嶋内義明さん<元読売テレビ常務 同人誌「四季」編集長>

体調が良くなったらワインでシャンテと話していたのが今年の夏ごろだった
嶋内さんは肺がんの治療をかなり前からしていたが、お酒も良く飲んだ。

嶋内さんとの出会いは、大阪府警本部の民放記者クラブの大部屋だった。昭和37年頃か?
嶋内さんは読売テレビの放送記者、小生は毎日放送の放送記者、ともに事件記者だ。
大阪市役所の記者クラブでも一緒だった。
中馬馨市長の時代で、大阪市が緑化百年とか地下鉄工事華やかな時代だった。
記者クラブの総会でもともによく飲んで語った。
やがて大坂万国博覧会が開催、ともに万博会場のプレスラウンジで顔をあわせた。
万国博の堀田副会長と民放記者との昼食会も住友銀行本店頭取室の特別食堂で
開いた時も、一緒だった。

そして時が流れて、互いに定年を迎えていたが、その間暫くは疎遠が続いていた。
が、ふとした出会いが、又お互いの交流の始まりだった。

それは嶋内さんが理事をしていた、日本ヘルマンハープ協会というのがあり
ヘルマンハープと言う楽器を広めたい、力を貸して欲しい、知り合いの誰か
ミュージカルの役者さんでもいませんかと言うことだった。

丁度大阪公演で来ていた鈴木綜馬さんがいたので、話をすると乗り気になり
日本ヘルマンハープ協会のお手伝いをする事に。

その酒の席で、嶋内さんが同人誌「四季」と言うのを出しているが
何か書きませんかと声をかけてくれた。

書いたものは沢山あるし、書きたいものもあるので、お願いする事に、その間でも
嶋内さんの体調は、はかばなしくなかった。

久々に大坂でワインを飲んだとき、そのあと肺炎になりかけて入院したという話を後で聞いた。
感染に弱いんだなあと不安を感じた。

同人誌、四季を見ていて、自分の働いた34年と3ヶ月13606日の記録を、個人的に本に
しようと考えて嶋内さんに印刷の知恵を授かったのだ。

お陰で予想外に早く完成して、放送関係者としては嶋内さんだけに本を贈った。

音沙汰がないと思っていたらイーメイルが届いた。
「ご無沙汰してます。
大兄の名文 面白くて面白くて
大兄の青春時代は、そのまま小生の青春にかぶるので大兄ほど上手くはかけないけど
同様な自分史が出来るでしょうね。

高井さん、浅井ちゃんみんなの顔が見えるので僕には余計面白いのです。
もっともっといいたいどころだけど、今大変な事になってます。
先日家でつまらぬコケ方をして、右鎖骨を骨折ガンの関係ありやで
入院させられています。
字が書けません。
パソコン駄目

面会謝絶にしています。今年中はダメかなあ〜

しばらく、途絶えて

イーメイルが届いた。

感染防止のため病院に監禁されてます。
手 動かずパソコン打てず
「四季」の編集ギブアップしました。
恐縮ですが大兄の原稿は八尾さんに送ってください。

これが嶋内さんからの最後のイーメイルになった。

同人誌の井上さん、岡部さん、八尾さんの急遽編集委員で25号は平成23年12月に
発行されたが、巻頭の言葉を書いた嶋内さんは、これを見るまもなく12月6日に亡くなってしまった。

奇しくも25号には小生は「おいらくの人生」と言う題で書かせていただいた。

嶋内さんも事件記者だったので、勘が働き小生の心を見抜いていたのだろうし
日頃の姿を見て理解してくれていたのだろうと思った。

本当にお互いにホイスルが鳴りロスタイムで生きてきた人生だ。
人生の終焉を迎える頃に、再び出会いおいらくの人生を楽しめたのも
出会いの大切さと絆だろう。
嶋内さん、貴方と出会えて本当に幸せでした。<2011年12月13日>


八重沢真美さん<舞台女優>

大阪の近鉄劇場で劇団四季の公演「コーラスライン」を公演した時
おやっと感じたのが八重沢真美さんだった。
劇団四季には1982年のオーディションで参加しているが、幼少3歳から
バレエを東京シティバレエ団で習い始めたのは母親の影響からだという。
そして舞台で見事なバレーを見せたのが、劇団四季のハンスアンデルセン物語」だ。
青山劇場でマダムロードの役でデヴュー、開花した。

当時は個性的役者が多々いる中で、いつも何かを見せているという感じを受けていた。
沢山の役者さんを取材していての出会いだけに、それは市村正親さん35歳の時に
22歳で彼と結婚、常に二人一緒と言いうのがその後に引き続いていくことになる。

