか? あいつですか?
「クウ……」 犬が、気配を察したのか寂しそうに小さく声を漏らす。 お前、利口だな。飼い主にさぞかし可愛がられていたんだろう?
飼い主……ルディ・エリック……
ルディ……くそっ! ドイツの至宝、ブンデスリーグのスター選手。 まだガキの、学生でしかないオレじゃ、かなわないのか?
肩に乗せられた頭に、そっと手を置いてみる。抵抗が全くなかったことにほっとした。 「電車で寝ててください」
「ん……」 声を掛けると、神谷さんは小さく頷いた。目が閉じられていく。
「好きです、神谷さん」
言葉が、零れてしまった。
困らせるって解っているのに……あふれ出てしまった。
好きです、神谷さん。
あなたが……あなただけが好きです。 真っ直ぐに夢を見る瞳、立ち向かっていく強さが好きです。 その内に抱えた悲しみや弱さから、逃げない姿勢が好きです。 狡いところや意地悪なところさえ、惹かれて止まない。
閉じられていた神谷さんの瞼が、ゆっくりと開かれた。 困惑の色が、瞳に出ている。
「オレはそういう『好き』にはならねえよ」
躊躇いの後、返された言葉は残酷で、同時に優しかった。
「なれねえんだ」 苦悩の響きが胸を突く。
真剣に考えて、返してくれた言葉。
オレの『好き』とは違うけど……少しは好きでいてくれているのですか?
同じように好きになってくれなんて言わない。 あなたを苦しめるのなら、言わない。 だから
「いいんです。憶えておいてもらえるなら」
憶えておいてもらえれば、それだけで良い。 でも心は止められない。いいですよね?
神谷さんは、オレの顔をじっと見つめていた。
そうすることで、心の底までを見通そうとしているように……。 本当に見せられたらいいのに。取り出して、あなたの前に差し出せられればいいのに!
すみません。あなたを困らせてしまいましたね。
「オレの勝手な気持ちですから。……ほら、駅です」 車は、駅前に静かに到着した。 清算をして、犬を下ろしながら外に出る。
「帰りましょう。掛川へ」 まだぼうっと座席に座ったままの神谷さんに声を掛ける。 「バウ!!」 犬も見事なタイミングで、しっぽを大きく振りながら一声吼えた。
ようやく我に返ったというように一つ瞬いてから、ゆっくりと神谷さんが車から降りてくる。
「一番ほしいものか……」
小さい囁きが、耳を掠める
良く聞き取れなかったけど……神谷さんは今何て言った?
訊こうとした時に、急に犬が改札に向けて走り出した。
「バウバウバウバウ……j」 「あっ、こら!!」 楽しそうに走る犬を、慌てて神谷さんが追う。 ああ、そうか。この問題が残っていた。 どうやって犬を電車に乗せよう? 新たな問題発生。先程の言葉を訊くことどころじゃない。
早く掛川に帰ろう。 オレ達の居場所、あの優しい結界の中へ。 早くこんな街から出ていこう。
ふと脳裏に、あのホテルの最上階にいるルディの顔が思い浮かんだ。
お前なんかには渡さない。 神谷さんは、オレが連れて帰りますから。
離さない。この愛しい人を絶対に……!
続く 2001.7.6.
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