レトロな列車旅4/食事処17/町並み64−岐阜
 −路面電車と中華そばと織田信長史跡


[2022年8月更新]
 コロナ禍で帰省を自粛していましたが、約3年ぶりに岐阜市内を訪れ、柳ケ瀬を散策しました。シャッター通りが続き、閑散としている街の姿は、残念ながら3年前と変わらず、往年の賑やかな柳ケ瀬が懐かしく感じられます。毎年帰省すると必ず立ち寄っていた、老舗うなぎ屋のなまずやは、残念ながら休業になってしまいました。

 市内唯一となった百貨店・高島屋の南側の再開発は進んでおり、昔立ち寄った商店街の一角がまるごと解体されて、その跡地に高層ビルが建設中でした。
柳ケ瀬から近い金神社の背後には、その高層ビルがそびえ立っていました。

柳ケ瀬 なまずや  金神社 

【金神社】
 岐阜市の中心部、岐阜駅から徒歩10分弱の場所にある
金神社は、古来から子供を育む母の神、商売繁盛や金運、財運をもたらす神として地元の人々に信仰されてきました。周辺は公園となっていて、都会のオアシスになっています。近隣の柳ケ瀬周辺の変貌は著しいですが、金神社は昔から変わらず、その荘厳な輝きを維持しています。


[2020年2月更新]
 岐阜駅から北へ約3km、長良川に近い昔ながらのエリアを散策しました。

崇福寺 岐阜城(金華山) 山頂展望レストラン
  正法寺(岐阜大仏) 川原町 旧岐阜県庁舎 なまずや(柳ケ瀬)

【崇福寺】
 長良川温泉に近い、長良川の北にあります。臨済宗妙心寺派の寺院で鎌倉時代に創建されたと言われています。1567年(永禄10年)に織田信長が岐阜に入ると、織田家菩提寺となり、1582年(天正10年)本能寺の変により織田信長と織田信忠が亡くなると、二人の遺品は崇福寺に持ち込まれ、織田信長・信忠廟所に埋められたと言われています。
 1600年(慶長5年)織田秀信は、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城し、岐阜城が廃城後、崇福寺は岐阜城天守の床板を譲り受け、この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に本堂の天井板に使用したという言い伝えがあります。

【岐阜城(金華山)】
 織田信長が1567年(永禄10年)に斎藤龍興から稲葉山城を奪取して新たに造営したと言われています。織田信長はこの地を岐阜と名付けたと言われています。その後、織田信忠、信孝、池田輝政、豊臣秀勝等が城主となった後、織田秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦で敗れ、落城し、その後廃城になったと言われています。
 その後、
1910年(明治43年)の復元、1943年(昭和18年)の失火を経て、1956年(昭和31年)に現在の天守閣が造られています。山麓の岐阜公園から金華山ロープウェイが山頂を結んでいます。岐阜城や展望レストランからは長良川や岐阜市内が眺望できます。

【正法寺(岐阜大仏)】
 岐阜城の麓、岐阜公園のすぐ前にある、黄檗宗金鳳山正法寺の釈迦如来坐像は、高さは13.63mで、江戸時代以前に建立された現存する大仏の中で、奈良の大仏(14・98メートル)に次ぐ大きさで、鎌倉大仏(同11・39メートル)と合わせて、日本三大仏と言われることもあります。乾漆造りと言われ、竹や美濃和紙などを使って造られています。乾漆仏では日本一の大きさと言われています。周囲1.8mのイチョウを真柱として、木材で骨格を組み、竹材を編んで仏像の形を形成、この竹材の上に粘土をぬり、一切経、阿弥陀経、法華経、観音経等の経典が書かれた美濃和紙を張り付けて漆を塗り、金箔を張っているとのことです。
 金鳳山正法寺の第11代惟中和尚は、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、これらの災害で亡くなった人々の菩提のために、大釈迦如来像の建立をはかりましたが、志半ばで亡くなり、第12代肯宗和尚はその後を継ぎ、引き継いで13年後の1832年(天保3年)、遂に大釈迦如来像は完成、建立に38年かかったと言われています。