その後に、強烈な印象を受けたのは2000年9月20日から近鉄劇場で劇団四季が
コーラスラインを公演した時だ。はじめはジュデイの役を演じていた。
その頃、劇団四季の演出家の浅利慶太さんが客席で見ているとそばに来て
八重沢真美はキャッシーをやらせろと言ってるんだ。やるなら踊りをもっと勉強しろというと
毎晩酒を飲んでいるのに、翌朝のレッスンには必ず来るんだと。
それならやらせたらいいのに、会話はそこで途切れた。

しばらくして近鉄劇場の舞台上で八重沢真美さんはキャッシーを演じていた。
1962年1月26日生まれで虎だから強いのかと思うと本人は本来は牛だから
忍耐強いのですと。
その後、さらに印象深い舞台に、それは「Mバタフライ」と言いう芝居で日下武史さんと
市村正親さんそこに八重沢真美さんが出演した舞台だった。
いずれの方々の最高の時代の舞台だった。
その後気が付いたときは、市村正親さんのサポート役に回り舞台からは遠ざかっていた。

そして彼女が41歳の時独身に戻った。
いつかはそうなると予感がしていて子供も作らなかったという。自分の人生は自分が
決めていく、そのさっぱり感がさわやかに感じさせるのが、彼女の個性と言えるのだろう。
別れた彼の事を、私が嫁に送り出したのという独特の表現は思わず納得させるものがあった。

しかし、その後彼女の口から私が嫁に送り出したという感情はすでに忘却のかなたよと
言われた時、心の中がきれいに整理できたのだという事を感じた。
常に繊細な心の中を自身で冷静に処理できる所が凄いと思った。

再び劇団四季の舞台に戻った八重沢真美さんは貴重な存在としてクレイジーフォーユーの
アイリーンロス役を、ブラックコメデイのクレア役を、ウイキットのマダム モリブル役を、
マンマミーアのターニャ役を個性充分に生かして演じている。

本人は彼と別れなかったら、そのまま唯の女性で終わっていたかもしれない,別れたことが
自分の人生にはプラスだと言い切るところが、思い切り良いご婦人だから、気持ちがいい。

常に芝居がしたいと語り、セリフの稽古には余念がないらしい。気性の激しい役がふさわしいかもしれない。
ハムレットのガートルードをやるのも念願らしい。確かに上月 晃的?太地喜和子的?
秘めたる強さを体内に秘めている可能性を感じさせる人だ。

好きな舞台を務めながらどう生きていくべきかと一人の女性が、この道は遠けれど、
この道を選びたるなればの言葉のとおり、未来に向かう一本の道を己の明かりを頼りに
突き進む姿は、人生を考えさせてくれる人だと又力強いエネルギーを感じさせてくれる。
出会いの中で、内面に強い軸を持ち続けている人は数少ないだけに貴重な人だと感じてる。
2012年3月27日


 崎田喜美枝さん<宝塚大学 理事長>

崎田喜美枝さんと初めて出会ったのは、多分毎日ホールでのファッション ショウの取材のときだった。
そのあと、フランスのパリから有名なデザイナーのグレさんが大阪に来たとき、取材をしませんかといわれて
MBSナウで放送のため取材をした。
1978年11月24日ホテルでインタビューをしてその日に放送。インタビューした後に
グレさんと崎田さんと一緒に撮影した写真がある。
当時は、まだ崎田さんは宝塚大学の前身の関西女子美術短期大学主任教授だった。

当時は亡くなった池田正男前理事長ともご一緒して、未来の大学の夢を語られており、その時宝塚の山の中に?
大学をつくる構想を話されていたのを思い出す。それは宝塚大学の前身の宝塚造形大学だった。

崎田さんとは仕事は別にして、当時神戸の各界で活躍を始めた画家、彫刻家、デザイナー、舞踊家
宮司、写真家、放送記者といった一業種一人みたいな人たちが集まり、バーボンクラブという会を
つくり、誰かの家で会を開いて互いに好き勝手の発言をしていた。

其の何回目かの会に崎田さんをお招きして盛り上がったこともあった。

出会いというものは、一度出会うと必ずまた出会いがあるものだ。

崎田さんも大学の未来の前進に力を注がれており、当方も仕事に集中?いつしか疎遠になっていた。
それでも、大阪のフェステイバルホールで開かれるNDKのファッションショウの招待状は、いつも
送っていただいていた。

