19期
(1966〜68年度)

トーナメントの全国大会初出場
崇徳(広島)の前に1回戦敗退

タッチフット最後の幸せな世代

1969年卒メンバー
(◎は主将)
QB 石塚 哲士
 上野 康
 北山 恒
HB 久志本 隆正
FB 清水 一郎
HB 新保 祥一
◎須賀 潔
 武田 秀生
 萩原 時男
 三輪 昭夫

 われわれの代は1966年に入学した。当時の戸山高校は東大に毎年100人近く合格者を出す全国有数の進学校。都立高校の大学予備校化が批判され、高校受験改革がかまびすしく叫ばれていた時期だった。翌67年からは複数の高校グループ単位に合格者を決める学校群制度が導入され、長らく続いていた浪人卒業生のための"4年生教室"も廃止。われわれは、単独選抜だった旧制度の最後の入学者だった。

部員不足知らず、大量入部

 さて、入学時のタッチフット。当時、3年生が2人、2年生が5人しかいなく、到底試合ができる状態ではなかった。そんなことは露知らず、上級生必死の勧誘が実を結び、20人近くがタッチフットの門をたたいた。現在のOB名簿に記載されている同期の数は10人。そのうち、1年春に入部したのは、Tの私、E上野、QB石塚、G北山、HB久志本、HB新保、C武田、E萩原の8人、G三輪は社会勉強のため2年休学してわれわれと同じ学年となり、またFB清水はサッカー部からの転身組で、1年の終わりごろに入部した。毎年20人前後が卒業していく昨今と比べて少ないが、昭和30、40年代としては最大規模の人数だった。

 入部した多くが、タッチフットをアメフトと誤解して「カッコいい」と思い込んでいたのは間違いない。だが、すぐに間違いだった、と気づいた。入部して最初に言い渡されたのは「家でショルダーとヒップパッドを作ってこい」だった。全国でタッチフットをやっている高校は20校あるかないかの時代。防具を生産しても採算ベースに乗るはずもなく、スポンジに布を縫い付けただけの、はなはだ不格好なスタイルだった。

 練習は週3日。午後5時には、定時制にグラウンドを明け渡さなければならなかった。だから平日の練習は午後3時から約2時間。新入部員の数が久々に多かったので、張り切った新OBの篠原、田中、神田さんらが放課後になると、入れ替わり立ち代わりやって来てくれた。時にはOB3年目の只松、渡辺さん、2年目の岡田さん、1年目の桑原、陶浪、関さんらも来て、大にぎわいだった。上級生も少ない練習時間を補おうと、昼休みに集合をかけ、楕円のボールでキャッチボールを指示。これは後のことだが、午前7時過ぎに登校してブロック練習に取り組んだ時期もあった。

お目付け役は3年生芳賀さん

 上級生に比べて圧倒的に人数の多いわれわれ1年生に対するお目付け役は、3年生の芳賀さんだった。授業が終わって急いでグラウンド隅の部室に向かうと、もう芳賀さんが立って待っている。のんびり歩いて行こうものなら「ダッシュ!」と大声。体が大きく、おっかない存在だった。でも、芳賀さんにとって最後の試合となった秋の烏山工戦が引き分けに終わり、われわれ下級生は芳賀さんに「(勝てずに)済みませんでした」と謝った。今考えれば、前時代的な言動だったが、芳賀さんの目にはうっすら涙がにじんでいた。口の悪いわれわれは「鬼の目にも涙」なんて言っていたが、3年生秋の最後の最後まで練習、試合にフル回転してくれた先輩は、他に知らない。

1年生春から試合はフルゲーム

 ルールもおぼつかないまま5月初めには、西高で初試合。1年生は否応もなく試合に狩り出された。オフェンスのRT、6−2ディフェンスのDTとしてスタメン出場した私は、いきなりフルゲーム。この日から3年秋の最終試合まで、私がサイドラインに出たのは、頭を打って短時間退場した1度きり。ほかの同期も似たり寄ったりの状況だった。ルール上は交代自由であっても、攻守両面出場が一般的であり、特に戸山の場合、交代選手がいなかった、という事情も大きかった。部員が増えたといっても、両面スクリメージするのに必要な22人はなく、スクリメージと言えばOBでも加わらない限り常に片面だった。

