遥 くららさん<元宝塚歌劇団トップ娘役>

遥 くららさんと出あったのは、彼女が宝塚歌劇団星組の時で柴田郁宏脚本演出の「誰が為に鐘は鳴る」の
稽古場だった。
鳳蘭相手役でレジスタンの娘役を演じるので、頭を坊主刈りにするという。
それは面白いと、当時、毎日放送の夕方のワイドニュースのMBSニュースで放送しようと取材に出かけた。

稽古場近くの美容院で髪をカットしたが結果は坊主ではなく刈り上げたという感じのものになった。
当時はテレビもフィルムからENGという電子カメラ?に変わったばかりで、新しい機会好きのカメラマンの
田中慶太郎が特に熱を入れて、鳳とのラブシーンを撮影、傍らのモニターで見ていると,遥くららが
鳳との絡みで顔がエキサイトして紅潮していくのがわかった。

記憶では6箇所あるラブシーンの内2つの場面が宝塚コードにかかり?本番ではなくなった。

雪組に組換えした遥くらら、稽古場に行くときはいつも差し入れにケーキを持参した。
あるとき稽古場にいた順みつきが、クララ<愛称モック>に持参してきてケーキを見て、どうしたの
ケーキ落ちてたの?と一言、順みつき<愛称ミッキー>に落ちてたケーキ欲しい?と聞くと
欲しいと大笑いした。

モックはTBSの朝ドラマに出ていた事があり、その後宝塚歌劇にもどったが観客は、あれっ?あの人
テレビの人ではないのという、呟きを劇場のロビーでよく耳にした。

あるとき、取材でモックを稽古場に尋ねると稽古こがなかなか終わらない。
困ったと思い演出の柴田さんに言うと、1時間ばかり時間をくれた。
そこでモックを連れて宝塚大橋の上で撮影、モックも稽古場から出れて外の空気が吸えると
大喜びだった。

宝塚を退団、すぐに毎日放送で大阪城ホールで一万人の第九コンサートを開く事に、ゲストに
モックをということになり、出演してもらった。

その後、片岡孝夫さんと南座でハムレットのオフェーリアをはじめたくさんの出演を舞台を、近鉄劇場で
平岡企画と毎日放送がともに主催した舞台にも出演、その頃北新地に出来たての、しゃぶしゃぶの店で
取材のスタッフと度々テーブルを囲んだ。
舞台のスタッフにもカメラマンにも新聞記者にも好感を持たれるモックだった。

神社庁がミュージカルを作りたいと言い出して、浅利慶太のところに相談に行ったらしい。
そこで浅利慶太は、それをするに最適な人がいると、小生を相談に行った岩清水八幡宮の田中宮司
生田神社の加藤宮司に私の名前を告げた。

そんな縁で杉山義法さんに脚本をお願い、スサノオをすることに、早速これは最適とモックに出演を
お願いに、神社関係者も大喜び。勿論モックも大喜び、がモックの個人的理由でご破算になった。
これが実現していればと、最高に残念だった。思い返せば16年ぐらい昔の話だ。

ただモックよほど申し訳ないと思ったのか、肉好きの私に極上のしゃぶしゃぶをご馳走して、神社の方に
謝ってねと一言、言いたい言葉もしゃぶしゃぶの肉と共にお腹の中で消化してしまったのだった。

宝塚歌劇時代の相手役は鳳蘭、麻実れい、だったが、いまだに彼女を超えた娘役にであったことが無い。
宝塚音楽学校の入試の時、入る予定もなく、親の反対でとにかく受験だけということ、受けたモックは
試験のあと、花の道を歩いている姿を宝塚の演出家、内海重典の目に留まり、それが切っ掛けで
入学することに、でも制服も用意してなくて上級生のお古を着て入学式に臨んだというエピソードがある。

退団後、杉山義法さんの芝居に帝劇で出たとき、日比谷のお店で杉山義法さんとモックと3人で食事を
した。
その杉山義法さんは今はもういないが。

苦労の多かったモックだが、今でもたまに会う貴重な人だ。

その昔宝塚歌劇団の稽古場の一番教室で稽古をみながら、駄目だしをしたり、稽古風景をテレビカメラで
撮影したりした事があった事自体が、夢の中の出来事かなあと、思うほど懐かしい出来事になった。

今は本名で静かに幸せな日々を過ごしている。伝説になった原節子のように?


