エッセイ 「出会い、それは人生の道連れ」


かつて取材で出会った沢山の方々は、私の人生に貴重な栄養を与えていただいた方々ばかりです。
長い人生の間に、そうして出会った方とは、その後お付き合いを続けている方もありますが
そうでなくても、出会ったその方から受けたものはその後の私の大切な糧となり
人生の道ずれとなっています。
そうした沢山の方との出会いをエッセイ風にまとめてみました。
肩書きはお会いした当時のものです。
尚、順次書き込んでいきますので、気が向いたらこのサイト訪問ください。

以下は掲載されている方のお名前です。

石坂泰三さん〈日本万国博協会会長>

堀田庄三さん〈住友銀行頭取、日本万国博覧会協会副会長>
中馬 馨さん〈大阪市長〉
佐々淳行さん〈大阪府警外事課長>
陳 舜臣さん<作家>
天津乙女さん<宝塚歌劇団 専科 >

山内英郎さん<ハワイ イヒラニ宮殿ドーセント 日本語案内>
杉山義法さん<作家 脚本家>
山本直純さん〈指揮者>
美吉左久子さん<宝塚歌劇団元生徒>
植田紳爾さん<元宝塚歌劇団理事長 演出家>
杉 良太郎さん<俳優>
山田 卓さん<振付家>
吉田玉男さんと桐竹勘十郎さん<文楽人形遣い>
藤野節子さん<劇団四季創立メンバー 女優>
遥 くららさん<元宝塚歌劇団トップ娘役>
名取裕子さん<女優>
山ア陽子さん<ミュージカル作家
三代目 市川猿之助さん<歌舞伎俳優>
陳 未知さん<作家の陳 舜臣夫人>
嶋内義明さん<元読売テレビ常務 同人誌「四季」編集長>
八重沢真美さん<舞台女優>

崎田喜美枝さん<宝塚大学 理事長>
アキコ カンダさん<ダンサー>
水原 環さん<元花組 タカラジェンヌ>




石坂泰三さん〈日本万国博協会会長>

思い起こせば1970年日本万国博覧会が大阪の千里丘陵で開かれることになった頃、
テレビで「万国博ニュース」という番組が出来て、毎週、万国博に関係のある方にインタビューすることになり、
万国博協会会長に就任の石坂泰三さんにインタビューのため東芝の会長室へ伺いました。

今にして思えば、経済担当記者でもないものが当時の財界の大物、石坂泰三さんに会えるということは、
この番組のおかげでした。

体の大きな石坂さんに、いろいろとおやりになっていて、突然万国博のお話を伺うので、
失礼ながらこんがらないですかと言うと、君、ボクは大丈夫だよ、いろいろな引き出しを持っているからと。
なるほど引き出しねえと、新しい考え方を学んだのです。

更にいつももう今日で死ぬかと思うが朝風呂に入ると元気が出てくるんだよと。
なんとなく日頃の生き方を垣間見る気がした。

その石坂さん、メディアが万国博の事をもっといろいろと宣伝したほうがいいのではという発言に、
君、間が大切なんだよ。三味線でも間が大切というだろう?間が悪いと三味線もあほになる。
なるほど、何事もタイミングが大切なのはとうにお分かりなんだと人生の生き方を、教わった気がした。

時の財界の大御所といわれる方に直に接することがその後この経験が如何に大切だったか
しみじみ感じた次第です。


堀田庄三さん〈住友銀行頭取、日本万国博覧会協会副会長>

堀田さんとお目にかかる切っ掛けも、万国博ニュースのインタビューでした。
約束の時間に住友銀行本店の頭取室に向かうとガラス戸の自動ドアーがすうっと開いて秘書が出迎える。
その流れが寸分狂いがないの驚きならが頭取の部屋へ。

当時堀田さんはカミソリ堀田という異名があり、ご本人にその理由を聞くと、
君、それは僕が知りすぎてるからなんだよと。
なるほどなあと納得。
直にいろいろの話をすると、誠に優しい理解ある方で、当時民放局だけで昼食会を開きたいと話すと、
いいよここでやろうと。
頭取室の横に厨房を備えたダイニングルームがあった。

何回か民放局万博担当の記者が集まり昼食談義を繰り広げた。
驚いたのは誕生日には秘書に選ばせたとネクタイが会社に届いた事だ。
原稿がなくても雄弁をふるい、物事の理解度は素晴らしいものがあった。

人類の進歩と調和という万博のテーマを色紙に書いていただいたのが、いまだに大切に手元にある。


中馬 馨さん〈大阪市長〉

中馬市長との出会いは大阪市長選挙当選の日から始まりました。
当選直後にスタジオに案内テレビに出演でした。
その後、大阪市役所記者クラブに居た時から親しくなり、当時大阪市の救急車のサイレンが
警察のパトカーのサイレンの音と同じなので、フランスで使っている、ピポーピポーに変えてはと
話すとパリに行くから聞いてくると、帰国後サイレンの音をピポーピポーに変更、その後
月に一度のテレビ番組「市長と共に」という番組をつくり、その打ち合わせは、いつも市長が出かける
車の中でした。
バーボンウイスキーが好きで、東京に上京のときは、それにあわせて東京へ、ホテルで夜二人で
バーボンウイスキーを傾けていろいろの話が聞けました。
当時社会党の中馬さん自民党の佐藤栄作首相に受けが良いのが愉快でした。
人の話を良く聞く方で、選挙では犬によくお辞儀をしたと笑い話で聞かされたのが印象的。
緑化百年、地下鉄工事と大阪市の花の時代をそして万国博と、これほどの名市長は二度と
出ないと思いました。


