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展覧会の紹介

鈴木涼子展
childfood 見えない心の服、私は何枚持っているのだろう?
2005年4月1日−22日
CAI(現代美術研究所 中央区北1西28 地図D)

 すぐれた現代美術の作品ってなんだろう。

 筆者は、見る者に「問い」を投げかけるものだと思う。

 それも、美術業界のなかでしか通用しない、美的なものにとどまる「問い」−それがまったく無意味だというつもりはないけれど−をいうのではなく、わたしたちが生きる現代の社会に横たわる問題を、あらためて認識させるものこそが、良い作品なのではないか。

 現代社会のさまざまな問題については、多様な言論が飛び交っている。

 しかし、現代美術は「答え」を提示するものではないだろう。

 それは、ジャーナリズムの仕事である。

 ことばになる以前の、わだかまり。違和感。
 そうした、ついにことばになりきれない「視覚的な何か」。それをわたしたちの前に提示し、わたしたちを考察の海に投じること。
 それが、現代美術なのだと筆者は思う。

 前置きが長くなったが、鈴木涼子展である。

 昨年は上海ビエンナーレに中国人アーティストと共作したインスタレーションを出品するなど、いま道内でもっとも注目される、1970年生まれのアーティスト。

 今回の「HOME LIGHT SERIES」は、大まかにいって3つの部分からなる。

 メーンの部屋には、彼女が自ら撮影した、シリコン樹脂製の小さな服の写真が並べてはられている。
 今回のために、わざわざカメラ(ハッセルブラッド)を買ったという。

 それらの服の模型は、奥の部屋のオルゴールの中におさめられている。

 数センチの、透明でごく小さなもの。
 オルゴールのふたをあけると、なつかしい音色とともに、それらが収められているのが見えるのだ。

 壁には、おなじ家を、昼と夜に写した写真がならんで展示されている。

 階段の上にある小さな狭い部屋は、照明が落としてあり、床にはいっぱいのおもちゃが散らばっている。

 そこに置かれたビデオモニターからながれる映像は、さきほど見た、おなじ家を、昼と夜に撮影した画像が、交互にくりかえされる。(すべて、孤立して建っている一戸建てで、集合住宅や、となりと近接した家はまったくない。これはこれで、さがすのにけっこう苦労したのではないか)

 なにも考えずに見れば、あかりが漏れる夜の家は、郷愁を誘うものがあり、美しい。
 カーブを描く星々、そして、昼の家の庭に揺れる花や草。

 作者のことば。

テーマはあくまでも中に住んでいる家族です。
夜、家族団らんが始まる時間になると、(ビデオは)そこで無言になってしまう。
昼は子どもの声が聞こえるのに。
これは、日本の家族制度のシグナルなんです。
 筆者の目から見ると、彼女の作品は以前から、男性にきびしいものがあるなあと思う。

 ただし、これは、べつに男をいじめているのではなく、「現代の家族」−父親を頂点とする−の虚構性に疑問を投げかけているのではないか。

 それは「汗」シリーズから一貫した問題意識だろう。
 「汗」シリーズは、いわば視線の権力性を暴露した作品群だった。
 「家」というのは、権力関係がもっともコンパクトなかたちで折りたたまれた場ともいえるからだ。

 とはいえ、現代の日本の「家」は、島崎藤村の同名の小説の冒頭に描写されたような、構成員の上に重たくのしかかる存在ではもはやない。
 かつて頂点に君臨していたはずの家長の姿はそこにはなく、母と子の密着した関係があるばかり(それこそ、「ママドールシリーズ」のテーマだった)。
 権力を持っていたはずの父親は、住宅ローンを返済するために必死で、外で働いているのである。

 無邪気につむがれた子ども時代の記憶のようなもの。
 一見無邪気そうに見えながら残酷なまでに現代の「家」が置かれた状況を表す写真。
 その落差こそが、彼女の作品が、筆者の脳裡を去らせない淵源なのではないかと思う。

 しかし、どんなことばを連ねても、それが作品の本質と一致することは最後までないだろう。
 そのことにきわめて自覚的なのもこの作家の美質であるから。

 
(2005年4月18日記す)
□gaden.comのロングインタビュー
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