【川原町】
 岐阜市の長良橋から南の地域は江戸時代より長良川の重要な港町として奥美濃からの木材や美濃和紙の陸揚げが多く、それを扱う問屋町として栄えたと言われています。岐阜空襲の戦災を逃れることができたこの地域には、現在も格子戸のある家屋や狭い間口に長い奥行きという昔ながらの日本家屋が軒を連ねて、昔ながらの雰囲気を醸し出しています。長良川温泉の老舗旅館「十八楼」もこのエリアにあります。


柳ケ瀬含む岐阜市内中心部も散策しました。

【旧岐阜県庁舎】
 旧岐阜県庁舎は、岐阜市司町に1924年(大正13年)に建設され、1966年(昭和41年)まで岐阜県庁舎として、以後岐阜総合庁舎として2013年(平成25年)まで使用されたと言われています。建物の南側部分が残されていますが、閉鎖中になっています。

【柳ケ瀬】
 岐阜駅から北へ約1km、岐阜市の中心部にある柳ケ瀬は、
美川憲一の柳ケ瀬ブルースでも有名な、中部地方屈指の繁華街として昭和初期から繁栄しました。平成以降、百貨店の閉店等、衰退を余儀なくされ、シャッターが閉まった店舗が増える等、とても寂しい状況になっています。
 丸デブ総本店同様、柳ケ瀬の中心にある高島屋のすぐ近くにある
老舗うなぎ屋のなまずやを訪ねました。なまずやは分店含めて、岐阜市内に多数店舗がありますが、柳ケ瀬の中心にある、なまずやは昔ながらの風情あるお店です。炭火焼のこんがりとして、甘く美味しいうな重を味わいました。


[2019年2月更新]

丸デブ総本店   

【丸デブ総本店】
 岐阜市の中心部、柳ケ瀬の高島屋近くにある丸デブ総本店は、大正6年(1917年)創業の老舗中華そば屋です。実家のすぐ近くにあるため、小学生の頃、1杯90円の中華そばを食べに通った記憶があります。今は1杯400円です。メニューは、昔ながらの中華そばとワンタンの2種類のみで、毎日売り切れ次第閉店となります。毎日11時開店、10時50分位から入店可能で、11時半〜12時位には店外に行列ができます。地元ではよく知られた行列のできるお店です。

 中華そばは、やや小さ目の器に麺がたっぷり盛られ、スープが溢れる位の状態で配膳されます。昔ながらのさっぱりしたしょうゆ味の汁も美味しく、全部飲み干してしまいます。既にたっぷり盛られていて、大盛はないこと、中華そばとワンタンと両方味わいたい人も少なからずいることから、年配の方でも中華そばとワンタンと1人で両方注文している人をよく見かけます。

 近年は帰省のおり、2年に1回位通っていましたが、待ち行列が長く諦めることも多々ありました。11時前に行くと並ばないことがわかり、今年は帰省の機会もたまたま多く、月3回ほど続けて通うことになりました。小学生の頃と変わらぬ店内は、スタフのおじさんおばさんの仕草含めて、昔ながらの雰囲気に包まれ、何とも言えない懐かしい感じになります。味も昔ながらの変わらぬ美味しさです。

 柳ケ瀬の岐阜高島屋の南側は再開発が決定し、2022年に高層ビルが建てられることになっています。2022年には高島屋周辺の状況が大きく変わり、人の流れにも変化が予想されます。路面電車が14年前になくなり、柳ケ瀬もこの10年間寂れる一方ですが、またいつか賑やかさを取り戻す日々が来ることを願いつつ、後にしました。


[2017年3月更新]

旧岐阜市内線モ510形(金公園に保存)  金神社  柳ケ瀬  岐阜駅前  岐阜城

 名鉄岐阜市内線が廃止(2005年3月31日廃止)されてから、間もなく12年が経過しようとしています。廃止当初に一部動きのあった市内線復活も完全に収束し、約10年が経とうとしています。岐阜駅から徒歩約10分の金公園には、岐阜市内線で活躍したモ510形(モ513)が保存されています。
 岐阜市内帰省の折、散策して往年の姿をしのびました。モ510形は1926年(大正15年)に製造された流線形で丸窓のとてもクラシカルな雰囲気の電車でした。岐阜市内から本揖斐・谷汲方面へ直通する急行電車として長く活躍し、岐阜市内線廃止の直前まで見かけた記憶があります。この電車は他に旧美濃駅跡や旧谷汲駅跡にも保存されています。

