展覧会の紹介

赤穴 宏展 魂へのまなざし 道立釧路芸術館(釧路市幸町4)
2002年9月28日−11月24日
 1922年(大正11年)根室生まれで、6歳で東京に移り住んだ洋画家・赤穴(あかな)宏の回顧展。
 画家の精神の軌跡がうかがえる、感動的な展覧会だった。
 まず、おどろいたのは、2番目に陳列されている「三人の女」(47年)で、すでにかなりの完成度の高さを見せていることだ。
 三人の女性が、厚みと奥行きを持った立体としてしっかり把握されている。
 洋画を習いたての日本人はともすれば、さまざまな色を散らして、物と物の境界を輪郭線でごまかす平面的な絵を描いてしまう。しかし、この絵の輪郭は、対象のフォルムをきわだたせるというより、立体の厚みを補強するような意味合いで付けられているようだ。
 いわば、彫刻家的な空間の把握ともいえ、猪熊玄一郎に絵を習い始めてまだ2年目とは思えない。
 赤穴宏の空間のとらえかたが彫刻的であることは、51年の「彫刻のある風景」でもうかがえる。街景のなかに、巨大な胸像や、石膏の円筒が転がっている、きみょうな風景画だ。
 この時期、つまり戦争直後の赤穴は、「白い家」(49年)、「岐路」(同)、「大森駅」(50年)など、人気のすくない、東京の風景を、写生的な画法で多く描いている。わずかに赤系の色をちりばめてはいるが、ほぼモノクロームの、一種の心象風景ともいえる作品群である。塗りはフラットで、ごく薄い。
 まるで、戦災などなかったかのような静けさが、胸を打つ。
 一見、戦前から戦中にかけての、松本竣介の横浜の風景を思わせる。
 
 50年代に入ると、急速に構成的な画風に傾斜してゆき、50年代末には、完全に抽象に移行する。
 この時期、わが国の美術界を席捲した「アンフォルメル旋風」の影響は否定できないだろう。日本の画家で、抽象に手を染めなかった者はないといわれたほどの、たいへんなブームだったからだ。

 空間や形の把握に天才的な才能を発揮する一方で、カラリストとしての展開は遅れたようだ(まあ、べつに遅れてもいいんだけど)。 
 56年の「喧騒な集会」では、ようやく有彩色の帯がたくさん画面に躍っているものの、まだそれほどの効果を挙げていないように思われる。
 59年の「ひろがる街」になると、赤や青の矩形がいくつも折り重なり、前進色と後退色の効果が目いっぱい使われていておもしろい。

 もっとも、60年代前半の抽象画は、色調が抑制されており、有彩色が画面に多く登場するのは、65年以降のことになる。
 60年代前半の「洪積」「白亜」(60年)「鴻」「作品(岳)」(61年)などの大作は、赤穴の画業のなかで、ひとつのピークをかたちづくっているのではないか。
 そう思えるほどに、画面には緊張感がみなぎっている。
 ごく少ない色数で、フォルムもさだかでないのに、これほどまでに緊密な空間を生み出しえているのは、すごいとしか言いようがない。

 強いて言えば、晩年のマーク・ロスコとの共通性が感じられなくもない。
 ただ「鴻」などは、ロスコにくらべても、フォルムは不分明だ。
 昏い空間にぼうっと浮かび上がる、わずかに右上がりの白い色の帯。下側は、はっきりとその姿を見せている白の帯も、上に行くにしたがって色を薄れさせていき、黒の中に消えてゆく。夕方、薄明の終わる直前に現れる雲のような。

 あるいは「作品(黒)」(61年)。
 明度の微妙にことなる灰色の矩形(平行四辺形に近い)が上下に積み重なり、その間に黒い色の帯が走る。それぞれ、矩形と地の区別も不明瞭だ。

 「作品(B)」(62年)
 灰色ともベージュともつかぬ巨大な矩形の中に浸入するように入る白と黒の塊。まるで、洪水のイメージフィルムを無声にして目撃しているかのような、不思議な既視感。白い絵の具の層の下に透けて見える多彩な色。
 いま、筆者は、連想される自然のモティーフを述べたが、それらはあくまで、強いて近接するイメージを挙げたまでで、この時期の抽象画は、まったくのノンフィギュラティブで、自然に実在するイメージとはなにひとつ似ていないといったほうが正確だ。
 これらの絵から受ける感動を、図録の図版で再現するのはかなりむつかしい。絵の前に立ち尽くして、包み込まれるような感覚を実地に味わうしかないように思われる。
 63年から64年にかけては、ふたつの円と矩形を組み合わせたかたちが出てくる。
 先に挙げた一連の作品にくらべると、形は地から独立しているが、これがなにを意味しているかというのはむつかしい。人間に見えなくもないが…。
 次いで、60年代後半から、複数のパネルを組み合わせた「組絵画」の実験に向かっていくとのことだが、この時期の作品は、資料がのこっているだけで、今回の展覧会には出品されていないのは前年である。

 図録巻末の年譜によれば、55年に新制作協会賞を受賞して、翌56年には会員に推挙。また同年には全道展の会員にも推挙されている。60年代にかけては、毎年のように「選抜秀作美術展」などの大型展に出品する一方、海外の国際美術展にも出品。さらに、61年には難波田龍起や小野州一、八木保次ら、道内在住・ゆかりの画家たちと「北象会」を結成して展覧会を開くなど、活発に発表をつづけている。
 さて、赤穴は72年を境に、写実的な具象画の世界に復帰する。
 このいきさつについては、図録に書いてあるし、筆者が直接画家に聞いたわけでもないので、ここではくりかえさない。
 70年代末からは、東京の風景に取り組み、90年前後からは前景に壷を配して、背景に抽象的な模様やさまざまなモティーフを組み合わせた画風に転換している。

 これらの転換は画家本人の内発的な変化に基づくものであることは確かだろうが、期せずして、戦後日本社会の転換と軌を一にしているように見えるのは興味深い。
 すなわち、
戦争の終結とともに絵筆を執りはじめ、
講和条約のあたりから高度成長の時代には抽象画にとりくみ、
学生叛乱が盛んになって美術界にもさまざまな前衛的手法が見られたころには「組絵画」を制作し
戦後最大の転換点であった、高度成長終焉の73年ころに、具象画に転じる
といった具合である。
 あるいは、「組絵画」から、絵画の世界を離れて「現代美術」のほうへ行ってしまう可能性すらあったわけだが、コンセプチュアルアートの理屈っぽさにはついていけなかったようだ。

 東京の風景は、さすがに苦闘しているような印象を受けた。
 ご本人がいかに否定しようともやはりこの大都会は、端的に言って「絵にならない」のである。
 遠景から都市をとらえたり、ビル群を抽象的に処理したり、さまざまなアプローチをこころみているが、赤穴らしい絵になっているのは「荒川車庫」や「万世橋附近」など古いモティーフに取り組んだときである。
 21世紀に入ってからの「むらさきいろの時間」(2001年)になると、60年代半ばに登場していた二つの丸と矩形のモティーフが復活する。また、壷の白い画肌は、戦争直後の都市風景に出てきた白い建物にも通じるものがあるように思える。
 言いかえれば、近作は、これまでの画業の総決算とでもいうべき性格を持っているようなのだ。抽象と具象の自由な組み合わせという点もふくめ、あらたなピークをつくっているようで、展覧会の最後にこのような絵に向かい合えたのは、感動的だった。



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