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展覧会の紹介

これくしょん・ぎゃらりい
異国という夢−道産子画家が描いたアジア
2003年2月2日−4月10日
道立近代美術館(中央区北1西17)
 
 これはなかなかおもしろい視点による展覧会だと思う。
 出品されているのはすべて油彩で、6人が、大正末期から戦中にかけて描いた12点である。
 国松登、松島正幸、上野春香、大月源二、上野山清貢、俣野第四郎とくれば、いずれも北海道の美術史に名を残す顔ぶれ。ちなみに、俣野(またの)は、三岸好太郎の親友で、25歳で夭折した人。

 なにがおもしろいといって、北海道というのはそもそも植民地であるはずなのに、その植民地の人間が、さらに外側にある植民地に出かけていって(そこには、英国の植民地もふくまれているが)絵をかいているというねじれ現象が起きているのが興味深い。
 だれか「ポストコロニアリズム」にくわしい人はこの事態を分析してください。

 会場の解説文にあるとおり「彼らの渡航は、時の政治的・軍事的情勢と無縁では」なかったわけだが、彼らの視線には、日本の軍事的拡張主義にたいする批判精神はみじんも感じられない。そのことを今の時点から責めようとはまったく思わないが。
 ただし、もともと西洋によって「オリエンタリズム」的な視点によって「発見」された日本の美術の作家たちが、そのまなざしのあり方をそっくり受け継いで、アジアをオリエンタリズム的に「発見」していることについては、皮肉な事態だと思わざるを得ない。

 その視線がもっとも色濃く出ているのは上野山清貢の「室内」であろう。
 帝展で連続特選を得て、もっとも脂が乗り切っていた時期、中国の蘇州に渡って描いたものであるらしい。
 画面には、チャイナドレスを着た女性たちが立ち、日本人が、かつてのフランスの中国趣味を反覆したかのような画面になっている。それが、あたかも、西欧列強に仲間入りして、「遅れた中国」を「あちら側」に追いやるための必然のように。

 あるいは、松島正幸は、1938年(昭和13年)前後から再三ハルビンに渡り、かの地の都市風景を描いている。
 当時のハルビンは「満洲国」にあったわけだが、これが日本と別の国だというのは当時からあまりにもしらじらしい言い訳だったことは、戦前の「時刻表」に満洲の鉄道の時刻が当然のように掲載されていることからも推察される。
 で、「松島正幸展」の図録によれば、
帝政ロシア時代の建築物、フランスの家具、そして白系ロシア人、中国人、朝鮮人などが多く住むエキゾチックな街の雰囲気
を松島が好んだらしい。萩原朔太郎の詩を引くまでもなく、パリは、多くの日本人(とりわけ画家)にとってあこがれの地でありながら、行くには遠すぎたのである。
 もっとも、もともと住んでいた満洲族にとっては、エキゾチシズムの投影自体が身勝手にうつるだろうけれど。

 大月源二は「三河の農夫ポノマリヨフ」が出品されている。
 43年の一水会展で一水会賞を得た作品である。
 どうして第二次世界大戦中の愛知県にロシア人の農夫がいるのか−といぶかしく思ったが、「三河」は愛知県ではなくて、「サンホー」であり、当時の満洲国とモンゴルとの国境地帯であった。大月は、1940年から何度も満蒙国境附近を旅している。
 43年夏には、三河地方に1カ月滞在した。金倉義慧著「画家 大月源二」に引用されている、戦前の満洲国についての辞典を孫引きすれば、人口5340人、コサック農民が集団移住してできた村であり、少数のブリヤード人、ツングース、満漢人が住んでいるという。
 大月源二はプロレタリア美術を代表する画家であり、戦後も共産党系の団体を主導する立場にあった。ただし、戦中「転向」がまったくなかったとはとうてい言えず、日本の軍事的進出を後押しするような時局漫画を描いているし、終戦直前には国松登とともに従軍画家として千島方面に旅立っている。
 ただし、大月の視点は、オリエンタリズムにおちいることなく、コサックの老農夫を存在感ゆたかに描いている。すくなくてもこの絵は、イデオロギーとか民族性とか時代とかを超えて、人生の年輪を重ねてきたひとりの人間を表現しえているように思う。
 そして、ロシア人をモティーフとすることで、当時はとうていむりだった、共産主義ソ聯への親近性をあらわしたかったとみるのは、考えすぎだろうか。もちろん、サンホーがノモンハンの激戦地からほど遠くないところであり、しかも独ソ不可侵条約が結ばれたことをおもえば、彼が盲目的にソ聯をあこがれていたとはかんがえられないのであるが。

 まとまりのない終わり方ですいません。
 また気がついたことがあれば追加します。
 
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