名取裕子さん<女優>

今テレビで「京都地検の女」という番組に出演している名取裕子さんとの出会いは、阪神淡路大震災の
起こる前に大阪の近鉄劇場で公演した「にごり江」だ。
公演の担当者として、その時初めてお会いした。

当時のプログラムをみると、「にごり江」にかける抱負として「おりきは今まで演じたなかで一番難しい役。
考えれば考えるほど深みにはまっていくような玉虫色のキャラクター。ぶつかりがいのありすぎる役です。
最後まであきらめないぞ」と語っている。

公演が始まるときに、名取さん、いいお芝居していただいたら、美味しいものをご馳走しますよと
励ましのつもりで話した。

公演は案の定、出演者皆さんの熱演で好評で、名取さん、美味しい肉を食べましょうと、大阪西区新町にある
伊賀牛の肉を炭火で焼いて食べさせる、お店にご案内した。

その後、この店の肉がお気に召したか、ご家族が観劇に大阪にきたときも、この店にいかれたという。

公演の千秋楽の日に、終演後、神戸に行きたいということから、終演後すぐに車で神戸へ、美味の中華の店
ジャズの店へと案内して劇場に戻ると、公演スタッフが打ち上げで名取さんの帰りを待っていて、何処に
いっていたと大ブーイングを頂戴した。

でも、好評のお芝居の余韻を神戸という地震の前の町で味わえた事は幸いだった。

その後、阪神淡路大震災が発生、私は被災民に、後でわかった事だが、名取さんは心配して消息を
尋ねたそうだがわからなくて、死んだのではないかと心配されたそうだ。

暫くして上京する機会があり名取さんに電話をすると、生きていたのとホテルまで下着を沢山持参して
訪ねて来られた。

被災民としては感激で胸が熱くなり、さらに当時箱根にもっていられた温泉つきのマンションを、
何日でもいいから使いなさいといってくださったので、更に名取さんの心の温かさに、涙が出るほど
嬉しかった。

おかげで素晴らしい温泉に浸ることが被災民は出来たのだ。

そんな事から、年に一度舞台公演をされるときは、必ず観劇に出向いている。

観劇後、楽屋へ行くと必ず一緒に写真を撮るのが通例。
もう近鉄劇場も姿を消して大阪上六にはないが、1ヶ月共に公演をしたのは懐かしい思い出であり
震災の時の温情は終生忘れられない。

その名取さん、2011年9月に京都の南座で公演をされる。
喜劇で「女房は幽霊」という、笑いと涙の百日間という舞台の座長だ。
昔は、舞台を見て余計な感想を言って、余計な事をと怒られたが、今はテレビの名取裕子さん
舞台の名取裕子さんと、二通りの名取さんを見ることにしているからご心配なく?

でも名取さんが阪神淡路大震災で気遣って下さった真心は死ぬまで忘れられないと、年月が経つほどに
その思いは強くなるのだ。

改めて、名取裕子さん、あの時は本当に有難うございました。貴方と出会えた人生は最高です。


山ア陽子さん<ミュージカル作家

山崎陽子さんと出会ったのは1988年宝塚のバウホールだった。
星組の日向 薫出演の舞台で作品が山ア陽子さん作の「水たまりの王子様」をハッピードリーミングという
タイトルでの公演。
当時星組のプロデユーサーの橋本雅夫さんが紹介、その頃、やがては星組のトップスターになるだろうと
見当をつけていた、まだ研究科5年の麻路さきを取材していたので、山ア陽子さんもインタビューをお願い
あわせて麻路さきさんを山ア陽子さんに紹介した。

これがお付き合いの始まりだった。
実は山ア陽子さんは元宝塚歌劇生徒で芸名が旗雲朱美、入団は昭和30年<1955年>
新人公演に出演して早々と結婚の為、退団されたのだ。

後の話だが、その頃「歌劇」という雑誌の表紙が当時大スターの春日野八千代さんで、その裏のページに
山崎陽子さんの写真が掲載されていて、その写真をご主人が見て気に入ったという、後日談がある。

この山ア陽子さんが「山崎陽子の世界」という朗読ミュージカルをされているのを知り、東京の舞台を
拝見にうかがった。

あるとき、折角の作品がどうも見ていて気に食わないので、私のサイトのホットシートの劇評で、つい厳しい?
劇評を掲載、それを読まれた山ア陽子さんは物凄いショックを感じられたらしく、それなりの気持ちを
お手紙で頂戴した。

でも、そこが山ア陽子さんの素晴らしいところで、その後同じ作品を手直しして上演したら好評でしたという
お手紙を頂いた。

山ア陽子さんの舞台は、山崎屋という魚やんさんが色々の魚を料理して店先に並べて見せるのだからと
おはなしたことがある。

その後、時々文章を書いたのを読んでいただくと、常に最高の賛辞でお褒め頂くので、更にいい気になり
また文章を綴ったりしている。

その後、前述の麻路さきは星組のトップスターへ、その彼女の入団からトップまでの間、撮り続けた写真と
彼女のエッセイをまとめた本をTBSブリタニカから出版、外国特派員協会のクラブで出版記念会を開いた時
これまた、山ア陽子さんは、空に舞い上がりそうな賛辞を述べられた。

