17期
(1964〜66年度)

新入生大量入部に安ど
2人でつないだ戸山の伝統の火

全国大会の東京初開催も部員不足で出場できず

1967年卒メンバー
(◎は主将)
E ◎芳賀元生
HB 吉岡健介






身長165センチ、体重56キロの私が、1964年戸山高校に入学後、タッチフットボール部に入る決意をしたのは、1年先輩の篠原主将と先に入っていた同級生の山下による熱心な勧誘があったからだった。小学生時代の一時期、父の仕事の関係で米国に在住、その際参加していた少年チームでフットボールの面白さを知っていたことも大きかった。だが、戸山のタッチフットボール部は想像していたものとはかなり異なり、体格に恵まれない私にはきついものだった。

ケガで戦線離脱、リクルートに奮闘

 1年生の夏の合宿は東大の駒場キャンパスで行われた。グラウンドの強烈な照り返しに耐え、夜は、筋肉痛を和らげるために日焼けした体に塗ったサロメチールがしみ、蚊にも刺されて、ほとんど眠れなかった。食事も普段の倍以上食べたが、ほとんどがエネルギーとして消費されてしまい、トイレに行って出てくるのはほんのわずかだった。救いは、練習後に飲む缶ジュースやカルピスのうまさと水風呂の気持ち良さだった。

 海外赴任中の父にタッチフットボール部に入部したことがバレ、猛烈に反対された。これに加えて、練習の苦しさが重なり、そのうち退部を申し出ようとしていた時、運命的なことが起こった。ダミーの間を抜けてから前方に転がされたボールをリカバーする練習で右肩を脱臼してしまったのだ。痛みもあったが、「父にはなんと説明しよう」という不安の方が大きかった。近くの外科校医で元通り腕が肩に収まった時の安堵感は忘れられない。しかし、このけがを機に退部の決意が固まったかというと、その逆だった。その後、しばらくはまともな練習ができなかったが、やはりチームメイト達が頑張っている姿を見ると自分も何か貢献しなければという気持ちになり、今度は自分が篠原先輩を案内して、1年生部員のリクルートを始めた。

 そこで目を付けたのが、当時野球部でキャッチャーをやっていた同級生の芳賀だった。私より二回りは大きい芳賀をわれわれは懸命に説得した。そして夏過ぎになって、将来彼を一番格好のいいポジション(QB または E)に付けるという条件で入部させることに成功した。

絶妙なエンドリバース

 65年、2年生になった私は、欠員補充としてのGではなく、陶浪、田中両先輩の交代でHBとして試合に出るようになった。当時のわれわれのフォーメーションはウイングTで、HBの1人がフランカーとして左右どちらかのTEの外にシフトしていた。パスの多用を狙ったものだが、3年生QBの関さんのボールは、もっぱらTEの加藤、神田両先輩や芳賀に向かい、私の役割はマン・イン・モーションに近かったように思う。このフォーメーションでの絶妙なプレーは、TEによるエンドリバースで、相手チームはその存在を知っていても、要所で使うとまず引っ掛かった。春季大会で、強豪日大桜丘に勝った試合で、このプレーが成功した時、相手の名物監督の悔しそうな様子を今でも思い出す。

タッチ初の那須合宿

 2年生の夏合宿は、初めて黒磯の那須寮を使った。前年、創立80周年事業として、グラウンドが完成、ようやくフットボールの練習ができるようになったからだ。少ない人数だったがT兼高、C菅原といった1年生が良く頑張り、中にはHB松村のように雨上がりの水たまりの水を飲んでまでついてくるツワモノもいて、驚くとともに心強く思った。

 その一方で、私の方は時々倒れては芳賀に背負ってもらって宿舎に戻るという情けなさ。それでも、全力を出し切ったという自己満足はあった。合宿後、帰京する列車の中で駅弁の釜飯を食べたが、実にうまかったのをよく覚えている。

 われわれの1年上の代は充実していた。卒業前に退部された方も加えれば、ほとんど全ポジションをカバーできた。われわれの代も一時は、E芳賀、T山下、G山口、C大野、QB中村、HBの私とスクリメージの半分を組めた。しかし、先輩達の迫力に圧倒されてか、次々と退部してしまい、2年の中ごろには結局、けがで一番苦しい時期を何とか通過した私と、後から入部してきた芳賀の2人だけになってしまった。