崎田さんは、物静かの中に気遣いのある方で、何事もさりげなくされるところに不思議な魅力がある。

放送局を37年3か月13606日勤め上げて、このタイトルで本をまとめたので、疎遠の続いた崎田さんに
この本をお送りした。

この本がきっかけで再び初めての出会いから何年ぶりかで再会をした。頂いた名刺の
崎田さんの肩書は宝塚大学理事長 芸術学博士 NDK社団法人日本デザイン文化協会大阪支部長と
かかれてあった。

其の何年ぶりかで、お会いした時に1978年にグレさんと撮影した写真を複写して差し上げると
大変喜ばれ、その後いつもバッグの中に入れて持ち歩くノートに挟んでいるという事だった。

そして崎田さんが書かれたファッションの本を2冊送ってきた下さった。

この久久にお出会いが、ものすごい出会いになるのでした。
昼食をご馳走になって席を立つと崎田さんは、大橋さん知ってはると、いいえというと、ではご紹介しますと
そこで初めてお名前は存じ上げていた阪急電鉄社長会長を経て今は相談役の大橋太朗さんを紹介された。

実はハワイにタカラヅカ レビューライブラリーというのを1998年に創設したんですが公演のDVDが
なかなか集まらないなどお話をして、数日後にそれではそれなりのものを送りますと返事が、そして、やがて
段ボール二箱にぎっしり詰まった宝塚の公演収録の販売しているDVDが送られてきたのです。

改めて崎田さんと久久この日にお会いしなければ大橋さんとも会えなかったかもです。
人生の出会いは人と人とのつながりを生み出す、其れも崎田さんの仁徳かと思わずに居られませんでした。

この話はハワイのタカラヅカ ライブラリーのある天理文庫が不定期に出しているニュースレターという
小冊に書かせていただいたのです。

出会いそれは人生の道ずれと、タイトルにも書いているように、まさに一つの道で又道ずれになれたと
感じたのだ。
そして宝塚大学25周年記念式典のお招きのお手紙をいただいた。
式典で理事長として挨拶される崎田さんを見ていてその昔の時代を懐かしく感じたのは、長い道ずれの
お蔭かなと考えたりした。

熱意に燃えた池田正男前理事長の熱意を、静の中に秘めていながら持ち続ける崎田さんは、失礼ながら
女闘士的ものを感じないではいられない。

出会いながら、しばし疎遠となり再び出会えた時、その昔と少しも変わらない姿で、接して頂ける
崎田さんの豊かな感性そして糸のような気配りを感じた時、心の豊かさがいかに大切なものかを
改めて知ったのです。


    アキコ カンダに出会えた幸せ感<ダンサー>

そしてAKIKOは・・・・あるダンサーの肖像は・・・・アキコ カンダのドキュメント映画だ。
アキコ…私は強いてそう呼ばせてもらう。
同じ年だからではない,アキコは素晴らしいダンサー、振付師、そして素晴らしい芸術家で、
何時も良く宝塚の美容院で何故か私が行くときに必ずアキコは横の椅子に座り煙草をふかしていた。
そんな距離で知り合ったアキコ、だからアキコと呼ぶ。
ある時、新人の時から取材していた宝塚歌劇の生徒が主役をするという
公演の振付がアキコだった。

「今から振付て来るわね」とアキコが。やがて戻ってきたアキコの開口一番
「手がきれいに見えるようにしてきたからね」
アキコのダンスは軸がしっかりしていると言うが、当然の事ではないだろうか?
でもアキコの踊りは誰にもできない雰囲気をかもしだすのが不思議だ。

いつも風の様に揺れ動いている。
家の前の木々の様に。

今考えると、柳の木のような踊りがアキコのダンスだと思った。
だから今後跡を継ぐ市川紅美さんは、柳の木の枝が揺れる雰囲気を作り出して欲しいと思う。
アキコの体はヤナギ木、そして体の中心から手足総てが出ているのだから。

アキコには不思議な話がある。宝塚のある生徒が結婚することになり、披露宴にアキコも招くという
しばらくしたら、結婚する新婦から私が来ないならアキコもいかないと言うので、必ず来てほしいと
披露宴に行くと、なんと席がアキコの隣りだ。中華料理だったが総てお皿に取り、大サーヴィスをした。

ドキュメントを見て、その理由がわかった。アキコの息子さんが、アキコは子供と同じなんだからと。
つまり芸術に没頭して佐藤紅緑の一直線ではないが、まさに、芸一筋それしかないのがアキコだった。