ご本人の心がそのまま映し出されているような「山崎陽子の世界」の朗読劇の物語は、見ているだけで
素晴らしいイマジネーションが湧き上がり、その辺で演じている、いけ面だけの舞台とは大違いで、
舞台の真の面白さが観客に伝わってくるのだ。

常に、おだてられるのをいい事に「おいらくの人生」という、シニアの人間が如何に生きていけばいいかという
話をインターネットのサイトに書いたら、一番に面白がって頂いた。

人との出会いは、こんなにも大切なものかと、山ア陽子さんに出会った嬉しさは人生で一つ得をしたみたいなもので
合わせて、人生の水先案内人を得たと感謝の気持ちで一杯だ。

出会いとは本当に不思議なものだ。


三代目 市川猿之助さん<歌舞伎俳優>

市川猿之助さんとの縁は、昭和51年に毎日放送が夕方6時の時間帯にはじめたワイドニュース
「MBSナウ」の取材で京都南座公演の義経千本櫻 四の切 宙乗りの公演の時だ。
猿之助さんが早変わりをするというので、それを全部ばらそうという取材だ。
南座でも裏をばらしたら如何なものと、かなり反対ムードはあったが、その仕掛けの総てを
猿之助さんも快諾して協力してくれた。

取材後放送すると翌日南座の客が舞台を見ていて、今度はあそこだ、次はあそこから出るぞと
客席がざわめき、当日売りが200枚さばけたという。

その後、猿之助さんの公演は毎回取材してMBSナウの一つの目玉にもなっていたのだ。
猿之助さんとは楽屋でインタビューしたり、時には南座の舞台で装置あり猿之助さんも衣裳つけての
インタビューもしたりして、彼も毎回穏やかに語る雰囲気は、本当に歌舞伎が好きで苦労して
ここまで確立してきたという感じを強く受けた。

彼が慶応高校で習っていた英語の先生が、成績は一番ですと話してくれた記憶がある。

高校の頃、私は劇団21世紀と言う劇団を、劇団四季のむこうをはり、やっていた。
その頃、最大の劇場?といえば文学座も劇団四季も皆公演する一ツ橋講堂だった。
そこで、テネシー ウイリアムスの夏と煙を上演することになり、主役の役者?探していた。

ある日、慶応高校の日吉の部室にこんな人が居るがどうだろうと友人がつれて来た人が
市川団子だった。
色が浅黒く背が少し小さく、ううーん、少し違うねと後日シナリオライターになった掛札昌宏と話した。
結局、この人はと連れてきたのが、武藤兵吉、今の石阪浩二でかれが夏と煙の主役を演じた。
私自身も名前を,美土路達二と言う名前を使っていたのだった。

互いに若き時代こんな出来事があった。
猿之助さんは学生仲間と、くるま座と言うのをつくり、芝居を演じていた。

猿之助さんを取材した演し物は伊達の十役,小栗判官他ヤマトタケルなど梅田コマ劇場、
南座、大阪道頓堀の中座でことごとく早変わりを中心に猿之助流歌舞伎を取材、インタビューし続けた。

彼はいつも歌舞伎に対して,先を先を見つめて、次はこんな演目を考えているんです。物凄い舞台に
なりますからと熱く語っていた。
楽屋に作家の陳舜臣さんご夫妻をお連れしたときも、猿之助さんは大変に喜んでいた。

当時の歌舞伎の世界では、猿之助さんは異端児としみられていたが、それはそれとして
猿之助歌舞伎として世間では認められていたのだ。
余談だが、おかげでインタビューを舞台の上でするので、南座、中座、コマ劇場と舞台を皆踏ませてもらった。

猿之助さんとは、劇場で、楽屋で話す以外では話すことはなかったし互いに同窓だという話もしなかった。
とにかく猛進の一言で、舞台裏で早変わりをしているところを撮影していると、大変なんですよと
言いながらも,その早変わりを楽しんでいるようにも見受けられた。

南座の公演の時、亀次郎さんが2歳か3歳の頃ではないだろうか?ふと舞台を見ると,舞台稽古のとき
客席からすぐに舞台に上がれるように梯子がかけてあり、そこにちっちゃい亀次郎さんが身を乗り出すように
猿之助さんの芝居を見ている姿を見て、その時、これは将来凄い役者になるんではという予感がした。

そして今、猿之助さんは四代目猿之助を亀次郎さんに継いでもらうことになった。
慶応高校で、英語の先生が成績一番とべた褒めした彼の才能は確かなものだったのだ。
これで香川照之さんが中車に彼の息子が団子へと改めて三代目猿之助の才覚は継承されて行かなくては
いけないことは、一族理解していた事なのだろう。