佐々淳行さん〈大阪府警外事課長>

佐々さんとの出会いは不思議でした。
大阪府警察本部民放記者クラブ担当のとき、外事課長で赴任、一杯飲もうという事で待ち合わせ
場所を当時のグランドホテル〈堂島>の地下のパインバーにしたのです。
当時そんなところで合流する人が居なかったせいか、なんとなく親しくお付き合いする事に。
今でも忘れられないのが、ケネデイ大統領が狙撃された時現場に調査に行かれて、その状況を
聞かされたときでした。

その後、ご自分が翻訳した読後焼却ー知恵の戦いーという本を頂木昭和39年1月14日でした。
その後香港領事のとき自宅まで遊びに、美しい奥様はじめご家族で
当時中国人はまだ水泳をしないときで映画の慕情でおなじみの、レパレスベイで
殆ど貸切状態で?水泳を楽しんだのです。
後に昭和天皇が危険な状態になられたとき佐々さんに状況をうかがい、葬儀のときは寒いから
黒か紺のコート着用にすると聞かせれて、それを事前に毎日放送の齋藤社長に伝えて
万全の構えができた事です。
2010年傘寿の佐々さんは取材記者時代の思い出の方で得られない知恵を授けていただきました。
お酒が強くダンスがお上手で異色の警察官僚といえる方です。


陳 舜臣さん<作家>

陳さんと出合ったのは確か神戸のガスライトというバーだったと思う。
当時神戸ではしらぬひとは居ないというピアノ弾きの中川和の店です。
ウイスキーを飲んでいた陳さん、これから原稿を書くので帰ると、後に酒を飲んで原稿を
書くとしっこくなるから、夜は書かないと、その頃はかなり親しくなり、まだココには同級生が
働いているとクラブをのぞいたり有名な人の彼女が経営のバーに行ったり人生を多面的角度から
学ばせていただいたものです。
神戸ポートピア博覧会では長女の由果さんが協会のコンパニオンになり会場内で親子インタビューを
したり、そのとき制服姿の由果さんの写真を大きく伸ばして差し上げるとお家に飾られていました。

その由果さんが結婚して新婚旅行から帰国のとき空港で出てきたご主人には見向きもしないで
由果さんに抱きつき花嫁の父親の姿は印象的でした。

宝塚バウホールで公演中倒れて真っ先に病院へ駆けつけて重態でしたがメデイアには
外国から帰国された後でお疲れが出たと、少し嘘を伝えその後長い治療リハビリへ。
さらにハワイでの静養で次第に元気に、1998年にハワイの天理文化センターの天理文庫の中に
陳 舜臣文庫を創設したのです。

あるとき陳さんに、60歳の時は何をされていたかと聞くと、耶律楚材を書いたと、なるほどすごいなあと
ハワイの滞在先のホテルのブレーカーズのプールサイドで目を閉じているので何を考えているかと
お聞きすると頭の中のくずを掃除していると、いらないものは頭の中から出してしまうと。
陳舜臣さんの趣味はと聞くと読書と物を書くことと。

お元気なときに書かれた書をいくつも頂いたのを表装して大切に。何故かお元気なときのサイン
病気されて左手でサインをかかれたもの、その後右手で書かれたものと何種類ものサインが
何故か手元にあります。
バーボンウイスキーを飲み肉を食べて、陳舜臣さんは私の一回り上のねずみです。

そういえば、ハワイで親しくなったアメリカ人が、陳さんの名前がシュンシンが難しいと言い
別名、ミスター サンシャインと名づけたのです。


天津乙女さん<宝塚歌劇団 専科 >

天津乙女さん、愛称栄子さんに出合ったのは、宝塚歌劇の公演の「くるるんるん」という
芝居の稽古場でした。
テレビニュースで放送するので稽古場に取材にカメラマンが緊張してカメラのフィルムが
切れてしまいそれの入れ替えを手間取っていると、この人本当のカメラマンなの?
と聞いてきたのでカメラマンは更に緊張して手が震えてなかなかフィルムの装てんが
出来なかった。

昔はこんなに直接聞いてこなかったものよ、誰かが質問を聞いてきてそれをこちらが聞いて
返事したものよと、その昔の宝塚の仕切たりを、楽屋では鏡の前で衣装着て椅子に腰掛けて
煙草を、こんな姿とっちゃだめよと。

私ね、一緒に舞台に出てる人で退団する人勘で判るのと。写真にサインが欲しいのでご自宅へ
裏口に姿を見せた栄子さんはネルのパジャマ姿で気さくにサインを。

芸暦60周年の記念パーテイーを宝塚ホテルで開催、その舞台姿をテレビで生中継、何時まで
舞台にはと聞くと、踊れる間で、出させていただけるまで、60年?ここまできちゃいましたと
江戸っ子弁で。
亡くなった時はご自宅の布団の中で小さな体が更に小さく枕元にローソクが灯してありました。
後で聞いた話、栄子さん、宝塚の寮に入り窓から山が見えたら怖いと泣いたと、当時宝塚歌劇は
生徒にわきの下あてというものが有り、栄子さんわきの下にまだ何もないのに、それをつけていたと
今は亡き大先輩から聞きました。
一番印象に残るタカラジェンヌです。


※無断転載・使用禁止

NEXT 
次のページへ


 読み物
コーナートップへ

                    トップページへ戻る