山田 卓さん<振付家>

通称、卓さん<たくさん>だ。
何時親しくなったのかは定かでないが、宝塚歌劇の稽古場ではしばしばお目にかかる機会があった。
勿論ミュージカル、キャッツの振り付けはさすが、卓さんのという声が強かった。

阪神淡路大震災の起こる1年前に、神社庁の永職会という神社の宮司の集まりがミュージカルを
したいといってきた。
莫大な費用がかかるがというと、それでもしたいと、結局神社だからスサノオを取り上げる事になり
本は杉山義法さんにお願いした。

さてミュージカルだから当然ダンスがある。そこでこれは卓さんしか出来にと思い、ジェネラルプロデユーサを
仰せつかった私は山田卓さんにお願いしたのだ。

いつも稽古場では首にタオルを巻いているのが卓さんの制服だ。
繊細の心と素晴らしい振り付のセンスをもった卓さんは、その貫禄でスサノオを見事なミュージカルに
作り上げてくれた。

その稽古場では卓さんは自分が振付ける時は、いつも傍にいて欲しいといわれて、そのつど築地の市場で
うなぎ弁当を購入稽古場に運んだ一緒に食べた。
傍にいるだけで卓さんは気落ちが落ち着くらしかった。

卓さん、貴方がもう少し早くキャッツの振り付けをしていたらブロードウエイの大振り付家になっていたのにと
いうとにこっと顔をほころばせた。

阪神淡路大震災で被災民になり何週間も風呂に入れないとき卓さんから連絡があり、家に風呂に入りに
おいでなさいと。
1時間近く風呂につかり出るとテーブルにはすき焼きが用意されていた。
涙が出るほど嬉しかった。

だから今東日本大震災で避難所暮らしの大変さは言葉にいえないほど良くわかる、そのつらさは。

卓さんとは何か以心伝心見たいのものがあり、互いに何か判らないが共通の意識があった。
暫くして、卓さんの夫人から体調がよくないのだが、一緒にご飯を食べに行きたいといっているというので
ご自宅に伺うといささか憔悴した顔をしていた。
しかし、その気使いは、大変のものだった。しかしその後、段々と気力が落ちて会っても顔を見合すだけで
精一杯だった。

山田卓さんは、振り付家は自分の振りを人に見せようという気持ちで振付けると決して良い結果は生まれないよ
と良く話していた。
センスなのだと、振り付家にいうのはと。

かって宝塚歌劇のバウホール公演で涼風真世と朝凪りんとの舞台の振り付を卓さんが、このとき
リフトで持ち上げる場面があったが、卓さんは涼風の体力を読んで、それ相当の振りをつけていた。
後日、卓さんがぽろっと話してくれた。

卓さんからは舞台の振り付に関して、また舞台の心を沢山教えられた。これほどの人は
今後そう簡単には生まれてこないだろう。


吉田玉男さんと桐竹勘十郎さん<文楽人形遣い>

文楽劇場もまだ出来る前、大阪の道頓堀の朝日座で細々と文楽公演をしていた時代に、MBSナウという
夕方のワイドニュースの取材で文楽を取り上げたのが発端だ。

朝日座の薄暗い楽屋へ行く途中の通路に人形の頭が並んでいた。
初めて接したのが吉田玉男さんと桐竹勘十郎さんだったので、この道ずれはお二人ご一緒だ。

物静かな玉男さんは楽屋に差し入れの品を持参すると、有難うというと、すぐにお弟子さんの吉田玉女さんに
これといって渡す姿は今でも思い出す。
あまり取材に来ない文楽だったので、いつも楽屋でインタビューすると気さくに喋っていただけた。

意外だったのは、ある時宝塚歌劇の花組にいた双子のお姉さんが結婚する時、主賓で出席していた事だった。
玉男さんも私の顔を見て驚いていた。
それ以降、お互いに共通の話題が?存在するようになり顔を合わすと双子はというのが、最初の言葉だった。

文楽協会とメデイアとの懇親会があるときでも玉男さんは必ず顔を見せていた。
その人形の使い方は実に見事の一言。宙を舞うがごときに、さりげなく人形を扱う技はいまだに忘れられない。

楽屋でいつもぼやいていたのは、後継者が育たない事だった。技芸員を募集しても1年たったら誰もいなくなったと。
玉男さんには楽屋でいつも文楽の頭の話をうかがい知る事ができて、又玉男さんも楽屋訪問するとうれしそうな顔を
されるので、なんともいえない気持ちになった。

