全体のTOPへ
山崎哲
講座案内
新刊案内
既刊案内
執筆リスト
出演リスト
山崎哲プロフィール
プロフィール
年譜
写真館
仕事します
山崎哲プロフィール


自宅近くの手賀沼公園にて

1946年
宮崎県宮崎市に生まれる


名、渡辺康徳
生家は、鏡洲の小河内(こがわうち)
日向ライン(加江田川渓谷)、双石山(ぼろいしやま)が子どものころの遊び場だった
義姉に言わせると暇があれば川釣りに行っていたという
また野球少年で、将来の夢はジャイアンツのエースになることだった
故ジャイアント馬場がジャイアンツの投手だったころ
キャンプ地で尻を追っかけたものだ
ちなみに「山崎哲」(ペンネーム)の「哲」は、川上哲治の「哲」
と、わたしは兄に言ったことがあるらしいのだが、そうだったかなあ
中学生のころから使っていたのでペンネームの由来は自分でも忘れてしまった
小学5年時、県立図書館の読書感想文コンクールに応募
「ロビンソンクルーソー」で1位
中3時、漱石の「坊ちゃん」で2位

鏡洲小学校、同中学校を卒業
宮崎県立大宮高校へ入学


野球部に入るつもりだったが、同級生の田尻に投げ負け
ジャイアンツのエースの夢をあっさりと断念
陸上部、テニス部、バスケット部などを転々としたあと
不良の溜まり場といわれた演劇部へ
それまで「先生の子」としてけっこう「良い子」ばかりやってきたので
「不良」になりたかったのだ
ちなみに同部OBに緑魔子さんがいた
当時、放課後は映画ばかり観ていた



宮崎県大淀川河口 2002年1月

1970年3月
広島大学を中退し、上京
唐十郎の劇団「状況劇場」に入団
演出助手などを務める

入学式当日に、急性盲腸炎で入院、手術
術後の経過が悪く、1ヵ月入院し、この間、母が他界
学部、文学部国語学国文科、卒論「椎名麟三論」
ただし「卒業しない」旨を主任教授に伝え卒論を返却してもらう
1年時から演劇研究会に所属
唐さんにはじめて会ったのは
中国新聞社のロビーで、わたしはまだ学生(5年)だった
テーブルに近づくと、スーツにネクタイをした
坊主頭の若い青年が立ち上がり名刺を差し出した
そこには「劇団状況劇場 唐十郎」とあった
すでに処女本『ジョンシルバー』を読んでいたので
作品と作家のイメージの違いに唖然とした
そのあと広島公演のお手伝いをしたが
みんなで海へ泳ぎに行ったとき、唐さんはわたしに海水パンツを貸し
フリチンで奇声を発しながら泳ぎまわった
それを見てわたしは完全に唐さんにイカレた
入団したいと当時阿佐ヶ谷の小学校の裏手にあった
稽古場兼唐宅を訪れたのは、翌年の3月31日
よど号ハイジャック事件が起きた日
李礼仙(現・麗仙)さんが用意してくれたごはんをご馳走になりながら
テレビ中継に見入っていたが、若き唐十郎はこう言った
「演劇のほうが全然すごいぜ」
そのとき改めて唐さんのすごさを思い知った
根津甚八、十貫寺梅軒らは、ほぼ同期生



広島市 2002年1月

1971年5月
劇団「つんぼさじき」の旗揚げ公演をおこなう


結成は、70年秋
「つんぼさじき」はもともと岡山大学の学生劇団である
広島大学に在学していたころ交流があったので
上京を促し、一緒に旗揚げをした
旗揚げのチラシに福田善之さん、菅孝行さん、佐藤信さんに寄稿してもらった
公演の最中「演劇団」の流山児祥という男がなぜか
「一緒に俳優座に殴りこみに行こう」と誘いに現れた
「反新劇のノロシを掲げた菅孝行が俳優座でやるのは許せない」ということだった
「公演中だし〜菅サンには書いてもらってる手前もあるし〜」
と断ると「そうか」と太い声をのこして帰っていったが
以後、流山児とは長く付き合うことになる
信頼できる数少ない演劇人のひとりだ
渋谷の馬券売り場近くに「天井桟敷」があり
やがてその地下の小劇場を常打ち小屋に
このころ、寺山修司さんにはとてもお世話になった
のちに唐さんに聞いたところによると
「おまえのところにいた山崎の芝居はおもしろい」と
寺山さんは唐さんにわざわざ電話をしてくれたとのこと 感謝
と同時に、もっともっと寺山さんと話しておくのだったと後悔している

1979年
劇団「つんぼさじき」を解散


70年代の半ばから
日本の社会はわたしたちの予想をはるかに超え
高度消費社会へと突入した
マルクスが超資本主義によって超えられたのだ
この年、劇団員で良き友人だった島利之が喉頭がんで他界
それを機に「つんぼさじき」を解散し、流山児祥の「演劇団」にしばらく身を預けた
ちなみに数年後
友人だった金子正次が映画『竜二』を置き土産に、やはり喉頭がんで他界
さらには内田栄一さん、松田優作、寺山修司さんと
近くにいたひとたちが次々に逝った
かれらにとって消費社会は生きがたかったのだと痛切におもう

