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青森・むつ・津軽 「化粧地蔵」と「賽の河原」「地獄」めぐり  

上遠野敏

 東京便り  ベルリン便り


 これまで古来からの「日本の美意識」を多方面に研究し、奈良や京都などの仏教美術の魅力にも親しみ深く感銘を受けて来た。ここ数年は、土着の民間信仰 と地蔵信仰が習合した六道思想や地獄の概念に、「国家鎮護」の役割とは違う「真の民衆救済」の仏教のあるべき姿がそこにあり、作品の上にも、その思いをかたちとして表してきた。
 むつや津軽に残る、化粧地蔵(童形地蔵)や賽の河原、地獄の取材を行った。

■『霊場恐山』(恐山菩提寺 慈覚大師堂 血の池地獄 賽の河原地蔵堂 極楽浜 金堀地獄 五智如来 冷抜の湯など)
 本州最北端の下北半島にある、青森県むつ市の「恐山」は、日本三大霊場(白山、立山、恐山、)日本三大霊山(高野山、比叡山、恐山、)、日本三大霊地(立山、川原毛、恐山、)の一つと言われ、862年に慈覚大師円仁が開山した。今から約1200年前、円仁が唐の五台山で仏道修行中の夢枕に聖僧が現れ「汝国に帰り、東方行程三十余日の所に至れば霊山あり。地蔵尊一体を刻み其の地に仏道をひろめよ。」との告げを受ける。帰国して諸国を行脚、この地に至り山川大地まさに霊山と定めしところが恐山である。大師みずから丈六尺三寸の地蔵尊を刻み、今日の恐山信仰のもとを開いたそうである。
 彼岸と此岸を思わせる「宇曽利湖(うそりこ)」を中心に蓮華八葉と呼ばれる八つの外輪山に囲まれた地形は霊地そのものであり、極楽とも地獄とも例えられる景色が印象的である。吹き出す硫黄臭や異形の火山礫、累々と石が積まれた賽の河原、人々のあの世の人への思いが交錯する多重に着重ねられた地蔵尊、あの世ので遊ぶための慰めか、かすかな気配で回る風車、そして地獄のランドスケープは、ほかに類を見ない強烈な磁場を発生させ、マイナスもしくは後ろ向きのエネルギーを放出(吸収)していて慎重な足取りを要求される。
 恐山の地霊に死者の魂が集まると言うのは、戦後のマスコミが「死霊の山」のイメージを定着させたらしいが、もともとは、現世利益を願い地蔵菩薩に大漁や五穀豊穣、無病息災、家内安全などを恐山詣でをしてご利益に与ったらしい。末法の世の苦しみも知らない私たちは、日々、安穏と何の危機感も飢餓感もなく暮らしている。そんな中でこの世とあの世の中間地点に身を置き、後ろ髪を引っ張られる感覚や心臓を圧迫されるようなもどかしい感覚を味わうのも悪くは無いであろう。恐山には、それを思わせるには最高のシチュエーションであった。恐山菩提寺は、地獄・極楽なので浄土教かと思いきや禅宗の曹洞宗円通寺管轄で長年の乱世の中で宗旨替えを余儀なくされたのであろうか?

・賽の河原地蔵堂:7/20〜24の大祭には大勢の人々が詣で、あの世で子供たちが、困らぬようべろ掛けや衣類、わらじや玩具、お菓子などで、埋め尽くされるそうだが、まだひっそりとしたお堂内はかえって、待ちわびるあの世の子供たちの声が聞こえるようだ。外には、賽の河原の石積みがあり、積み上げては鬼に蹴散らされて泣く子供たちがいそうな気配である。10歳に満たない子供が親より先にあの世に行くのは大罪だそうで、そのような罰を受けるらしい。
 しかし貧しい北の寒村で、やむにやまれず生まれたばかりの子供を間引きしなければならない状況を考えると、今こうしてここに立っていられる幸せを感じないわけにはいかない。

