展覧会の紹介

     小林伸一郎写真展 2002年6月19日(水)〜7月1日(月)
コニカプラザサッポロ(中央区北2東4、サッポロファクトリー・レンガ館3階)

 シダが繁茂するれんが造りの工場。
 頭部をもがれて転がっているマネキン。
 古いゲームコーナー。
 シャワーカランらしき蛇口のついた鏡タイルが捨てられている、ヒルガオの咲く廃園。
 隅に枯葉が吹き溜まり、割れたビール瓶が卓上に載ったままの場末の飲食店。
 土留めと数段の階段のみ残し、建物がなくなってしまった邸宅の跡。
 台も什器もいっさいなく、吹きさらしになっているパチンコ屋…。

 さまざまな廃墟が、カラーでとらえられています。ハッセルブラッドを使っているのでしょうか、画面はすべて正方形。廃墟だからといって暗さはみじんもなく、むしろ、60年代米国で「ニューカラー」と称されたウィリアム・エグルストンなどの写真とも通底する「空虚な明るさ」とでもいうべき露出が、効果的です(そこらへんが、鉄道の廃線跡などを明暗のはっきりしたモノクロームで撮影している丸田祥三、おもに炭鉱関連の施設をいくらか叙情的な視線でとらえる風間健介らとのきわだった違いでしょう)。光沢のない印画紙で、色調もどぎつくありません。そういえば、エグルストンもよく、米国西部に打ち捨てられた自動車やゴーストタウンのような風景をよく撮っていました。

 49点、すべておなじ大きさで並んでいます。遠くからとらえた風景の間にときおり、接近して写した廃物の写真がまじっているのも、展示の妙です。
 クレジットはいっさいなし。でも、巨大なエビとサケの模型が付いた廃屋は、手前に釧路ナンバーの古い車が止まっていて、どう見ても道内で撮影されたもの。サケは、尾の部分がこわれています。
 ほかにも、コンクリートの円柱だけが残った高架線の跡は、国鉄松前線。錆びた自転車は三笠。ミントグリーンの螺旋階段が印象的な建物は、美唄の小学校の跡とのことで、写真集と付き合わせればまだまだありそうです。

 それにしても、小林のとらえる廃墟は、なぜ魅力的なのでしょう。
 当初、彼は、じぶんの写真は50代以上の人にうけいれられるとかんがえていたそうです。
 しかし、彼の写真には、高年齢層にうったえる懐旧の要素はほとんどかんじられません。
 たしかに廃線跡などが被写体になっています。ですが、ほとんどは、文化財のように古いものというよりは、ほんの少し前の高度成長期から、さらにその後の時代のものというかんじがありありなのです。
 幾星霜をへてきた建造物が、惜しまれつつ時代の波とともに退場していくさまをとらえているのではありません。膨大なモノと、それにともなう廃棄物を生産してきた戦後日本の使い捨て社会の一断面が現れているともいえるでしょう。もちろん、そういうジャーナリスティックな言説の範囲内には回収できる写真ではけっしてありませんが。

 つまり、ここにあるのは、現代の廃墟なのです。
 筆者には、これらの廃墟を眺めるということのうちに、ある種のオタク的な快楽があるのではないかという気がしました。
 オタクには、収集型と破滅願望型の2種類があると喝破したのは、竹熊健太郎です(「私とハルマゲドン」ちくま文庫)。
 昔からマンガやアニメの世界では、人類絶滅の物語が繰り返されてきました。
 「火の鳥 未来編」「宇宙戦艦ヤマト」「北斗の拳」「AKIRA」……
 「新世紀エヴァンゲリオン」や「風の谷のナウシカ」でも、過去にあった破局が重要な要素になっています。
 それらすべてに共通するのは、破滅の渕でも主人公が生きのこっているということです。あたりまえですね、主人公が死んでしまってはふつう物語は終わってしまいます。
 ただ、マンガを読んだりアニメを見たりするオタクにとっては、感情移入できる主人公が、人類の多くが死に絶えた世界でなお活躍しているということが、一種の優越感、エリート意識をくすぐり、勇気をあたえることなのではないでしょうか。それは、現実の社会でむくわれないオタクの劣等感(あるいは、いい年をして子どもっぽいものに熱中しているうしろめたさ)の裏返しであることはいうまでもありません。
 人がいなくなった世界。でも自分だけは生きている。廃墟の写真を見ていると、むかしアニメを見たときの感覚がよみがえってくるのです。

 

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