─────────── 三月十三日。ホワイトディ前日。
「おはよう…」
「あ!イルカ、ちょうど良かった!連絡鳥飛ばそうかと思ってた」
「何?」
受付に入ろうと顔を出した途端、夜勤だった同僚に慌しく声を掛けられる。連絡鳥とは穏やかじゃない。軽く首を傾げる。
「うん。お前にさ、指名入ってる」
「今日?」
「何か、結構急ぎらしくってさ。昨夜遅くに三代目が直々に持ってらっしゃった。で、武川祇心って知ってるか?」
「たけかわ…ぎしん、様?」
同僚が依頼書を片手に見ながら不審げに口にした、聞き覚えのある名前に心臓がリズムを打つ。
「そう。依頼人なんだけど。知らないなら…」
「あ、知ってる。知ってるよ。前にも依頼受けた事があるし」
無理と知りつつ断りも辞さない雰囲気の同僚に慌てて告げる。断ったり、変に代理を立てられる訳にはいかない相手なのだ、その名は。
「そうか?ならいーけど。じゃ、これ依頼書。ドレスコードとかあるみたいだから」
「ん。解った。受付の代わりは」
「俺がこのままやるよ。この時期の残業はオイシイ」
「なんだかなぁ。じゃあ、後よろしく」
「おう。気ぃつけてな」
背中に同僚の声を聞きながら、来たばかりの受付所を後にした。
はぁ…。
里からイルカの能力の及ぶ限り急いで走り来た、火の国の中でも特に有名な観光地。少し奥まった山の、緩いカーブを描いた坂を登り切った所にある高級旅館に依頼人はいる。人目を避けて結界を張り、イルカにしては珍しいくの一装束の上に小紋を着込む。そして、手早く髪を整え、変化の術で顔の傷を消す。傍目には、ちょっと身なりを整えた普通の旅行者に見える筈。
裾捌きを気にしながら、それでも足早に坂を登る。流石に転ぶ訳にはいかないので、逸る気持ちを抑えつつ、ではあったが。
一般の女性を装う為、息が上がり過ぎていても、息が整い過ぎていてもいけない。また、殆ど人通りがないとはいえ、忍の速度で歩いてもいけない。適度に気を使い、漸くと登り切る頃、旅館の正門が見え始める。門の前に悠然と立っている長身を見つけた刹那、イルカの顔が柔らかく綻んだ。
「祇心様!」
知らず、弾んだ声が出てしまう。イルカの声にゆったりと振り向いた相手は、イルカを認めると微かに笑う。
「るい、走ると転ぶよ」
言いながら腕を伸ばし、走り寄るイルカが躓いたりしないよう、腕の中に容易く閉じ込めてしまう。
「道中は恙無く来られた?先に来てしまって気にしてたんだけど」
「えぇ。何事もなく。少しでも早く…と思って懸命に参りました」
「こっちは居ても立ってもいられなくて、朝からここに居たよ。…さ。中に入ろう?結構、良い部屋なんだ」
誘われるままに旅館の奥へと進む。
抱えられるようにして、手の行き届いた庭園を抜け、案内されたのは奥の離れ。瀟洒な外観から、この旅館内でもかなり上等な部屋だと知れる。人目に触れる事もなく室内へ入ると、ほ…、と息を吐いた。
「…結界張ったから、変化解いて良いよ」
戸を入念に確認していた相手に言われた刹那、ポウンと変化が解かれる。条件反射、とも言えそうな反応に揃って苦笑してしまう。
「お疲れ様。呼びつけてゴメンね?『真珠』」
「いいえ。貴方のお呼びならどこへなりと。『銀』さん」
イルカを当たり前のように膝の上へ抱え込み、くつりと笑うと変化を解く。外では黒かった髪が銀に戻り、イルカと同じく消されていた顔の傷も戻る。どんな姿でも見間違う事はないとはいえ、見慣れた姿に花が綻ぶような笑顔を向けた。
「どのようなご用件ですか?」
「密書の奪還。先だって盗まれた火の国国主の物でね。隠し場所までは判ったんだけど、ちょっと面倒な仕掛けがあって」
