20期
(1967〜69年度)

自信になった苦しい練習
思い出深いタッチ最後の公式戦

学校群適用1期生

1970年卒メンバー
(◎は主将)
HB 門脇 恭
◎北村 光清
 田辺 忠彦
FB 本田 茂








1967年に入学した我々は都立高校への学校群制度適用第1期生であった。自らの意志は届かない抽選で戸山に入学し、そしてタッチフット班に入部することとなる。当時はアメリカンフットボール自体が今ほどポピュラーではなく、テレビでもほとんど見る機会がない時代であった。入部前はタッチフットボールという競技名を知らず、アメリカンフットボールですら「ヘルメットと防具を着用するスポーツ」程度の知識しかなかった。

剛柔両面の勧誘

やせていたが、身長は高い方だったので、そこに目をつけた先輩方の強い勧誘を受け、全くの受動的な動機でスタートすることとなった。当時の勧誘は他の部と比較してもかなり強引で、しかも私へのアタッカーは剛柔両面であった。高校生には珍しく2年間の社会勉強休学経験をお持ち(年齢的には3年先輩)の三輪さんが駆使する巧妙で老獪な勧誘話術と、角刈り頭にギョロ目の須賀さんのスゴミに攻められ、入学直後で裏の事情等知る由もない私などイチコロであった。

面食らう規律の厳しさ

 入学直後の入部者は本田、川島、田辺、川又と私、遅れて門脇、松尾、神定らも入部してきた。入部してまず規律の厳しさには面食らった。毎日昼休みの部室集合は、自分の時間が持てず大いに不満であった。後には、その場をタッチフット以外についての知識・情報も得る貴重な場にさせて頂いたが。練習は想像以上に激しいもので、加えて私は不器用でもあり、生傷が絶えなかった。特に顔面のアオタンは目立つし格好悪いので、通学時は極力下を向いていたものである。アオタン頻度の多さに家族からも退部をすすめられたほどだった。そのなごりか、今でも姿勢の悪さを周囲から指摘されている。

 1期先輩である2年生は単に人数が多いだけでなく全員プレーセンスも良かったので、まさにチームを支える代であった。2年先輩の3年生は人数こそ少なかったが、練習には良く参加され気合を入れておられた。田中さん、篠原さん(いずれも66年卒)、吉岡さん(67年卒)らOBの方々も良くお見えになり、上下の結束の強さを感じさせた。たまに芳賀さん(67年卒)もお見えになったが、その時のチームには緊張感と恐怖感が一気に走ったものである。

死ぬまで忘れない夏季合宿

 この年の夏の合宿については死ぬまで忘れることはないだろう。準備段階としてのOBからの寄付金集めに関しては、OB住所録に沿って1軒づつ訪問するわけだが、本人不在でも家族の方にはキッチリと伝言されていて、極めてスムースに集金でき大変驚いた。当時のOB諸兄には改めて御礼申し上げたい。

合宿の中身については、事前に先輩から充分におどかされていたので覚悟はしていたが、想像をはるかに上回るものであった。ダミーや水の入ったバケツ運びから始まり、入浴・夕食後の基礎体力トレーニングで終わる日々の繰り返しであるが、およそ科学的とは言い難い「体力の限界への挑戦」「ド根性物語」といった言葉以外に適切な表現が思い浮かばない練習内容であった。さらに、名前はいかにも頭脳的練習のように見せかけた「ヘッドワーク」。四つんばいになり、合図に従って前後左右に這いずり回る練習のことで、これのどこが「ヘッドワーク」なのだろうか。炎天下に焼かれた小石で手のひらの皮が剥けても中断は許されず、なぜ傷口の中に砂をすり込まなければならないのか?と思ったものである。まさに地獄の黒磯1週間であった。時間割や練習メニューは伝統が作ってきたものだ、先輩達も耐えてきたのだ、と自分に言い聞かせながら挫折することなく、どうにか全うすることができた。

都立勢との試合で場慣れ

 そんな合宿も終わり秋のシーズンとなる。私はエンドとしてトレーニングしてきたが、1期先輩の萩原さん、上野さんが左右のサイドをガッチリと固めておられ、試合にはスポット的に出場させてもらったが、ポジションは主にガードであった。私立高は圧倒的な部員数で、かつ、見るからに強そうな図体や凶悪そうな風貌には正直言って圧倒され、気が付いたらプレーが終わっていた、という有り様であった。同じ都立の西や三田は自分達と似た雰囲気を持ち、彼らとの対戦で場慣れさせてもらった。このシーズンの締めくくりとして先輩達の努力の結果である全国大会にも荷物持ちとして参加させてもらった。結果は1回戦敗退でチーム全体が無念の思いで満ちていた。

同期の退部者続出

根性無しが多かったのか、練習が厳し過ぎたのか、拘束時間の長さに嫌気がさしたのか、同期の退部希望者が跡を絶たず、結局引き止めきれず2年生になるころには半減してしまった。本来は、これからは自分たちの代がチームを支えるべきではあったが、余りに人数が少なく継続して新3年生に依存せざるを得ない状況が続いた。更にこの年、父が重病を患い年末に他界するに及んで私も真剣に退部を考え、数ヶ月間迷った。最終的には、これまでの努力を途中中断したくはなかったし、ただでさえ少ない同期の人数も考え3年生になっても続けようと決めた。

その甲斐あってか、3年生として出場した公式戦、特に春・秋とも法政二高戦が思い出深い。詳細は1期後輩71年卒海老沢君の実況中継文「50周年に寄せて」をご参照頂きたいが、戸山の伝統プレーであった 「Criss Cross」 やそれをFakeとして使う「Slant Fake Pass」等が面白いように決まり、勝敗の結果はともかくとしても各プレー毎に日々の練習の成果を全員が共有できたのではないかと思う。

凝縮した3年間

 気がつくと30年強の時がたってしまった過去をこうして振り返ってみると、僅か3年間とはいえ、様々なことが凝縮された時代であった。最終的には同期OBが4人という自分たちだけでは練習すらおぼつかない寂しい代となったが、良き先輩・後輩を得て3年間を過ごすことができた。さらに、戸山タッチフット班最後の公式戦を自分自身の思い出として脳裏に刻むことができた。

 スポーツ理論に則った合理的な練習メニューであったかどうかは大いに疑問が残るが、心身両面にわたって随分鍛えられた。このような経験や思い出は、馬齢を重ねても困難に直面した際の心身両面での自信のベースになっており、他では代えられない貴重な財産となっている。その意味で、この紙面を拝借して先輩諸兄や同僚・後輩諸氏に改めて御礼申し上げるとともに、良き伝統は継承して行きたいと考える次第である。
 (1970年卒、北村光清)


試合記録
1967年
4月29日戸山0−14足立(春季大会)
6月17日戸山0−26西(練習試合)
9月24日戸山28−6烏山工(秋季大会)
10月1日戸山6−6法政二(秋季大会)
不明
11月25日戸山40−0三田(練習試合)
12月25日戸山8−12崇徳(全国大会1回戦)
1968年
4月28日戸山8−12日大桜丘(春季大会)
5月11日戸山(引き分け)西(春季大会)
9月22日戸山8−6西(秋季大会)
戸山●−○日大一(秋季大会)
不明
1969年
戸山○−●法政二(春季大会)
戸山●−○西(春季大会)
10月戸山12−20法政二(秋季大会)