18期
(1965〜67年度) |
3年生の12月、全国大会出場
タッチ認められず、1回戦で涙
得意だった退部希望者の説得
|
1968年卒メンバー (◎は主将)
|
---|
T | ◎兼高 泰正
|
FB | 小山 徹
|
QB | 小山 雄二
|
C | 菅原 彰
|
HB | 松村 茂
|
高校1年の夏休みの直前だったと思う。気が付いたら、汗臭い練習用のジャージを着て、グラウンドを走っていた。高校に入学した時の入部希望はテニス部だった。現実にテニス部に入部して2、3週間は、そこら中を走り回ったり、テニスコート端の体育館側で、球拾いをさせられたりした。素振りもさせられたが、コートの上ではなかった。
数少ない女子生徒とのコミュニケーションが持てる貴重な運動部を去って、わがタッチフットボール部に入部したのは、同級生だった菅原の強い勧めがあったからだ。もう一つ、中学時代の親友が、早稲田学院でアメリカンフットボール部に入っていたという事情もあった。
部室で感じた上級生の迫力
3年の篠原さんが入部試験のようなものをやった(確か100ヤード走を何本かやっただけだと思う)。この後「このスポーツは、体力がつくし精神力も養われる。何よりも格闘技だから、けんかが絶対に強くなる」と言われ、すぐに入部を決意した。当時部員は何人いたか覚えていないが、3年生が比較的充実していて、入部当時、部室に行くたびに先輩たちの迫力を感じたものだった。たった2人の2年生の中にも怖い芳賀さんがいたが、もう1人の吉岡さんは面倒見が良く、そのやさしさが他の上級生と好対照だったのを忘れることができない。
私は169センチ、57キロの体だったが、Tになった。最近の高校生は、体が大柄になっているので考えられないことだろうが、当時としては私の背格好でも十分、Tと言うポジションが務まったのだ。もっとも、黒磯での夏合宿が終えたころは、脂肪や余分な肉がそぎ落とされて、大分目減りしていたと思われる。
わけが分からないうちに終わった試合
ともかく、1年秋のシーズンからLTでデビューした。初戦は、正則か足立だったと思う。何がなんだかわけのわからないうちに試合は終わっていたが、RTの篠原さんとQBの関さんが始終指示を与えてくれていた。初戦の割には大したけがもなかったが、試合中2、3度、ムチ打ち状態になったのには驚いた。双方のラインマンの力が1カ所に集中することによって起きたのだろうが、まだ入部仕立ての1年生で、首の筋力が十分鍛えられていない私は、随分痛みを感じたものだった。
同期に菅原をはじめ、小山徹、小山雄二、松村、原(後に途中退部)と、体力も優れた、そうそうたるメンバーが揃っていたが、ポジションがタックルという理由で私がキャプテンを務めた(なぜキャプテンはTでなければならないか、よく分からない)。キャプテンはアップのランニングの時、一番先頭を走らなければならなかったのと、試合の時、レシーブ、キックを決めるジャンケンをするのが、大事な仕事だった。私はジャンケンが結構強く、その点ではキャプテンとしての面目躍如と言ったところだろうが、私がもっと得意としたのはクラブを辞めたいという部員の説得だった。最初は、辞めるという者を無理やり説得しても意味がないと思ったが、人数不足によって試合に出場ができなくなると困るので、そうも言っておられず、かなり時間をかけて粘り強く説得した結果、思いとどまってくれた人も何人かはいた。この私の技術を、次のキャプテンの須賀君が見事に引き継いでくれたのは何よりもうれしかった。これは決して冗談ではない。
私は1浪して大学に入ったが、体も大きくなく、フットボールを続けるつもりはなかった。それでも、前述の中学校時代の親友が学院から大学のアメフトへ入り、熱心に勧誘してくれたお陰で、再びフットボールと付き合うことになった。そのせいで、試合の記憶については、高校時代と大学時代とが混合して余り明確でない。
記憶鮮明な全国大会
高校時代の試合ではっきり覚えているのは、なんといっても高校3年の12月に西宮市で行われた第14回全国高校タッチフットボール大会である。なぜ、あるいはどういう経緯で全国大会に出場できたのかは全く記憶にないが、試合の記憶だけは鮮明である。対戦相手は、広島の崇徳。創部も比較的新しいと聞いていた。当たりは結構強かったが、歴史のある関西のチームと比べると洗練された感じはなく、勝てると言う感触を持った。
第3クオーター、戸山が8−6と逆転した直後、ドラマがあった。ランニングプレーで抜けられた。駄目だと思った瞬間、2年生のDB久志本が追いつきタッチした。審判の笛が鳴り、それでボールはデットとなった。いや、なるはずだった。久志本のタッチで相手のバックスの体が大きく揺れたほどだった。が、結果は相手方のタッチダウンと言う判定。後味の悪い試合となった。今であれば、抗議、退場ものだったかもしれない。しかし、試合後のコーチの言葉は、「審判の判定だから正々堂々受け容れよう。それがスポーツマンシップだ」であった。私たちは大いに不満であった。大声で抗議したかったとはいえ、従がわざるを得なかった。勝負に勝って、試合に負けた。今となってみればいい思い出であり、スポーツを通してでしか経験できない貴重な体験であった。
私は結果的に7年間フットボールと付き合ったが、フットボールを通じなけば体験できないことは、数多かったと思う。グラウンドを離れて30年近くたつが、今でも試合開始のあのキックオフのときの武者震いは忘れられない。
(1968年卒、兼高 泰正)
|