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展覧会の紹介
スーパーリアリズム展 | 2004年9月12日−11月7日 道立函館美術館(函館市五稜郭町37の6) 4月4日−5月16日 岩手県立美術館 5月23日−7月4日 いわき市立美術館 7月16日−9月5日 熊本県立美術館 |
いやー、これは見てよかったなあ。展覧会の図録じゃぜったいわかんないことって、あるもんなあ。 筆者が、今回の出品作「ヴァラエティ・フォトプレイズ Valiety Photoplays」(デイヴィス・コーンDavis CONE)の図版を見たのは、およそ20年前。「美術手帖」の誌上だった。 そのとき思ったね。いや、筆者じゃなくても思うだろうな。「これは写真だ!」って。 でも、今回初めて実物を見て、思ったのは 「これはやっぱり絵だ!」 ということ。 背景の煉瓦とか、舗装路面に、筆の跡は明らかだ。 もちろん、今回の出品作にも、写真と見まごう作品がないでもない。 たとえば、ドン・エディ Don EDDY「穏やかな潮 The Hesychia Tide」やR.E.ペナー R.E.PENNER「冬のエース Ace in Winter」などは、絵といわれてもにわかに信じられないほどの迫真のできばえだ。 しかし、他の出品作はほとんど、絵だということが分かるものばかりだ。 スーパーリアリズムという観点でいえば、道内の長内さゆみ、鉢呂彰敏、茶谷雄司、中原宣孝、安田祐造、斉藤博之といった作家の技量は、なんら遜色はない。 リチャード・エステスあたりよりうまいくらいだ。 ただしこの文章は、米国の作家の技術が意外と低いことを論じるのが目的ではない。 この展覧会の英語名は American Photorealismとなっている。 従来の美術史にあてはめれば、ここに出品されている絵は「具象画」ではない。 実際の対象を描いているのではなく、写真を描いているからだ。 写真に写された画像と、人間が見ている画像とは、異なる。 たとえば、人間の視野に、カメラの被写界深度をしぼったときに生じる背景の「ぼけ」などはありえない。 今回の出品作では、ベン・ションツァイト Ben SHONZEIT「紳士服 Men's Clothing」は、モノクロの絵だが、これは人間の見る画像ではありえない(ただし、発想は以前からあった。グリザイユがその例。しかし、このピントの合いかたはまさにフォトリアリズムなのだ)。 また、リチャード・マックリーン Richard McLEAN「サクラメント・グライダー Sacrament Glider」のような、ハイライト部分と影の部分の極端な明暗差も、人間の目よりはカメラの目に近い。 現実をうつすのではなく、写真をうつすことの倒錯性。 わたしたちの認識が、世界に氾濫するイメージに支配されていることのあらわれなのだと思う。 アカデミズムのリアリズムよりも、陰影のエッジがきいたこのようなマックリーンの絵のほうがリアルに思えるのだとしたら、すでにその目が、写真に毒されているのだろう。 たぶん、人間の目と脳には、じっさいの網膜にうつった映像よりも、固有色を強調するようなはたらきがあるのだと思う。 絵が、世界を説明するものであるならば、光があたっているところであろうと、影になっているところであろうと、モティーフはあまり色が変わらないで表現されるだろう(そして、日本の画像−大和絵、浮世絵からアニメにいたるまで−は、かなりその発想にもとづいて着彩されている)。 しかし、絵が、その一瞬一瞬しか表さないのであれば、葉が白くなったり、雪がオレンジ色になったりすることだろう。 その意味では、やはり、印象派の絵画は、写真の登場なしでは、ありえなかった発想ではないかという気はする。 つまり、この展覧会の出品作は、写真の登場後のわたしたちの視覚の変容が、行き着いた果ての結果だといえるだろう。 付言すると、筆者がスーパーリアリズムでわりと好感が持てる点は、「素材の民主制」にある。 いまでも日本で絵の題材となると、花瓶とか雄大な風景とか裸婦とか、ほかにかくものないんかい? と言いたくなることがないでもない。 米国絵画は、なんでも絵になるということを、わたしたちに教えてくれる。 風景画は、なにも小樽運河や釧路湿原だけでなく、何の変哲もない街並みでも成立するのだ。 |
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