ひたすら古い作品を探し出して上演へと、歌舞伎に対しては機関車のごとくに驀進又驀進と言うのが
イメージだったが、その情熱が沢山の人を育てたのだ。
彼の生き様は矢張り福沢諭吉先生の独立自尊の精神がそこにあったのだ。

改めて、猿之助さんとのインタビューを聞き直してみると、早変わりけれんといわれるものを演じるのは
楽しいが勿論本来の美しい歌舞伎も演じないといけない。でも映像と合体させた舞台とか、お客様の
見て喜ぶものもしたい。いずれは演技者として出来なくなったときは、歌舞伎と言うものついては
よく知り尽くしているので、歌舞伎の演出もしたい。と話していた。

演出に関しては、頼光鬼退治で演出もたんとうしているた。

振り返ると、猿之助さんを取材した舞台は,お染七役、頼光鬼退治、ヤマトタケル、小栗判官、独道中五十三次
双絵草紙,奥州安達ヶ原、四の切だ。

猿之助さんと交わした会話は、人生の中でも貴重な会話であり舞台裏の姿を見ることが出来たのは
貴重な体験として私の体の中にしみこんでいる。懐かしい人だ。

偶然だが香川照之さんが歌舞伎を継ぐという発表の数日前に新歌舞伎座の扇雀さんの楽屋から出てくる
香川さんの姿を見て、もしやと勘がひらめいたのだった。
その香川さんの真剣な表情は今思えば決意でみなぎっていたのだろう。<2011/9/27>


陳 未知さん<作家の陳 舜臣夫人>

2011年12月1日に母 陳 未知が5月15日に亡くなりましたと娘さんから喪中のはがきが届いた。
未知さんとは、長いお付き合いをさせていただいていた。
一番に忘れれらないのは六甲山のお家で未知さんの手料理をご馳走になれたことだ。
当時、大編集者でもなかなか未知さんの手料理にはありつくことが出来ないほどだっつた。
1984年2月には中央公論社から「美味方丈記」という料理の本を書かれた。

冒頭の言葉は「君子は庖厨あを遠ざく」という書き出しだ。
つまり、ご主人は一度も料理をしてくれた事がないという意味だ。

常に事の始まりの中軸になるのは決まって未知さんだった。
陳 舜臣さんが何か頼まれて、考えていると傍から、してあげなさいよと、決まって声をかけた。

ご主人が病に倒れて沖縄で静養をその後、ハワイはマグマがあるから体にいいからハワイに
行きましょうと言うと、即座に決めてハワイへ。
毎日ワイキキ海岸の波うち際を叱咤shながらご主人を歩かせて、洞、親指の跡がない、しっかり歩きなさい
右左右左出すのよと、時には陳舜臣さんの目には涙が、すると未知さんは、あんた!泣いてるのと。
未知さんはポツリと、つぶやいた。
私、鬼婆と呼ばれているの。

たまたまビーチに沖合いまでいける桟橋があり、陳舜臣さんは怖がりなので、砂浜においてい
すると遥か彼方から、白人のご婦人が何か大声でわめいているのだ。
そうか、老人一人置き去りなのでかと。あとで未知さんが、あなた英語ぐらい喋れるでしょうと。

1997年からハワイでの静養は毎年の恒例の行事となり、陳舜臣さんも行くごとに元気に歩く歩き方も
快調になった。

しかし、その頃から未知さんの心の中には大きな不安を抱えていたのだった。

折角ハワイに来ているのだから、ハワイに陳舜臣文庫作りましょう。
未知さんはすぐにハワイに持参する本を段ボール箱に詰めて、その数5箱、1998年1月、本を抱えて
ハワイを訪れ天理文庫内に陳舜臣文庫を沢山の人たちの協力を得て創設した。

いつも泊まるホテル、ビーチウヲークのブレーカーズホテルから毎朝、日が昇る前にご主人をつれて
ビーチへ、これが毎日の日課とともに、ホテルの風物詩だったかもしれない。

でも中軸をなしていたのは他ならない未知さんなのだ。
いろいろと気遣いしながら、人のいうことを良く聞かれていた。

その未知さんが2011年4月に沖縄から帰ったら一度会いたいのと言う電話があり、その後
携帯電話に電話をすると丁度つながり、未知さんから、過去にあった不都合の事などについて
いろいろと謝罪の話があり、その中で、私は後2年生きて居ればいいの、その間に旅行が
したいのといわれるので、ではまたパリにでも行きましょうかとお話したのが、最後の通話に。

それでもぎりぎりにお見舞いに送ったお見舞いのシャーベットを食べられて美味しいと
いわれたという一言を娘さんから聞いた時は、何か心の中の重荷がすっと落ちた感じがした。

私の携帯電話の留守電には未知さんからの、伝言が残されている。
ご主人を支え続けてきた、本当に素敵なレデイでした。合掌  2011年12月1日師走


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