・極楽浜:宇曽利湖に面して、清浄な白砂と五色の水面と穏やかに押し寄せる波は、この世の極楽であろうか、こうして考えるに末法の世で、痛いほど苦しまされた民衆は、その苦しさ故に死後に極楽を求めたのであろう。それを観想し死後の世界へ往生するための数少ない場所だったのであろう。現在、世界には戦争もあり、危機感もある状況だが、広い宇宙で、満々と水をたたえ、花も緑もある世界は地球だけである。この世が極楽と思える現在に感謝しなければなるまい。

・五智如来:なぜか密教の五智如来。如来とは悟りを開いた仏のことである。大日、阿しゅく、宝生、無量寿、不空成就の五体の愛らしいお姿で並ぶ。

・冷抜の湯:参拝者は無料で入湯できる。肩に背負った重荷と深く受け止めたこころを浄めるため、硫黄の黄色い霊泉に静に身をかがめた。(男湯)

・三途川:宇曽利湖から太平洋へ注ぐ川、精進川が生死をまたぐ三途の川で、あの世からこの世へ太鼓橋を渡り霊界を後にした。まだ死なない身としては、現世の内に霊界から生還するのも、精進落としとしては悪くないであろう。

『一念寺地蔵堂』 青森市安方
 青森市内の寺院でも地蔵信仰は色濃く、門構えの横には美しい錦織のべろ掛けに彩られた六地蔵が人々を見守り、小さな地蔵堂は清潔に保たれ、美しい金色の錦の法衣を召した地蔵尊を中心に、小さな浴衣や肌着、玩具やお菓子などが奉納されて、慎ましく生きるひとびとの心根の美しさを見る事が出来た。

『雲祥寺』(十王曼陀羅 地蔵堂) 津軽地方 金木町
 1596年繁翁茂和尚が開基。その後津軽藩の命により曹洞宗通幻派に宗旨替え、現在に至る。この地は太宰治の生家があり現在は斜陽館として太宰の記念館となっている。斜陽館は、この町でも頭抜けた建物であり、津軽でも有数の名家である事がうかがえる。太宰の小説「思い出」の文中に雲祥寺や地獄絵(十王図)について書かれてから、この寺が着目されるようになった。

−「参考:太宰治「思い出」抜粋」−
 「六つ七つになると思い出もはっきりしている。(中略)たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。
火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが回すと、いい音をたててひとしきり回って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が回すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを回して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆回りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に回しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。

・十王曼陀羅:「十王図、九相図、地獄絵図を併た時間空間の多重な表現」
 江戸中期の作で作者名無し、木村宇兵衛の寄進による。全七図(巻)で巻七には、まとめて四王、四仏(九相図の四図も)が描かれている。保存状態も良好で、以前はお盆や特別な催しの時だけしか見る事が出来なかったが、現在では、参拝者の求めに応じて常時拝観することができるように展示されている。お寺の慈悲に頭がさがる思いである。
 普段、十王図や地獄絵、九相図をお寺で拝観する事は皆無で、美術館などでその一端をかいま見る程度である。常々、地蔵と地獄の途方も無い創作のイマジネーション(八大地獄には別所があり、総数128の地獄がある)に感銘していたので、十分な資料もない中で太宰治の地獄絵に偶然ながら拝見できたのは、この寺の可愛い地蔵様のおぼしめしと心得る。
 十王は死後の裁判官である。この世での裁判は三審制であるが、あの世は十審制である。仏教の慈悲の深さがわかる。詳しい話は別にゆずるとして簡略に表記したい。

巻一)秦広王:本地仏・不動明王、初七日。三途の川を渡ると、奪衣婆が衣類をはぎ取り、懸衣翁が衣領樹の枝の懸け、罪業の重さを量る。邪淫之劔山(きれいな女人の誘惑には代償がつきものの戒め)や血之池地獄など。