後に、国立文楽劇場が出来て楽屋に訪ねると、その雰囲気は朝日座のときと少しも変わらない、いらっしゃいと
迎えていただけた。

当たり柔らかな関西弁で、時々弟子を厳しくしかる姿は懐かしい。

楽屋が隣同士だったか、桐竹勘十郎さん<二代目>に接したのもこの頃だ。
玉男さんと違い、お酒の好きな勘十郎さんは、なんとなくせっかちな感じを受けた。
人形遣いなんて、中学生時代からしてないと出来ません。大きくなった人を募集しても、三味線の感じも
受け取り方が違うのです、総ては体で感じないと。
そして、こんな安い給料では、食えませんねえとも。
いつも嘆いていたのだ印象的だ。

ざっくばらんで、さっぱりした気性、しかし舞台に上がるとその人形は気迫に富んでいた。
いつも秘かに後をついでくれる息子の事を気にしていた。

この勘十郎さんがどうしてかわからないが宝塚歌劇のパーテイがあった時、会場に姿があった。
勿論生徒は人形遣いの勘十郎さんとは知らない。

そこで生徒たちを集めて勘十郎さんを真ん中にして写真を撮った。
後に三代目勘十郎を襲名した息子さんに写真を送ると返事が来た。

「こんなに女性に囲まれて、ニヤニヤしている親父の顔を見るのは初めて」と。

二代目勘十郎さんには、矢張り楽屋で名人から直接諸々のお話を聞けたということは、かけがいのない
財産だと思っている。

お二人一緒にしてごめんなさい、でも文楽に関してはお二人同時に接したので。


藤野節子さん<劇団四季創立メンバー 女優>

藤野節子さんと最後にお喋りしたのは旅巡業で大阪のサンケイホールの公演のときだ。
何十年前のことだろうか。
当時短期間の公演の為、宣伝も弱くテレビのニュース番組で取材してほしいと言われた時だ。
ホールのロビーで藤野さんは影万理江さんとウオーミングアップをしていた。

その頃、ミュージカルが盛んになり始めていた時で、踊れなくて歌えない私たちはお呼びでないのと
淋しそうに話した。

藤野節子さんの舞台で忘れられないのは、ひばりだ。あの舞台は今にも空に飛び立つのではないかと言う
強烈な藤野さんの演技はいまだに忘れらない。

堅実な重厚なそれでいて魅力的なお芝居を見せてくれた。
藤野さんが最後まで願っていたのは、素晴らしい創作劇をする事が最終目的だったと思う。
その後、藤野節子さんにインタビューをする機会があり、そのときも創作劇をしたいだった。
いろいろと語るよりも、そのときの藤野さんにインタビューしたものを、後に劇団四季がラ アルプという
劇団四季通信<タブロイド版>で藤野節子追悼特集号を出した時、私のインタビューを掲載したので
それを披露したい。

私はこう考える〜テレビのインタビューに応えて〜藤野節子<1983年3月29日MBSナウ放映>

■この30年を藤野さんはどのようにお考えになりますか?

「役者として30年なのか、人間として30年なのか多少違いますが、月並みに言えば、凄く早くて
凄く長くてということかしら。
30年と一口に言いますけど、あまりにも長すぎるんですよ。10年一昔と言うぐらいで、10年と区切って
行けばお話しもしやすいんですが、それでも30年と言う数字でくくって言えば人生の方角が、この30年で
見つかってよかったというのが実感じゃないかしら。
というのは、30年前からこの道一筋と決めて芝居を始めたわけじゃないのね。私は優等生じゃないから
しばらくやっているうちに、ああそうだ、私はこれで生きていくんだと気がついた。

30年やって、とっても遅まきだけど、これでやっと人生でも、職業一つとっても、あっちこっちよそ見しないで
進めるんだな、とわかったわけ。
ほっとしたのが実感ですけど、それ一つに決めてしまった淋しさもありました。
芝居だけじゃない、人生についてのお答えになってようだけれど、まあ、そういうことですね」

■30年ひとすじに努力されていらしたわけですが、どうしたら、そんなに永く続けられるのでしょうか。
劇団四季として藤野さん個人として?

「私個人としては、ザックバランに言ってしまうと、あるとき、ある日、これ以外は出来ないなあ、しょうがないや
と思った事も理由の一つかしら。
劇団的に考えれば、初期のおたがいに若かりし頃は、感情的にぶつかりあって、喧嘩して”すわ、分裂か”
と言う事もありましたが,ある時期から劇団は劇団員のプライベートな生活にいっさい干渉しないことにして
すっきりしたんですね。
劇団を創ったばかりのころは、同人雑誌的とでもいいましゅか、何から何まで全部一緒でした。
そういったこと<意識、生活>を別にしても、芝居に対する考え方はみな一緒だったのね。
幸せな事に、その点だけで充分に通じ合えたから30年もやってこれたのだと思います。

そうでなかったら、個人的なつまらないことをガタガタ言って、きっと分裂してたでしょうね。
私は芝居を四季で知ったものですから劇団四季を離れた芝居と言うものはまったく考えられない。
ですから30年間わりと、そんなに忍耐もせずにやって来られたのだ、と思います。
勿論少しはしましたよ。あまり無理せずに今日まで来れました。私はそういう人なのです」

■ところで、四季の30年ですが、この30年の間のいわば絶対的な演劇活動の中で藤野さんは自分は
どのくらい尽くしたんだなと思いますか?

