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展覧会の紹介

(敬称略) 

札幌の美術2003
19+1の試み展
2003年3月5日(水)〜16日(日)
札幌市民ギャラリー(中央区南2東6)

    (その3)





 
 阿部典英「ネエ ダンナサン あるいは友への手紙」は、おそらく、98年のスカイホール(札幌)における個展以来の大規模な展観となった。  
 
 
 昨春のCAI(札幌)での個展、あるいは昨年末から今年2月にかけて北方圏学術情報センター ポルトギャラリー(同)でくりかえしひらかれたグループ展ですでに発表された立体をなどを総動員してならべ、背後の壁を、市民ギャラリーの吹き抜けの壁面をいっぱいに、巨大な帆布のペインティングが覆い尽くす、壮大なインスタレーションだ。

 スカイホールでのインスタレーションが、阿部の原風景といえる北海道の深い森をイメージさせる硬質のものだったのに対し、近年の彼の作品には、女性のイメージというか、ほのかなエロティシズム、生への讃歌が漂っている。

 バックの巨大なペインティングにしても、真っ赤なハートマークであることはたしかなのだが、どこか女性器を想像させる。もちろん、それは淫猥さに走るのではなくて、おおらかな生=性への肯定を宿しているといえよう。

 ポルトギャラリーではじめて発表され、今回も全体の「締め」として作用している3体の木彫は、アフガン戦争で無辜の民が殺されたことへの抗議という。
 つまり、ひらたくいっちゃえば、大きく言って今作品は
 LOVE&PEACE
ということになりそうだ。
 米国による対イラク戦争がはじまろうとしており、はからずもタイムリーな作品になってしまった。作者がそれを望んだわけではないだろうけど。

 うつむくように立つ女神たちに代わって、悲しみや憎しみではない、おおきな肯定のパワーが世界にひろがればいいのだが(政治の前では抽象的すぎる文言だけど、いまはこれぐらいしか言いようがない)。
 
 
大島潤也「殻」  大島潤也は「殻」と題した、ほぼおなじ大きさの立体を50個あまり、規則正しく壁にならべた。
 筆者の見るかぎりでは、97年ころのギャラリーミヤシタでの個展や99年のスカイホールでの個展でも、おなじスタイルの立体を制作し、壁にならべていたから、作者にとっては、ずっと追い求めているかたちなのだな−と思う。

 で、そのときに作者から聞いた話というのはエントロピーがどうとか、トポロジーがどうとかいうもので、筆者の頭のわるさも手伝ってちっともわからなかったのだが、今回は作品を見て
「ああ、これは、なんというか『生命のかたち』なんだな」
というふうに合点がいった。

 タンポポの種のような、生命の原形質をランダムに回転させて、ある一瞬をうつしとる。−そうすると、こういう形状が見えるのではないか。
 それは、むろん、現実に生成する形ではなく、観念としての生命のみなもとのようなもの、ということである。

 いま「ランダム」と書いたけれども、それは作者がラフな姿勢でこの形状をつくりだしているということを意味しない。
 作者によると、エスキスは相当入念につくるそうである。実際にできた立体は重厚なものだが、じつは発泡スチロール製でかなりかるいということだった。

 
 
 昨年の「札幌美術展」の評で
「工芸と写真がいなくてもいいのか」
という意味のことを書いた。
 そのせいではたぶんないとおもうが、工芸分野からひとり、石狩市の佐々木けいしがエントリーした。
 今回の佐々木のインスタレーション「暈(うん)」は、金工の延長線上にあるのだろう。おなじパタンを反復するところには、工芸的な発想があるのでは−という見方はうがちすぎだろうか。
 筆者が興味深かったのは、作品に人が近づくと、センサーが感知して天井のライトが自動的に点灯することだった。遠くからだとおなじように見える作品の表と裏が照明の効果も手伝って、微妙に表情を変えてみせる。いいかえれば、つぎの瞬間に、けっしておなじ姿を見せない作品だとはいえないだろうか。
 
 川上りえ(石狩)は、2000−01年に芸術の森美術館(札幌)で企画されたグループ展「北の創造者たち」、昨年、札幌彫刻美術館での「北の彫刻展」に出品するかたわら、ポーランドや米国でも作品を発表するなど、いまもっとも精力的に活躍している彫刻家のひとりである。

 今回の作品「Balance of order and disorder」は、白く塗った鋼材を組み立てた立体を2点、壁に寄り添うように配置した(2点を同じに写真におさめるのはむつかしい。もう1点のすこし小さなほうが背後の壁寄りに設置してあるのだが、とりあえず、実物をみてください)。
 存在感ある筐体を限定された空間に持ち込み、空間全体を変容、はては崩壊させてしまうかのような作品世界は、あいかわらず見事というしかない。
川上りえ「Balance of order and disorder」


 16日におこなわれたワークショップのもようについては、次のページを参照してください
 
 SPARKというアート集団については、まったくの初耳だった。
 選定委員の柴田尚は、アーティスト・イン・レジデンス事務局長をつとめており、事務局とおなじ建物(ICC=インタークロス・クリエイティブ・センター)に入居していたことから白羽の矢が立ったのだろう。
 これまでのように、公募展や、貸しギャラリーでの個展・グループ展とはちがったかたちのデビューもあるのだということを、再認識させられた。