巻二)初江王:本地仏・釈迦如来、死後十四日目。賽の河原で石を積む童を救済する地蔵菩薩。餓鬼道之責め。大変めずらしい八寒地獄の氷之池地獄など。

巻三)宗帝王:本地仏・文殊菩薩、死後二十一日目。火之車。修羅之責め。人畜生之責めなど。

巻四)五官王:本地仏・普賢菩薩、死後二十八日目。山に挟まれる盤石叫喚、網の上で焼かれる熱陽地獄、大焦熱地獄など。

巻五)閻魔王:本地仏・地蔵菩薩、死後三十五日目。閻魔様は地獄の大王。なんと言っても興味深いのは現在のデジタル技術を先取りしている、「浄玻璃鏡」である。生前の行いを再生して映し出される。言い逃れは許されないすべてお見通しなのである。他に人頭幢、棒先の顔が乗りその表情がら罪業を知る。無間地獄までまっ逆さまに二千年間堕ちる無間墜落隊。嘘をついた者が舌を抜かれたり、舌を何百倍にも引き延ばされて極卒に杭を打たれているのを見ると恐さを通り越して笑いを誘う。

巻六)変成王:本地仏・弥勒菩薩、死後四十二日目。酒の谷の溺れ苦しむ酒亡者や極卒から弓で追いかけられる偽語怒弩之責めなど。

巻七)太山王:本地仏・薬師如来、死後四十九日目。
   平等王:本地仏・観音菩薩、死後百ヵ日目
   都市王:本地仏・姿勢菩薩、一周忌
   五道轉輪王:本地仏・阿弥陀如来、三周忌
この一巻には、まとめて四王、四仏と九相図の四図も描かれている。大勢の僧侶によって供養されその功徳により成仏する姿。邪淫をした男が双頭の女に絡まられる姿は、この世もあの世も地獄と言える。

八大地獄(八熱):他に八寒地獄、狐地獄があるが、お目にかかる事は少ない。
生前の罪業に応じて八層の奈落へ堕ちる。それぞれの地獄には、四つの別所があり、その別所にまた四つの地獄があり、総数128か所の地獄が用意されている。恵心僧都・源信(942〜1017)の「往生要集」がもとになり、僧や絵師、寄進者のイマジネーションが増幅させたと考える。極楽の絵がわりと単調な表現に留まっている事を考えるに、末法の世には悪徳がはびこり、仏の戒めとして地獄絵は最良のテキストであったことであろう。夜半にろうそくのともしびをたよりに、僧がお堂に地獄絵を掛けて衆生に絵解きをしながら、罪の大きさと地獄の恐さを語って聞かせたのであろうから、効果はてきめんだったろう。
     
 現在のように白日のもとで見たのでは、美術品として火焔の美しさや極卒や亡者の表情や仕草にユーモアや楽しさを感じて、その効果は半減であろう。
等活地獄(殺生を犯した者)
黒縄地獄(殺生・偸盗(盗み)を犯した者)
衆合地獄(殺生・偸盗・邪淫を犯した者)
叫喚地獄(殺生・偸盗・邪淫・飲酒を犯した者)
大叫喚地獄(殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語(嘘)を犯した者)
焦熱地獄(殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見を犯した者)
大焦熱地獄(殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯自戒人(尼さんや僧を犯した罪)を犯した者)
阿鼻地獄(殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯自戒人・五逆罪(父、母、羅漢を殺し、仏を傷付け、教団を分裂させる大罪)・正法誹謗(仏法をそしる事)を犯した者)

九相図:美しい人も一皮剥けば、ただの肉と骨と内臓でその内臓には汚物がつまっている。生前いくら美しくても死んでしまえば、見る影も無く腐敗して悪臭を放ち、やがて滅びる。この当たり前の事を九相図は究極のリアリズムで示してくれる。仏教の慈悲はあるがままを受け入れることにあるのか。すごい。

