航空基地へのロジスティックス(補給路)としてジェット燃料輸送は欠かせないものです。 終戦後、アメリカ軍厚木飛行場への航空燃料輸送は相模鉄道(相鉄線)が行っていて、 相模大塚駅から専用線が分岐していました。 一方、青梅線拝島駅のヤードから分岐して横田基地へと続く引込線があり、米軍の燃料輸送を 担っています。こちらは廃線でも休止線でもなく今なお現役です。 |
(2006年3月記) |
【横田基地】 横田基地は東京首都圏の西側に位置する米空軍基地の一つです。最近、民間航空機が乗り入れる 「軍民共用化」に向けて話題になっています。 横田基地は1940年(昭和15年)に旧日本陸軍により開設され、当時多摩飛行場と 呼ばれていました。第2次世界大戦中は日本における主たる航空機試験場でした。 1945年(昭和20年)9月、終戦直後に同飛行場は米軍に占領されました。このとき 当時の飛行場の東にあった小さな村の名前にちなんで“横田”という名称が付けられたのです。 現在、沖縄県の嘉手納基地、青森県の三沢基地とならんで日本における米軍の飛行場(第374空輸航空団) として機能しています。 航空用燃料の輸送はJR貨物によって行われており、主として鶴見貯油施設近くの安善駅から、 南武線、青梅線を経由して拝島駅へと運ばれ、さらに機関車を変えて引込線により基地内のタンクまで運ばれています。 |
JR拝島駅の改札出口は西武線側にもあるのですが、ここはあえてJR側に出ます。 理由は駅校内の貨物ヤード(のようなところ)にある長い長い踏切を渡るためです。 踏切りの中に倉庫エリアがありますがその青梅線側を「倉庫前踏切」といいます。 倉庫といっても工事用車両が留置されているだけです。そして八高線と西武線をわたる側が「八高倉庫裏踏切」 になりこの画像のように長いのです。(手前が単線の西武線、通過中の電車は八高線、そして奥が倉庫エリアです) |
この2つの踏切りの間ではかつての貨物ヤードの風景を彷彿とさせる雰囲気があります。 (古い話ですが“夜のバラード”に流れるバックの効果音で、機関車の短い汽笛と貨車のぶつかり合う音で 操車場の雰囲気が出ていたのを思い出します) (拝島の長い踏切りについては雑ネタコーナーで・・・) |
これは西武線側の踏切りの近くに建てられた古い看板です。不明瞭でよく読めないのですが 「WARNING」、「アメリカ合衆国空軍施設」と書かれています。 |
南武線から青梅線を上がってきた貨物列車は一旦ヤードに入って、電気機関車からディーゼル機関車に代え、 この位置で分岐して西武線をクロス(平面交差)したあと、基地方向へと進んでいきます。 (地図などによれば一見西武線から分岐しているように見えるのですが、 そのようなことはなくJRとして西武線をまたいでいます。) |
分岐してからは比較的良い状態で路線は続くのですが、いたるところに警告看板があります。 ほとんど使われていない線路なのですがたまに歩く人もいるようです。何かすっきりしていると思ったら 架線がないからでした。 |
駅前の横田1号踏切りから始まり、玉川上水をガーター橋で渡って(右の画像)2号、3号、4号、踏切り と続きます。すべて遮断機と警報機がついていて、最後に交通量の多い砂川街道踏切りになります。 交通量の多い砂川街道ですが、当然のことながら通行車両は一時停止していました。(踏切りはこの後 ボーリング場そばの6号(警報のみ)、そして基地内の7号となります) |
拝島駅分岐から約600mで、自動車教習場とボーリング場の建物の間を通って基地のフェンスに 突き当たります。 余談ですが、多摩飛行場ができる前に陸軍航空廠の熊川燃料倉庫という施設があって、 そこへの燃料輸送専用線があったそうです。その一部を分岐して今の引込線となり、元の熊川倉庫専用線は廃止後、 消滅しました。自動車教習場に向って行く道路にわずかにその痕跡 (画像の中の赤い点線)を見ることができます。 |
金網の向うはすっかりアメリカ的な光景でした。 |
目を凝らして線路の先をよく見るとたくさんのタンク車が並んでいました。ひょっとして、 これがタキでしょうか? 素人なのでよくわかりませんが。 |
引込線近くの自転車置き場のおじさんに尋ねるとたまに走っているということです。 いろいろ調べてみると日に2往復のダイヤが設定されているものの、不定期運行でめったに走らないようでした。 何回か通ったある日、やっと撮れたのがこの画像です。横田基地から空のタンク車を引いて拝島駅に帰ってきました。 |
【1945年8月、日本は戦争に負け無条件に降伏した。連合軍は米軍を中心に
日本の占領を進めていった。戦時中、鬼畜米英と教えられ、その言葉さえ使うことを禁じられた日本人にとって、
アメリカ人は何をするか分からない存在だった。「男は強制労働に処され、若い女は強姦される」など、
様々なデマが飛んだ。1945年9月のことである。その恐るべき鬼畜米英が福生にもやって来た。
人々は家の戸を固く閉ざして彼らの様子を伺った。一億総飢餓と呼ばれ、食べるものはもちろん、職も、
希望も無い、戦時中より恐ろしかったとされる一時期である。 (途中省略) 結果的にはそのようなことはなく、実際にアメリカ兵に接してみると意外に明るく、 仕事中も案外のんびりしている。休み時間はきちんと休ませるし、過酷な労働もほとんど無かった。 これはまったく予想外のことだった。この事はそれまで戦時中に教え込まれた「鬼畜米英」などの アメリカ観を根底から覆し、逆にアメリカ兵に対し好意を持つようになっていった。】 (以上、横田基地の公式ホームページより抜粋) そこで子供のころ母から聴いた話を思い出しました。 自宅は米駐留海軍基地近くにありました。大人たちはアメリカの兵隊がやってきて道路に人々を並べ、 ローラーのような車でみんな轢かれてしまうのだと恐れていたといいます。 どんな光景かと想像しながら聞いていました。他にも母と食卓を囲んでいると遠くを見るような目で 次から次へと空襲を受けたときの様子や、終戦直後に基地の米兵が家の周りをうろうろしていた様子を話していました。 そういった怖い話の一方、実際には、白い粉を振りまくジープが何度かやってきたのを覚えています。 あれはDDTというものだったようであまりに衛生状態が悪いので処理してくれたものと思います。 ハエ、カ、ノミ、シラミは子供たちのヒビ、アカギレ、ハナミズ同様日常だったのですから。 航空燃料輸送はひところのように頻繁に見ることがなくなったように思います。 少し平和になっているのでしょうか。それとも鉄道からタンクローリー車に切り替わっているのでしょうか。 南武線の石灰石輸送は廃止されましたし、長い長い編成の貨物列車を見る機会も少なくなりました。 いつか一度、貨物線の近くに一日中座り込んで見てみたいと思います。 (その成果はこちら です) |
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