「…はい。承知致しました」
含んだ視線に当てられて、艶やかに笑う。カカシが偽名を使ってまでイルカを呼びつけるなぞ、『真珠』の用しか思い当たらない。それ故、イルカは必死に走って来たのだから。予想通りの内容に気を引き締める。
「まぁ、俺一人でも何とかなりそうだったんだけど、時間がね」
「時間?」
「うん。明日里に戻るにはちょっと手間取りそうだったから。それならイルカに来て貰おうと思ってね」
「明日って…何かありましたっけ?」
カカシの言葉が解らなくて首を傾げる。明日はただの平日。カカシが急ぐ要素はなかった筈である。
「明日、ホワイトディでしょ?先月、イルカには凄く甘いものを貰ったからお返ししないとね?」
「先月って…。あれは、別に…」
くつくつ笑うカカシに頬を染める。先月、バレンタインに渡したものは確かに甘かったけれど。でも、ホワイトディなんか気にする程のものじゃなかった筈なのだ。
「凄く嬉しかった。だから随分悩んだよ、何が良いか、て」
「そんな。あれはサクラ達に中てられただけで、お返しして頂く程のものじゃ…」
「嬉しかったよ?」
「う〜」
幸せそうに囁かれては、反論のしようがない。小さく唸ると、染まった顔を隠す為、カカシの胸に顔を埋めてしまう。
「それでね。一ヶ月悩んだ割にはこんなのしか思いつかなかったんだけど」
「何ですか?」
「今の任務終了直後から、明後日…十五日の帰里まで。俺の時間、全部、イルカにあげるよ」
「…え?」
困ったような口調で告げられた内容を聞き返す。
「任務入れないし、読書もしません。二日程度だけど、ここで、二人っきりで過ごそう?」
あげるなんて、本当は俺が一緒に居たいだけなんだけど。
そう、苦笑気味に続ける相手の顔を思わず凝視してしまう。そんな破格な事、あって良いのだろうか?何時だって、周囲に頼られ、期待され、責任に縛られ、息苦しい程の重圧を受け、誰より忙しい人なのに。
自分ただ一人にそんな長い時間を費やして、良いのだろうか?
「…え…と。イルカ?気に入らない?別に欲しい物があるなら…」
返事も瞬きも忘れ、ただただ見入るイルカに不安そうに言ってくる。その声にはた、と意識が戻る。
「あ。ちが…。そうじゃなくて。良いのかな、て」
「何が?」
「そんな長い間、二人きりなんてなかったし。カカシさん、忙しいのに」
任務最優先が当たり前すぎて、二人きりで長時間過ごすなんて滅多にない。それが二日も、なんて。いくらカカシ自身の言い出した事とはいえ、信じられる訳がなかった。
「俺がそうしたいだけだよ。…まぁ、他に思いつかなかっただけなんだけど。嫌?」
「いえ、嬉しいです。嬉しいけど…。良いの?本当に、大丈夫?」
「大丈夫。イルカこそ良いの?他に欲しい物とか、ないの?」
甘く請け負う声に、温かいものが溢れだす。乱調気味のリズムを刻み出す鼓動をなんとか抑え、首に縋り付く。
「ありがとう、ございます。凄い、嬉しいです」
「無理してない?」
「無理なんか!─────── …あのね?」
「ん?」
二人しかいないのに、声を潜める仕草に耳を寄せる。
『一番欲しい物を、ありがとうございます』
照れ臭そうな、甘い甘い囁きに破顔する。きゅう、と抱き締めて笑うと腕の中からも嬉しそうな笑顔が覗く。
「「ねぇ」」
ひとしきり笑った後、顔を見合わせると同時に口を開く。
「どぉぞ?」
「…あの、任務、ね?」
「うん。急いで、片付けちゃおうね」
二人で過ごす、甘い時間は、一秒でも長い方が良い。
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