「果たした役割?ほとんど考えた事ありませんね。劇団ために私がしたことはいくつかあります。
例えば、人間関係についてはいろいろとお手伝いしました。
劇団四季に芝居をさせる為にね。ある程度の事はちゃんと背負ってやってきたという自負は勿論あります。
ですけど、日本演劇全体に対して何をやってきたかと言う事になると、非常に難しい。とても私一人では
答えられませんね。
 
まだ足りないでしょうけれど、劇団四季が演劇人口を少しは増やしてきたのじゃないかという思いはあります。
それだけですよ。
浅利さんが創ってきた演技の方法と言うの手法と言うのか、縁議論と言うのか、研究生が今やっている
訓練のしかた、それは確かに見つかりました。
だけどそれが、その程度演劇界に広まっているかは疑問です。その方法でやっている劇団でも
必ずしも好んでやっているかどうかは判りませんからね。

私はその方法が演劇と言う世界だけでなく、モノを喋る人全部に大変役に立つと思っているのですが」

■どんなことでしょうか?

「母音をキチンと喋るということです。後々まで、残っていくなと信じてます。

創立メンバーということについて、聞かせてください。

「ごうまんなようですけれど、劇団四季イコール藤野節子、藤野節子イコール劇団四季と思っている。
と言ったらお判りでしょう」

■藤野さんとしては、これから劇団四季をどのように持っていきたいですか?

「むずかしいわね。最終的にはやはり創作劇ですよね。はじめからそういっているんだから。
でも。いい戯曲がないでしょう。だからまだ、ちょっと無理じゃないかしら、絶対にあきらめてはいませんけれど。
組織の面で言えば、浜畑さんたちが次の世代をちゃんと受け継いでくれるでしょうし、その世代から
市村君のたちの世代へと、もうそこまでつながっていますからね」

■劇団四季の精神とは?

「難しい質問ね。芝居に対する姿勢でいえば、私は役者と言うものは自分を厳しく律して生きていくものだと
思っています。そんな話が出てくるときは、若い人たちにも自分に厳しくやっていきなさいねと。
役者としても普通の人間としても」

■創立メンバーを見て何を感じますか?

「そうねえ、お互いにたいしたことないなあっておもってるんじゃないかしら。
この間、アルデールに創立メンバー4人が全部同じ役で出たの、ちょっぴりつらかったけどね」

■何がつらい?

「何しろ30年前に同じ芝居をやってるんだから、演技的に、つらいなあって感じる事はありますよ。
それとは別にとてもいいことは、相手が全部同級生でしょう。言いたい事をいえるわけ。
若い人が相手の場合には、どの様な演り方をされても、ちょっと言いにくい場合があります。
ところが、大人の相手ですと、日下さん、悪いけどそんな風に演られるとやりにくのと、いった形で
芝居を作っていけますからね。凄く楽しいかったんです。
お互いにエゴをむきだしにして、エゴと言うと悪い事のように聞こえますが、役者のエゴというのは
良い意味と悪い意味と両方あるでしょう。そのエゴをお互いにぶつけ合って、だから楽しかった」

■藤野さんはどういう生き方をしていきますか?

「これからの生き方とおっしゃられても、今までとおなじでしょう。変わりませんよ。
今までずっと上を向いてやってきたわけですし、いつだってそうしていく気持ちには変わりありません。
下に追っかけられないように、自分に厳しくして一所懸命にやっていくしかない。
若い人と一緒になっては負けですから追いつかれないように、たえず努力して、そして矢張り
劇団四季の藤野節子として四季を背負って行って恥ずかしくないように生きて行きたいですね」

藤野節子さんの舞台は、飛行館ホール、中労委ホール、一つ橋講堂、第一生命ホール、東横ホールと
今は無い懐かしい劇場の少ない時代だったが、舞台の密度は役者の懸命に演じる姿は、今の若い役者に
見せたい気持ちだ。情熱に満ち溢れていたのだ。

そういえば、藤野節子さんが亡くなった時、日下武史さんが、これから初日の劇団のパーテイが
あっても藤野節子の居ない席では僕の居場所は?何処に行ったらいいんだろうと、つぶやいた一言が
創立メンバーの絆を感じさせた。


※無断転載・使用禁止


NEXT 次のページへ   BACK 前のページへ コーナートップ 出会いそれは人生の道連れ