1980年7月
「転位・21」の旗揚げ公演をおこなう


演劇団を退団した藤井びん、木之内頼仁、田根楽子、式町ちゃこ、栗山みちと
「転位・21」を結成
といっても、一度きりの公演の予定だったが
予想外の評価を得て?結局、なんとなく続けることになった
ちなみに「転位」は、吉本隆明の詩集「転位のための十篇」からの拝借で
「21」はたんに音的な語呂合わせ
演劇の青春時代を終えた私たちの主題は「表現」そのものの問題へと向かった
最初の課題は、扇田昭彦編『劇的ルネサンス』のなかで語ったように
当時、主流だった非等身大の演劇を等身大へと解体することだった
消費社会にあってすでに
日常の空間そのものが非等身大へと変容していたからである

81年秋、中野区中野1丁目、谷戸小学校の前に稽古場をもつ

1982年
「うお傳説」「漂流家族」で
第26回岸田國士戯曲賞を受賞する


受賞作が二作になったのは審査員の意見が二作に分かれたからだ
授賞式はお茶の水の「山の上ホテル」
審査委員長の田中千禾夫さんが
「最近の若い劇作家は瑣末なことばかり描いている」
と暗にわたしの作品を批判なさった
家族の問題は瑣末なことなの? と苦笑いするしかなかった
唐さんがホテルのバーで祝ってくれたのが忘れられない

1987年
「エリアンの手記」「ジロさんの憂鬱」
「まことむすびの事件」で
第21回紀伊國屋演劇賞を受賞する


三作が受賞作とはどういうことなの?
と不思議に思っていたら、紀伊國屋ホールの柳義男さんに
「三作とも受賞対象になったからですよ」と言われた
賞金は例によって、新宿「酒林坊」で、劇団員らと飲んで一夜の藻屑と化した

1994年
水戸芸術館運営委員に就任
「エホバの使者は現れず」を最後

「転位・21」の活動を休止する


10数年も同じ集団をつづけていると、疲労してくる
また東京を「外」から眺めたい気持ちになり、転位を休止し、水戸へ行くことにした
企画会議で「現代戯曲体系」の企画を提案し
それを遂げたのがほとんど唯一の水戸での仕事
一方で、「オウム事件」がわたしの人生のターニングポインになった
積極的にテレビ出演したり、原稿を書いたりした
なぜこんな事件が起きたのか考えること
非国民裁判まがいのことをやっているジャーナリスト、文化人らと徹底して闘うこと
それがわたしの立場だったが
その結果、ほとんど孤立無援の状態に追い込まれた
いやがらせや脅迫電話を受ける日々が続いたが
わたしを支えてくれたのは、無名の視聴者、読者からの励ましの手紙や電話だった
やがてテレビや原稿の仕事を失うことになったが、それにもまして得たものは大きい

1997年秋
同、退任
活動の拠点をふたたび東京に移す


演劇の状況はすっかり変わった
もちろん時代が変わったからだ
長年の友人・岡田潔さんのプロデュース会社
「トム・プロジェクト」での仕事がとりあえず主となった


2000年8月22日
長男「太助」誕生


2001年夏
転位・21の活動を再開

けして残り多いとはいえない演劇活動をもう一度、若い俳優たちとやってみようと
「RU」(代表・村山好文)とともに再開することにした
まだ無名の村山好文や、若い俳優たちのほうが演劇にたいする志をもっているし
ともに新しい試みをやってみることができると確信したからだ
そしてそう決意できたのは
やはり無名だった若い俳優とともに「唐組」をつくってきた
恩師・唐十郎のうしろ姿を見つづけてきたからだ


2002年夏
転位・21を「新転位・21」と改称
新転位・21演劇学校を設立

佐野史郎、安達祐実との「春」
柄本明、大久保鷹との「また、あした。」
そして唐組の「糸女郎」の舞台が新転位・21を
旗揚げすることにした直接的なきっかけである
佐野史郎との稽古には充実感があったし
「糸女郎」は、やはり自分たちの「集団」をもち創造していかなければ
とてもいい舞台は創れないと内省させられたのである


犬吠岬にて

現在
劇作、演出、社会批評、テレビ出演、講演
ワークショップなどの活動をおこなっている

新転位・21代表
新転位・21演劇学校主宰
日本文芸家協会会員
日本演出家協会理事
日本劇作家協会会員
二松学舎大学非常勤講師
国際文化学園講師
茶房ドラマを書く講師
東京経済大学臨時講師
宮崎大学運営諮問会議委員
前芸術振興基金審査委員
ほか

次代や息子の太助にまだ伝えておきたいことがある