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展覧会の紹介

これくしょん・ぎゃらりい
イメージと創造 
日本画の世界
2003年2月2日−4月10日
道立近代美術館
(中央区北1西17)
 道立近代美術館も、開館25周年をすぎるとさすがに所蔵品が増えてきて、常設展示室で年4回ほどおこなわれる「これくしょん・ぎゃらりい」でも、未見の作品にずいぶん出合う。
 これらの所蔵品は、寄贈を受けたものもかなりあるが、税金で買ったものも多い。ゆえに、ヘタなものは購入していないのだから、作品の水準は高い。特別展のほうは、展覧会によって中味にばらつきがあるが、これくしょん・ぎゃらりいは見て損をすることはないのだ。

 道立近代美術館の持っている日本画といえば岩橋英遠片岡球子ばっかりじゃないのか−と思っている人がいたら大間違い。今回、岩橋英遠の名作「道産子追憶之巻」はさすがに外せないらしくトリに飾ってあるが、片岡の絵は「枇杷」(1930年=昭和5年)1点しか展示されていない。
 しかも、後年の、個性が濃くにじみ出た人物画などではなく、ほとんど没骨にちかい、じつに写実的な作品である。一般の日本画家が描いたのならさして驚きはないが、片岡の手になったものと思うと、正直言ってびっくりする。

 ほかに、近代美術館の常連としては、山口蓬春が「暖冬」(33年=昭和8年)と「春野」(35年)、菊川多賀が「閑日」(48年)。
 山口は、日展の日本画ではかなり高位に上り詰めた人物だが、いまは、同館の編集になる「ミュージアム新書」も品切れのままなど、相対的な評価がわずかずつ下がっている画家である。「暖冬」は金と青金を、背景にふんだんに用いた二曲一双の屏風で、わが国における絵画が、純粋な美術品であるより以前に一種の縁起物であったことをあらためて思い出させる一幅である。
 もうひとり、昨年の同館の展覧会「北海道の25人」にも登場し、同館が多数所蔵しているはずの森田沙伊本間莞彩は、1点も出ていない。

 ほかに北海道ゆかりの画家では、釧路生まれの尾山幟(1921−95)がいる。中村岳陵門下。日展では評議員になった。今回は「七面鳥」(77年)が陳列されている。写実性と装飾性の両立を図った作品で、白い羽の鳥と、それをとりまくおびただしい花や葉の双方が、存在感を持って描写されている。

 初めて知った北海道関連の画家もいて、いまさらながら不勉強を思い知らされた。
 山内弥一郎(1885−1954)は札幌生まれ。「霜の朝」(1926年=大正15年)は水墨で超俗的な風景を描いているのだが、そこにそびえ立っている木がどうしてもポプラにしか見えないので、どうしてもバタ臭くなって感じられてしまう。その意味ではめずらしい水墨画だと思う。
 なお、山内は道展の創立会員である。
 北上聖牛(1897−1970)は函館生まれ。竹内栖鳳門下で、帝展に9回も入選している。「晴間」(1928年=昭和3年)は、写実的・洋画的な感覚を持った作品。3羽のサギがモティーフだ。細い葉が重なり合うところに、リズム感がある。

 院展の大家として日本画史に偉大な足跡をのこす横山大観下村観山
 彼らが対になって描いた「陶靖節『幽篁弾琴』」と「陶靖節『見南山図』」(1919年=大正8年)は、中国の詩に題材を得たもので、大観のほうは、静かな夜に楽器をかなで、観山のほうは、とおくをながめて物思いにふける詩人の姿を描いている。
 となると、この一対の絵は、「日本画」と言いながら、完全に中国のイメージの支配下にあるわけで、大正時代の日本人にとってこの手の教養がいまよりもはるかに身近であったことを示すと同時に、「日本画」の成立に中国の詩画の影響を否定することはけっしてできないということを暗示しているといえまいか。

 ほかに、気になった絵として、小坂芝田の「万竿幽趣(ばんかんゆうしゅ)」という十曲一隻の水墨画の大作がある。山村を描きながら、人物がひとりも出てこないこの絵は、縦長の空間に崖や家などを配置する従来の水墨画とことなった、広いスケール感のある風景を展開している。明るいながら、どこかこの世のものでない、ふしぎな世界を描いた作品に感じられる。
 いかにも南画の、しみじみはるばるとしたユートピアだと思う。
 小坂芝田(1872−1917)のこの作品は、大正5年の「日本美術協会」展に出品され、当時の批評では好評だったようだが、この協会が、明治期に結成された、帝室技芸員の実質的な母体である工芸の振興団体とどう異なるのかは浅学にしてわからぬ。ただ、文展−帝展に出品していない画家は、なかなか後世に名が残りにくいのだな−という感想は、否応なく抱いてしまう。

 筆谷等観「登山の図」(大正中期)もはじめてみた。荷を背負いながら山道を登っていく二人の存在が、この絵がアルピニズム普及以前のものであることを如実に物語る。「山があるから登る」などと言うのは近代人であって、昔から人は必要があるから山に登っていたのだ。
 筆谷は1875年小樽生まれ。道南をのぞけば北海道の美術史でほとんど最初に名前の登場する人物である。橋本雅邦に師事。院展同人。1950年歿。

 小杉放庵「水亭小集」は、画面の中には「水荘有客」と書いてある。湖水に張り出した別荘に客人が訪ねてきた図を水墨で描いており、すずしげな軸である。

 その他、筆者の知らなかった画家について。
 「十二カ月連幅」の筆を執ったのは、松岡映丘とその門人たちである。
 映丘は、大和絵の伝統を近代日本画に取り入れようとした人だが、山口蓬春の師でもあった。
 高木保之助は1891年東京・本郷生まれ。東京美術学校を首席で卒業後、映丘、蓬春らとともに「新興大和絵会」を旗揚げしている。28年の帝展では特選になっている。1941年歿。
 吉村忠夫は1898年黒埼(現北九州市八幡西区)生まれ。22年に帝展特選。東京の国立近代美術館には「朦朧大臣」が所蔵されているということである。1952年歿。2001年には福岡県立美術館で回顧展がおこなわれている。
 小林雪岱(せったい)は、泉鏡花の「日本橋」の挿画をした人だということ以外にはわかりませんでした。遠藤教三は1897−1970年。

 小川千甕(せんよう)は1882年生まれ。最初日本画を描いていたが、その後浅井忠に洋画を習い、二科展の設立にも参加した。戦後は日本水墨派を興したり、ほかに書もよくするなど、なかなか多才だった人のようである。1971年歿。

 吉川霊華(きっかわ・れいか。1875−1929)は、結城素明、鏑木清方、平福百穂、松岡映丘とともに、1917−22年、「金鈴社」というグループで活躍した。ほかの4人にくらべ、知名度が低いように思うのは、さっきも書いたけれど、この期間中ほかの4人が文展−帝展との掛け持ちで、はやくも審査員に推されていたためではないのか。それとも技量にあきらかに差があるのか。ただし、グループ解散後、霊華も帝展の審査員になっている。
 岡崎南田はまったく調べようがなかった。
 高橋応真は1855−1901.東京生まれ。
 福田翠光は1895−1973。京都画壇の官展派の重鎮として活躍したということである。
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