 電車の保存されている金公園の隣には、歴史ある金神社があります。また、近年寂しくなっていますが往年の繁華街、柳ケ瀬もすぐ近くにあります。また、JR岐阜駅前には2009年に建てられた黄金の織田信長像があります。2017年は、1567年に織田信長が美濃の国に入城し、この地を岐阜と命名してから450年になり、様々な記念事業が予定されています。

 岐阜駅からバス10分の長良川畔には、岐阜城や長良川温泉、そのさらに北には三田洞温泉等もあります。


岐阜市内線・金町にて

岐阜市内線・金町にて 岐阜市内線・徹明町にて 美濃町線・徹明町にて

岐阜市内線・金町にて(4枚とも2004年8月)

岐阜市内線・徹明町 美濃町線徹明町

 レトロな列車旅の第4回は、路面電車の想い出として、私が生まれ育った岐阜市内を走っていた「名古屋鉄道・岐阜市内線」を紹介します。
 
平成17年3月31日をもって岐阜市内を走る路面電車(名鉄岐阜市内線・美濃町線・揖斐線)が廃止されました。利用者の減少に歯止めがかからず、膨大な赤字の状況に陥ったこと、道路が狭く、岐阜駅前を除く市内線の全ての駅で安全地帯がなく、路面への自動車進入が認められているなど、運行設備・旅客サービス上も限界があったこと等、やむを得ない結果とは考えます。しかし、欧州や日本各地で環境にやさしい路面電車が見直されている中、全路線を廃止したことは、単なるノスタルジーからではなく、将来の都市計画・環境施策・観光客誘致戦略の観点からも大変残念な気がします。パークアンドライド施策による渋滞緩和や路面電車を観光資源とした観光客誘致/市内中心部活性化施策等、もう少し何か打つべき手があったのではないかと感じています。

 名鉄の岐阜市内線は、明治44年に開業して以来、路線を延ばし、最盛期には、市内の中心部を走る岐阜市内線(岐阜駅−長良北町・忠節)、鏡島線、高富線、美濃町線、揖斐線・谷汲線と、岐阜市を中心とする岐阜県美濃地方をカバーする路線網を誇っていました。昭和33年に高富線が廃止、昭和39年に鏡島線が廃止されていますが、私の小学生・中学生時代には、岐阜市内線・美濃町線・揖斐線・谷汲線と総延長50kmに及ぶ路線を電車が走っていました。路線の長さだけでなく、走っている電車も大正時代生まれの赤白ツートンカラーの流線型電車や、昭和初期生まれの電車等、レトロで風情ある電車が多く、大変魅力的な路面電車でした。小学生時代に揖斐線沿線にある親戚宅へ遊びに行くとき乗ったチョコレート色の電車の思い出、岐阜市内線と揖斐線の乗り換えターミナル駅、忠節駅の近くにある中学へ、電車の通る道を電車のガタゴト音を聞きながら毎日通学した思い出、夏休みのプール登校時には電車通学が許可され(当時25円でバスより安かった)、電車に乗って通学したこと、忠節駅に新規オープンしたショッピングセンター(既に閉店)で友人と遊んだこと等、路面電車の思い出は尽きません。市内を歩けば路面電車を見かけ、耳にはそのガタゴト走る心地よい音が焼きついています。
 昭和63年に、本線とも言うべき最も古くからの路線、徹明町−柳ヶ瀬−長良北町間、平成11年には美濃町線の新関−美濃間、平成13年には揖斐線の黒野−本揖斐間と谷汲線の黒野−谷汲間が廃止、平成15年には岐阜駅前改良工事のため、岐阜市内線の岐阜駅前−新岐阜間が休止されました。それでも最後まで総延長36.6kmの路線が残っていました。
 昨年の夏、帰省した際、自宅に近い徹明町駅(美濃町線と岐阜市内線が接続)を子供と訪づれ、電車を見たのが最後の思い出になりました。小さな子供は赤い路面電車を見て、「中央線(東京−高尾間の赤い電車)」と声を出して喜んでいました。
 今後は帰省しても市内に路面電車がないのは大変寂しい気がしますが、これまでの活躍に感謝するとともに、いつの日か時代の要請で岐阜市内に路面電車が復活するわずかな可能性を期待してペンを置くことにします。

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