叱り役と慰め役

 部活中は、芳賀がフィールドキャプテン、叱り役、小生は渉外、慰め役と分担を決めた。正に部の存続を掛けての日々だったが、先輩OB方や、名簿には載っていないが、受験勉強で忙しい中、ボランテイアでマネージャー役を務めてくれた同学年の三浦協や伊藤勝久らからの温かい支援もあり、大多数の部員がついてきてくれた。もっとも、今の芳賀は「叱り役とは聞こえが良すぎる。授業が面白くないので、ストレスを発散しようと下級生にいろいろと無理を言った。恨まれているだろうな」と反省の弁。

 3年生に出てもらって秋の大会まではなんとか試合ができた。だが、11月末、法政二と引き分けてシーズンを終え、3年生が抜けるともうガタガタだった。この年の12月、それまで長らく関西で行われていた全国高校タッチフットボール大会が、最初で最後の関東(東京・駒沢)開催となった。だが、1、2年生だけで11人いない戸山には、千載一遇の機会も無縁だった。

部存続をかけ、入学式当日に勧誘

 迎えて3年生となった66年春。いかにして部を存続させるかということが問題だった。1年下の代を加えてもチームが組めず、試合にも出ることができない。なんとしても新入生を確保しなければならなかった。そこで、在校生の登校が認められていない入学式に新入生の勧誘を行った。戸惑いがちな新入生に、職員室から見えない校舎の陰でフットボールの格好良さを説明していた。すると、遠くの方で我々を手招きしている人がいる。なんと「イカ……」、いや伊原先生ではないか。万事休す。その年はタッチフットボール部の顧問を外れていた伊原先生からコッテリと絞られた。しかし、あまり叱られたという印象はなく、むしろ激励されたような気持ちだった。先生の心の底に、創部以来長らく面倒をみてきたタッチフットボール部に対する特別の思いがあったのではないだろうか。

 われわれの熱意が通じ、その年、1学年でチームが組めるほどの新入生が入部してきた。しかも、須賀、石塚といったその後の戸山のフットボールに大きく貢献してくれることになるメンバーが入って来たのだ。芳賀は最後の試合となった11月19日の烏山工業戦までプレーヤーをまっとうした。戸山の秀才イメージとはいささか異なるほどの体格、体力に恵まれていた芳賀は日大フェニックスの誘いも受けたが、アメフトのセレクションを受けて立教セント・ポールラッシャーズに進んだ。立教は前年の65年12月、甲子園ボウルで関学を破って大学日本一になった当時の最強チーム。戸山では稀有な、大学フットボール界から注目された選手だったと言えよう。

伝統の火は消えず

 OB名簿で卒業部員が2人というのは、われわれの代だけのようだ。輝かしい戦績を残すどころか、部員不足に泣いた代だったが、一つだけ誇りに思うのは、わずかな人数になってもなんとか戸山フットボールの伝統の火を消さなかったことだ。あの時、われわれが廃部のプレッシャーに負けていたならばGREEN HORNETS の誕生はずっと後になっていたのではないだろうか。

 社会人になって高校時代を振り返り、タッチフットボール部に入っていなければもっといろいろなことに時間が使えたのにと思うこともあった。しかし、あの3年間の鍛練があったからこそ社会人になっても頑張ることができ、掛け替えのない人生の友人や先輩、後輩と親しくなることができたように思う。
 (1967年卒、吉岡 健介)


試合記録
1964年
不明 
戸山10−12足立(春季大会)
9月6日戸山14−6西(秋季大会)
9月13日戸山28−14慶応(秋季大会)
9月20日戸山0−20足立(秋季大会)
10月4日戸山(不戦勝)烏山工(秋季大会)
11月3日戸山0−6足立(Bブロック1位決定戦)
1965年
不明 
5月9日戸山36−18西(春季大会)
6月6日戸山12−6日大桜丘(春季大会)
6月13日戸山8−36足立(春季大会)
不明 
不明 
11月30日戸山8−8法政二(秋季大会)
1966年
不明 
9月23日戸山20−8足立(秋季大会)
10月15日戸山6−26日大一高(秋季大会)
11月6日戸山6−12西(秋季大会)
11月13日戸山0−18日大桜丘(秋季大会)
11月19日戸山6−6烏山工(秋季大会)=1勝3敗1分、東京3位