夏は寄付金集めのOB訪問と合宿

 夏が来た。自由の利かない運動部生活に同期の1年生は少しずつ減少。その1年生が手分けしてOBの家を回り、1000円とか2000円の寄付金を集めた。入学前に初めて買ってもらった革靴は底に穴が開いた。8月中旬、黒磯での夏季合宿が始まった。参加者は11人プラスα。少人数で、地獄としか言いようのない苦しさだった。「練習中は水分厳禁」の時代。休憩時にバケツの水を頭からかけてもらい、したたり落ちる汚い水を口にふくんでのどの渇きをいやした。このつらい思い出が、みんなの脳裏にこびりついた。2年の合宿を前にして、「俺は行かないぞ」と不参加宣言する同期生が続出。67年入学の1年生も少なく、このままでは合宿が成り立たない。主将になっていた私は「頼むから合宿に来てくれ」とお願いする日々だった。

東京3位で全国大会切符

 高校2年生の67年、烏山工業に快勝、圧倒的に部員数の多い法政二高に引き分けて東京3位で秋のシーズンを終えたわれわれに、12月の冬休みに兵庫県西宮市で行われる第14回全国高校タッチフットボール大会出場の打診があった。実力的にはもっと強い代があったと思う。しかし、大学受験を目前にした3年生抜きで戦わなくてはならないこの時期の大会は、慢性的部員不足に悩まされていた戸山にとって実につらい。権利を獲得しながら多くの先輩たちは、この大会の出場を断念していた。ミーティングの結果は「出よう」。われわれ2年生9人と1年生4人に、3年生の兼高、菅原さんの2人も加わってくれることになった。こうしてトーナメントの全国大会初出場が実現した。11月末、調整のために三田高と練習試合をして40−0で大勝し、志気が大いに高まった。

広島・崇徳に、まさかの逆転負け

 校長室にあいさつに行き、2学期の終業式前日の12月24日、当時まだ新大阪までしか通じていなかった新幹線で関西に向かった。66年卒の篠原、神田、田中、67年卒の芳賀、吉岡らの諸OBも同行。関西学院のスポーツセンターの2段ベッドで1泊、25日に関西学院上ケ原のグラウンドで開会式を済ませ、広島の崇徳と対戦した。第1クオーター、先制されたが、第3クオーター、LH新保のTDとトライフォアポイントで8−6と逆転。それも束の間、崇徳に再逆転のTDを許し、8−12でそのまま逃げ切られた。「試合相手にも恵まれないチームに、東京で試合経験の多い俺たちがなぜ……」。敗北にぼう然とする間もなく、即刻帰京。帰りの新幹線の中は、まるで葬式だった。

 これからチームの中核になる1年下の学年は人数も少なく、われわれは3年生になるといっても引退の心境からは、ほど遠かった。「まだまだ」とやる気をわかしていた矢先の68年2月、戸山高校新聞にタッチフットの全国大会の試合結果が掲載されたが、その記事の下に「サッカー班、受験の壁に悩む」という記事。読んで腹立ちを覚えたのを、よく記憶している。

3年間、タッチフットを満喫

 3年生になって練習に出るメンバーは減ってきたが、春のうちはわれわれが主力であることに変わりはなかった。幸い1年生が粒ぞろいで人数もまずまず集まり、懸命にしごいた。秋の試合も大半の3年生は出場した。成績は前年とさして変わらぬ結果となり、また全国大会に、という話が出たが、今回は中心になるべき2年生が4人、あとは1年生ばかりとなったため、出場は辞退した。

 タッチフットからアメフトに転換されるのは、われわれが卒業した直後だ。われわれはタッチフットで3年間を満喫できた幸せな、そして最後の世代だろう。今でも、同期でよく酒を酌み交している。いつも話題になるのは卒業後30年以上になるというのに、苦しかった合宿の思い出ばかり。華やかな思い出になるべき全国大会出場は、なぜか語り合うことがあまりない。共に振り返ることができる3年間を持ったことは、人生の宝物だ。
 (1969年卒、須賀 潔)


試合記録
1966年
不明 
9月23日戸山20−8足立(秋季大会)
10月15日戸山6−26日大一高(秋季大会)
11月6日戸山6−12西(秋季大会)
11月13日戸山0−18日大桜丘(秋季大会)
11月19日戸山6−6烏山工(秋季大会)=1勝3敗1分、東京3位
1967年
4月29日戸山0−14足立(春季大会)
6月17日戸山0−26西(練習試合)
9月24日戸山28−6烏山工(秋季大会)
10月1日戸山6−6法政二(秋季大会)
不明
11月25日戸山40−0三田(練習試合)
12月25日戸山8−12崇徳(全国大会1回戦)
1968年
4月28日戸山8−12日大桜丘(春季大会)
5月11日戸山(引き分け)西(春季大会)
9月22日戸山8−6西(秋季大会)
戸山●−○日大一(秋季大会)
不明