・雲祥寺地蔵堂:「あの世とこの世の中間の人々の無償の愛の示し方」
 お堂の中の、約300体の地蔵尊(童形地蔵)は顔や袈裟にほど良く着彩を施した化粧地蔵で、色とりどりのべろ掛け、ずきん、ゆかたなどをまとっていて、愛らしいお顔が一層いとおしいさを増している。昔の食料事情は今と格段の違いがあったのであろう、東北特有の冷害で度重なる飢饉が襲うたびに、幼いわが子を命を失ったり、やむにやまれず間引きをされたりと、苦渋の歴史を背負ってきた証なのである。ベロ掛けの胸元には、リンゴの小さな切れ端が挟まれていて、人々の思いと無償の愛の行為に津軽人の熱い心が伝わる。しかし、これほどに色彩に満ち溢れている表現は、苦悩を覆い隠して、ある意味明るさを感じる不思議な空間であった。

『金木街角の辻々の小さな地蔵堂』津軽地方 金木町
 金木の道端には所々小さなお堂があり、在所の方々が心を込めて地蔵信仰をしている事が伺われる。いずれも美しい衣装をまとい手厚く拝まれている。

『川倉賽の河原地蔵尊』地蔵2000体の巨大インスタレーション 金木町
 下北半島の「恐山」と並ぶ津軽半島の霊場「川倉賽の河原地蔵尊」。恐山にくらべてあまり知られていないのか、訪れる人も少なくひっそりとしていた。
 伝説は古く、数千年前、この地方の天空に不思議な御燈明が飛来した時、その光に照らされた場所から発見された地蔵尊を安置したのが始まりと言われている。
 6月22日から24日までの例大祭には、ここにも津軽イタコがおり、亡きひとの「口よせ」をしてくれる。地蔵堂内と境内には約二千体のお地蔵様がまつられていて、あの世とこの世をつなぐ巨大インスタレーションと言える。

・地蔵堂:川倉の地蔵尊を中心にして安置し、お堂の両サイドと後背には、ひな壇のように、各村の地蔵が約二千体のお地蔵さまが色とりどりの衣装を身に付け安置されている。それに、死者たちが、生前身に付けていたと思われる、おびただしい数の、洋服、着物、手ぬぐい、ランドセル、玩具、サッカーボール、靴、わらじ、お菓子が遺影とともに奉納されている。あの世とこの世の人々の思いが交錯する、積層される遺品やあの世で困らぬ品々など、時間の体積と無償の愛を捧げるひとびとの思いが胸を圧迫させられる。この空間は、非日常の濃縮された、あの世そのもので言葉を失う。

・人形堂:未婚の男女の霊を供養し、結婚が適齢期になるとあの世で伴侶を結び付けてくれると言う伝説。花嫁、花婿の一対の人形がその不憫さを物語る。戦争中出兵して帰らぬ息子たちの結ばれない愛を思うと、せめてもの行為に親心を思わずにはいられない。

・賽の河原の石積み:天明の飢饉で亡くなった人々の霊が蛇に姿を変えて現れて、それを弔った蛇塚。手厚く供養されている。その下に賽の河原でさまよう幼子が積み上げたと言われている、賽の河原の石積み。芦野湖へ下りる空間に小さなお堂が並び地蔵が安置されている。かすかな風で、回る風車が霊気を一層引き出させている。

『十三湖  湊迎寺』 市浦村 十三湖
 十三山湊迎寺、浄土宗。建保3年(1215年)浄土宗の開祖法然上人の直弟子金光上人が檀林寺付近に庵を結び、後に現在のところに移転された。
 十三湖の河口は、中世の交易の貿易港として大変栄えた所と言われている。古来の台風などの大潮で港が塞がれ、現在は、しじみが取れる浅瀬の湖となっており、その栄華をしのぶものはない。
 湊迎寺には、境内に小さな地蔵堂があり、ここでも、愛らしい地蔵さまが大切に守られている。ここに至るまでに、地蔵さまのベロ掛けに「クロス」つまり「十字架の模様」がいずれも入っていたが、どうも江戸時代のキリスタン弾圧で津軽のはてまで逃げ延びた人々と深い「いにしえ」がある事が推測される。現在では、十字のマークが慣習のデザインとしてなっているのであろう。
 やませと思われる風が、木塀の隙間から、うなりをあげて吹くさまは、厳し自然が人と地蔵信仰を結ぶ土地柄を強烈に意識させた。