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展覧会の紹介
森山大道 1965−2003 光の狩人 |
2003年4月26日−6月15日 道立釧路芸術館(釧路市幸町) 3月1日−4月6日 島根県立美術館 9月13日−11月3日 川崎市市民ミュージアム |
(文中敬称略) | |
1.代表作の謎 森山大道の代表作、といえば、1971年に青森県三沢市で撮られた「犬の町」だということに異論はないであろう。 今回の展覧会の図録の表紙をかざっていたし、会場でも、大きな額におさまっていて、まるでルーブル美術館における「モナリザ」のようなあつかいであったし、この犬をあしらった大きな垂れ幕がふきぬけのロビーの天井から下がっている。 写真そのものの出来にくわえ、獲物を求めて街角をうろつきまわる犬の姿や、するどい視線が、カメラマン森山の姿にかさなって見えるのも、これを代表作としたのだろうと思う。 ところで、この「犬の町」が、会場内にもうひとつあったことにお気づきだっただろうか。 自室とおぼしき空間をおびただしいポラロイド写真で再現した1997年の「ポラロイド・ポラロイド」のなかに、さりげなく写っていたのだ。たぶん、ちいさめのプリントが、壁に貼ってあったのだろう。 ところが、この犬、さっき会場内で見た「犬の町」と、左右が逆なのだ。頭が右側になっている。 気になったので、家に帰ってから、岩波書店の「日本の写真家 37 森山大道」を見た。 表紙の野良犬は、やっぱり頭が右をむいている。 ちなみに、エッセー「犬の記憶 終章」(朝日新聞社)の写真は、釧路で見たのとおなじく、頭が左むきであり、飯沢耕太郎著「写真とことば」(集英社新書)に載っているのは、右むきである。 おなじネガのようだから、どちらかが裏焼きなのだろう。 言うまでもないことだが、フィルムは半透明なので、裏表を逆にして引きのばし器にセットすれば、左右がさかさまになって焼き付けられる。 それにしても、代表作に裏焼きのバージョンがあってそれがビンテージプリントとして流通しているというのは、作者が、プリントを芸術的に仕上げるという、ふつうの写真家なら大いに気にするであろうことに無頓着であることを物語っているのではないだろうか。たぶん、作者にとっては、どうでもいいことなのである。 2.「作品のように世界がまとまったかたちで見える」ことへの拒否 この写真展を見た前後に、彼の対談やインタビューをあつめた「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」(青弓社)を読んだが、無類におもしろい本だった。 とりわけ、中平卓馬との対談は、森山の写真にたいする考えかたがよくわかって、非常に興味深い。 極端にいえば、ぼくの眼の前にあるタバコやマッチ、それからテレビ、映画の画面、人の撮った写真、ぼくの写真、それらをすべて等質に考えている。みんなぼくにとっては同じ現実ということですね。 いっそのこと何から何までぼくの眼に入るものは全部写真にしてやれという気になった。そのような意味ではぼくにとっては世界は一つしかない。あるいは世界が在ってぼくが在る、そしてその関係こそ写真だ。 生の現実だろうとあるいは印刷され映像となった現実だろうと、その境界すらぼくにとっては不必要だった。ただし、けっして誤解してはいけないのは、彼が無作為かつ無意識に切り取ったイメージをそのまま印刷にまわしているわけではないことだ。彼は、彼なりの美意識にもとづいてフレーミングと焼き付けをおこなっているのである。 「美意識」ということばは、あまり適切でないかもしれない。彼は「ブレ、アレ」といわれる技法を、意匠として採用しているわけではないからである。むしろ、「やりきれない生そのものの不安」(同書52ページ)「じつにディグニティ喪失というよりほかない人間関係や社会のシカケすべてアタマにくる」(同53ページ)からシャッターを押した結果として必然的に選び取られた技法だとしかいいようがない。 そもそも、この混沌とした現代にレンズを向けて、そうそうクリアな画面が得られるはずがないんじゃないだろうか。 だからといって、でたらめに撮っているわけではない。 彼のもっともあたらしい写真集「新宿」を撮影するようすなどをとらえたドキュメンタリービデオが、会場の一角でながれていたけれど、そのなかで彼は、舗道の石かなにかの上にすっと、なにげなく上ってカメラをかまえていた。 高いところに上るというのは、風景などを撮る際にあたってのいろはのイである。 いくら意識の上では排除しようとしても、経験の積み重ねや、どうしてもそぎおとせない性質みたいなものが、シャッターを押す瞬間や、暗室内での作業のうちに、おのずとにじみ出てくるのだろう。 だいたいこの世のことは、考えても仕方のないことか、考えるまでもないことのどちらかだ。〔中略〕それでも昔は、若気のなんとやらで、暗い目をして、写真とは?オレとは?オレと写真とは?なーんてふうだったが、いま思えば、頭から灰をかぶって寝てしまいたいというか、穴があったら木に登りたいというか、恥ずかしい。そんな、目の前に真理のぶら下がっているようなことを考えているヒマに、もっと撮ってりゃよかったのだ。だいいち、真理とか真実なんてあるわけもなく、あるのはド現実だけで、もうこれだけで手いっぱいだ。(同362ページ)3.その他 どうでもいい話だけど、彼は1999年、道立釧路芸術館でおこなわれた所蔵作品展にあわせ釧路を訪れ、講演をおこなっている。 その際、筆者はインタビューをして、北海道新聞に掲載したのだが、それは図録の巻末の「参考文献」に載っていない。 そのかわり、講演のかんたんな筆記録をまとめた「Photon」は、載っているのである。 何十万部という新聞に大きく出た記事が載らなくて、ミニコミのちいさな記事が載っているというのは、なんともおもしろい。 筆者は、掲載紙は森山さんに送ったはずだけどなあ。まあいいか。 写真展は、とくに「プロヴォーク」以前の、あまり見ることのない初期作品の展示が充実していた。 サンフランシスコなどを巡回していた展覧会を、もう一度仕切りなおして構成した回顧展ということだが、この写真家の全貌を知る非常によい機会だった。 十代半ばにかいたという絵も3、4点あった。うまい。さすがに毎月「美術手帖」を読むのをたのしみにしていたというだけあって、絵に熱中していたらしく、かなりの腕である。題材は、街景と女であって、すでに後年の写真家の萌芽がみられる。 |
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