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展覧会の紹介

ヴィルヘルム・レームブルック展 2003年7月5日−8月31日
芸術の森美術館(南区芸術の森2)

9月13日−11月9日 宮城県美術館
12月13日−04年2月15日 足利市立美術館
2月29日−4月4日 高知県立美術館
4月17日−6月13日 神奈川県立近代美術館 葉山
公式サイトはこちら

 レームブルック展については、筆者のまわりでは
「感動した」
「思ったほどでもなかった」
と、反応がわかれている。
 筆者個人が感じたのは
「ジャコメッティ以前に、このようなデフォルメのしかたで人間存在にたちむかった彫刻家がいたのか」
というおどろきと
「ロダン以降の彫刻で、しかしなかば未完に終わったこのような展開のしかたがあったのか」
という新鮮な発見の感覚だった。
 すごく図式的にいえば、ロダンが発見した「人間」を、マイヨールはアルカイック(古代風)にふっくらとさせ、レームブルックは縦に細くしたのだ。あれほど頭部を小さくし、手足を長くするといった変容をほどこしながら、ヘタな具象彫刻よりもはるかに迫真の人間像たりえているのは、やっぱりすごいとしかいいようがないと思う。
 また、海外から彫刻作品をはこんでくるのは多大な経費がかかる。今年の安田侃展とイサム・ノグチ展は市民から寄附をつのるという新手でのりきったが、レームブルック展は、国内計の5カ所開催とすることでクリアするようだ。主催のSTV(の井坂重孝会長)の情熱にはあらためて感服した。

 これでこの文章を終えてもいいんだけど、レームブルックを理解するにあたって案外抜け落ちていそうないくつかの点について書いておきたい。

 まず、第一次世界大戦のもたらした衝撃である。
 もし、世界史のなかで最も重要な戦争をただひとつだけ挙げよ、といわれれば、たぶんこの戦争になると思う。
 第二次世界大戦も、モンゴルと欧州の戦いも、世界史のなかではきわめて重い位置を占めているけれど、
  1. 破壊や悲惨さの度合いがそれ以前の戦争と決定的に違っていること。近代文明の成果が惜しみなく兵器などに応用された。
  2. 国家対国家による、初めての「総力戦」であり、すべての人間が国家権力により動員されるようになった。(言い換えれば、それまでの戦争は軍人が主体であり、それ以外の市民の日常生活が全面的に、かつ長期にわたって支配されるということはあまりなかった)
  3. ロシアとドイツで帝政が崩壊し、とりわけロシアでは共産主義革命がおこり、20世紀ののこりの歴史を大きく左右した。
という点で、第一次世界大戦が、その後の世界史に多大な影響をあたえたことは否定できない。
 リアルタイムで経験した人がほとんどいなくなってしまったこと、日本は参戦したとはいえあまり関係なかったことから、重要性をわすれてしまっている人が多そうだけど、ここはおさえておきたいポイントだと思う。
 いまから世界史を振り返らずとも、当時の欧州人にとっても、この戦争は大きな意味合いをもっていた。
 なにせ、1870年の普仏戦争(プロシア=統一前のドイツの一部=とフランスとの戦争)から44年間、欧州では戦争らしい戦争がなかったのだ。当時のことを「ベルエポック」とよんでいたのも、欧州の歴史ではめずらしい、長い平和だったからだろう。
 もっとも、一枚皮をめくれば、各国の外交策略がうずまく、あぶない均衡だったのだが…。
 その均衡がくずれて戦争が勃発するのだが、当初は、ほとんどの人が、数ヶ月で終わるものと信じていたらしい。
 ところが、フランスとドイツの間には、長い塹壕が築かれ、ささいな陣地をめぐって何千、何万という人命がどんどんうしなわれるという、だれも予想していなかった事態になった。
 大義ある戦争ならまだしも、展望のない戦いに、かつてない命がうしなわれていくことの無意味さに、多くの知識人や哲学者たちが精神的な危機におちいったことは想像にかたくない。人間とはなにか? 欧州は文明社会だったはずなのに、そもそも文明とは、文化とはなんだったのか?
 これら深刻な問いから、たくさんの文学や思想が生まれた。ヘッセ「デミアン」、トーマス・マン「魔の山」、マルタン=デュ=ガール「チボー家の人々」、レマルク「西部戦線異常なし」、ハイデッガー「存在と時間」、シュペングラー「西洋の没落」。いずれも、第一次世界大戦なしにはけっして生まれなかった書物にちがいない(なーんて、あとの3冊は、筆者は読んでないけど)。
 そして、レームブルックの「坐る青年」「くずおれる男」も、この戦争なしには、ぜったいにつくられなかった彫刻なのだ。

 もうひとつは、第一次世界大戦中のジュネーブという都市について。
 ご存知のとおり、スイスは永世中立国なので、欧州大陸の主要国ではほとんど唯一、二度にわたる大戦に参戦していない(オランダやベルギーも、べつに参戦したかったわけではないが、ドイツの戦車にあっという間に踏みつけにされた。このへんは地形の問題でしょう)。
 そんなわけで、この時期のジュネーブにはいろんな人がいたようだ。
 まずはレーニン。革命が佳境に入ったころ封印列車でロシアに密入国するまで、彼はジュネーブの図書館に自転車でかよって、ヘーゲルの弁証法を勉強しなおしていたのである。
 彼が19世紀末に書いた「唯物論と経験批判論」は、ごく単純な唯物論擁護の書物だった。ジュネーブ亡命期をへて彼の唯物論哲学は、相当のパワーアップを遂げる(らしい。筆者のあたまではよくわからん)。
 そして、既成の芸術いっさいを否定するダダイズムも、このころのジュネーブの「キャバレー・ヴォルテール」で誕生した。
 彼はちがう店にかよっていたようだが、もしこのキャバレーの常連になっていたら、あるいは自殺などせずに、あらたな展開をみせていたかもしれない。

 最後に。
 彼が、最後に恋した女優に、絵をかきいれて贈った詩集がヘルダーリンのものだったというのは、ちょっと興味深い。
 このロマン派の先駆的な詩人は、フランス革命の時代に熱情的な詩を書き、生涯の後半を狂気の暗がりのうちにおくったのだが、人妻への恋と失恋がその重要な契機になっている。「実らぬ恋」というところが、レームブルックの共感を得たのかもしれない。
 ハイデッガーの思想形成にあたってハイデッガーの読み直しは欠かせないポイントであるが、このへんは筆者の手に余る。彫刻家と哲学者の間に、通奏低音として共通して鳴り響く詩人の影響について、なにかあるかもしれない。

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