でもそんなアキコから手紙も沢山頂き、写真集もサイン入りで頂いた。
 叙勲した時も、素敵なブルーのドレス姿で一緒に写真を撮ったのも忘れられない。

何時も会うのは美容院で、必ず隣りアキコが居たのが不思議だ。今もその美容院に行くが
もう隣にはアキコはいない。勿論煙草の煙も来ない。

ドキュメントを見て初めてアキコの生活用様式が判った。でも今まで知らなかったのがアキコの
不思議さを物語る所であったかもしれない。

一人で歩けないので市川さんに支えられて美容院へ,でも一旦、舞台に立つとその姿は豹変するのが不思議だった。
ひょっとしたらアキコは魔女だったのかもしれない。

だから亡くなる寸前まで踊れたんだ。
ドキュメントを見ていて、ぽついぽつり話した時代が懐かしく、また、ポついポツリの話の中で
アキコからいろいろなものを教わっていた。
今回のドキュメントをみてもやはり教わることがあった。

お別れ会に出たが、そしてAKIKOは、を見て初めてさようならが言えた。

アキコのようなダンサーとは二度と会えない寂しさの中で、アキコを柳の木を見たら又思い出すね。

2013−8−26

    

    「元タカラジェンヌ花組 水原 環さん、<愛称タラ>驚きの30数年ぶりの再会」

 
  現役時代に宝塚歌劇団の稽古場に取材に行くたびに私の「白い本」にトップスタ―初め
  個性豊かな生徒の方々に、宝塚歌劇の生徒として何か一言書いてもらっていた。
  その中の一人が芸名が水原 環さんだ。

  宝塚音楽学校で成績は上位、勿論、入団しても当時、入団したては研一と言い、試験が
  研三と研五でも試験があり、これも上位で、これが最後で終生ついて回る成績だ。
  勿論、花組では彼女は何時も一番、その彼女が白い本に、こう記してくれた。
 
  「宝塚は私の故郷のようなもの
  宝塚歌劇団とは
  私の両親の様なもの
  そして 今
  私は その中で
  自分に最も合った生き方を
  探している・・・・TARA

  昭和六十年八月十一日
  水原 環

  在団中、何回か食事をした。南座で片岡孝夫さん時代、遙 くららさんが
  オフェーリヤ演じるので南座の宣伝部が客席を華やかにしたいといい
  公演の無い星組の組子を案内した時、偶然、タラさんも空いていて
  観劇の一人に加わった。

  そして、寿退団。
  年月が流れて友人と奈良の柳生ゴルフ場でプレイした時、話の流れか宝塚の話に
  たまたまここのゴルフ場の阪口さんという方がタラさんなら、ここのメンバーですと。
  そんなことで、お医者さんのご主人と柳生ゴルフ場の阪口さん交えて四人で食事をした。
  30余年の歳月を経ていたが、タラさんの美貌は中年の美しさに変化しただけ。
  心の爽やかさは一つも変わらなかった。

  ゴルフも、はめたばかりというので何回か、お供を細いからだで弾が良く飛んでいた。
  キャロウエイの良く飛ぶと言うボールを上げると大喜び、揚句の果てに
  倶楽部トーナメントで優勝したと。

  男の子を育て上げて一人はお医者さんに
  そこに行くまでは、彼女も病気をしたりして、かなり苦労をしたのではないかと
  思うが、賢い彼女は土星人マイナスだけに孤高の生き方をしており素晴らしい人だ。
 
  苦は楽、楽は苦の種というが、そのいずれも味わいながら今の生活を
  築き上げたのではないだろうか?
  人生半分を超えた年齢の御婦人の人生の歩み方としては、総てが独立独歩を感じる。

  誰もが、野次馬根性を失う年代の頃に、それを失わず世の中を見ていく姿は賢いの一言だ。
  たまに、昔からお酒の強い彼女とワインを飲みながら芸術文化人生諸々を語り合うと
  互いが共通語を持っているかの如くに、話す内容の理解度が素早い事は楽しい
  いずれ、還暦を迎えるだろうが、彼女の場合は人生のポイントを押さえながら
  懐中電灯で人生の先を照らして、見つめていく部分を秘めているところが
  不思議な魅力だ。
 
  本人は、小悪魔的生き方をしているともいうが、それは隠れ蓑の小悪魔ではないかと思う。
  幸せを掴みとれない方々は沢山いるが、数少ない幸せな人生を歩んでいる一人だ。
  30数年経て再会しても昔の互いの信頼の絆が切れずに、途絶えた間があっという間に
  埋めてくれる彼女の心もきっと素晴らしい感情を生み出す扁桃体とその感情を巧みに
  操作する 前頭葉を 持っているからだろう。

  彼女から教えられた一言「昔はよかったなあ、理解できるが、でも今を理解したい」
  
  <2017−9>この項は終わり


  続くj

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