 SPARKの作品「Sense―五感を超えて」は、インタラクティブアートである。
 鑑賞者の反応次第で変容するこの「双方向アート」は、たしかに道内ではほとんど初めて発表されるものだろうが、東京・オペラシティのICC(こちらはインター・コミュニケーション・センター)あたりに行けばふつうに見られるもので、もはや「インタラクティブ」であること自体にはたいして目新しさなどない。
 「Sense」の評価すべきなのは、しゃれじゃないけど、まさにそのセンスのよさであって、等間隔に壁に投影された白い丸のイメージが、音に応じて大きくなったりちぢんだりするというシンプルさが良いのだ。
 
 後藤和子の発表もひさしぶりだ。
 札幌の前衛絵画運動を長くひっぱってきた存在として、昨年この「札幌の美術」にえらばれた杉山留美子と並び称される存在だったが、札幌ではたしか98年か99年、ギャラリーどらーるでの企画展が最後だったと記憶している。

 今回の「BLUE STREAMS 0301」「BJUE STREAMS 0302」は、長いブランクを感じさせない、和紙に青のアクリル絵の具をほとばしらせた大作だった。

 で、この間、なにをしていたのか作者に尋ねると、なんとフラッシュで動画を制作していたというのだ。
 うーん、それを今回見たかったですよ、後藤さん。
後藤和子「BLUE STREAMS」
 
 谷口顕一郎「凹み」シリーズは、これまでとおなじ方法論のもとに制作されている。
 会場でくばっているチラシには、大きさが「400×900センチ(壁面全体)」とあるが、実際の作品はほんとうに小さい。
 これについては、昨年2月の論文発表会の際にくわしく書いているほか、「てんぴょう」にも評を掲載したので、ここでははぶく。
 
 長い「札幌美術展」の歴史−選定スタイルが今回のようになる前もふくめて−で、おそらく初めて写真家がえらばれた。

 露口啓二は、やはり90年代末からとりくんでいる「地名」シリーズを8点発表した。
 これは、アイヌ語起源の地名がついているところを、その地名の由来とおぼしき物を入れて撮影し、その後ふたたび時を置いておなじ場所に出かけて撮影してくる−という方法で制作されたもので、若干の時をへだてた2枚の写真がパノラマのようにならんでいる。
 ただし、いつもの露口作品と同様にネガカラーであり、また、2回の撮影時の天候なども異なるため、左右の色が異なることが多い。

 ちなみに、その8点とは、
祝津(シュクツ)
計根別(ケネベツ)
濃昼(ゴキビル)
久保内
声問(コエトイ)
発足(ハッタリ)
社台
春立
である。

 8点とも、いわゆる風景写真ではないため、北海道の「今」が、ぶっきらぼうに切り取られている。
 そして、社台にせよ、春立にせよ、無造作に自然が改造されているさまを見て、それが柴田敏雄のようにそういう箇所をねらって撮ったのではないだけに、よけいにショックを受けてしまう。
 「うつくしい景観」「貴重な景観」については、ようやく保護すべきものだという認識がたかまってきたけれど、それほどでもない土地についてはほっておくとどんどん醜くなる一方のようだ。
 わたしたちは、その地名の生まれたときの姿を、もう正確に認識できなくなっているのである。
 
 
 高幹雄については、筆者が見たときには、540×450センチという大作「赤の自画像」が、まだ下塗りの段階だったため、論評は後回しにしたい。     ただ、正直なところ、彼のペインティングは、どうやって評価したらよいのか、筆者にはわからない。
 彼もふくめ、最新号の「美術手帖」に載っているようなペインティングについては、筆者はよくわからんというのが正直なところだ。
 書の5人については、とりあえず、佐藤庫之介・選定委員が
「この人は●●会の親分だから入れておこう」
的な情実を排して選び方をしていることについて敬意を表したい。
 いや、他の5人がそういう選び方をしているというのでは毛頭なく、書の場合は事実上ひとりでえらぶことになっている上、現代美術よりも序列のうるさい世界とみられているだけに、選考作業はけっこうたいへんだろうとおもわれるからである。
 筆者は、くわしいことはわからないけれど、吉田敏子が近年「墨人」の展覧会でもっとも安定した力量を発揮していることはたしかだとおもうし、竹下青蘭が「前衛書」の分野において道内に並ぶもののない実力者でありながらも「北海道書道展」にいまだ「前衛」の部門がないことも手伝ってか孤軍奮戦していることも、また、大川壽美子が「ポスト松本・竹内」世代では「かな」でばりばり活躍しているひとりであることもたしかだろうとおもうのである。すくなくとも、たとえば墨象の分野では吉田よりも「定評」の面ではもうしぶんのない書家はいくらでもいるはずで、思い切ったなあと感心してしまう。
 不覚にして筆者は遠藤香峰(石狩)のことは知らなかったが、今回の超大作は、ただ大きいだけではけっしてなく、筆をにぎる作者の息遣いが荒々しいまでに、見るものに伝わってくる力作である上、「無辜の像」「生死一つ」という語が、となりの阿部典英作品と、はからずもつよいハーモニーをつくりあげていたことは特筆していい。
 また、須田廣充(江別)「心月弧○」などは、その空白の使い方において絶品だとおもうし、「傀儡」は斜めに張った新聞紙を支持体にして動感を出している。
 昨年に比べ、5人とも、「書壇以外の人にどう見られるか」を多少なりとも意識した作品になっているようにおもえたのも、好感を持った。
 なお、今回選ばれた顔ぶれは、昨年とまったく重複していない。この傾向が来年もつづくかどうかも、注目されるところだ。  

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