16期
(1963〜65年度) |
足立に6−0
ブロック代表決定戦に惜敗
2年生の秋、けが人続出にも大健闘
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1966年卒メンバー (◎は主将)
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E | 加藤 信司
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E | 神田 克美
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C | 桑原 輝明
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T | ◎篠原 弘志
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HB | 陶浪 隆生
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QB | 関 義明
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HB | 田中 秀親
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FB | 松本 薫
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私は1963年の入学だ。当時、タッチフットボールは全く無名のスポーツであり、部員の確保は、常に大きな問題であった。新入部員確保のためには、まずどのような競技であるか、他の競技と比べてどこに魅力があるかを説明する必要があった。だが言葉で説明するよりは、百聞は一見にしかず。グラウンドに来て見学してもらい、体を動かすことの楽しさをアピールし、後はただひたすら個別にリクルートを行うのを通例としていた。
自分自身がなぜタッチフットボールを選んだのか、理由は思い出せない。あるいは確固とした理由など、なかったのかもしれない。ただ強いて理由を挙げるなら、同じ中学の体格の良い友人がリクルートされ、それに連れられて練習に参加したことや、そこにまた同じ中学の陶浪がいたことだろう。更に、1年上の主将であった岡田さんや林さんが熱心に勧誘を行ったこともある。入学した春に入部した同期は8人くらい。そのうち3年まで続けたのは私と篠原、桑原、加藤、陶浪の5人だった。
1年秋に心強い5人の入部
部員の確保の上で、新入部員の勧誘以上に難しかったのが、退部者の問題であった。現在の高校生も同様であろうが、勉強とクラブ活動を両立させることは言うは易く行うは難しであり、誰一人としてこのことに悩まなかったものはいない。
よく練習に来る3年生は古里、只松、渡辺光崇、田尻の各氏くらいとなり、2年生も次第に減って主将の岡田、林、渡辺宏の各氏が最後まで頑張ってくれた。われわれの代でも、1年次の合宿前までと、2年次の初めに、何人かがやめていった。特に、1年下の代では、彼らのうちの多くが2年次になってからごそっと抜けてしまい、試合もままならない状態に陥った。「去る者は追わず」で、特に慰留した覚えはない。しかし、われわれの代が幸運だったのは、1年後半になってから、主将の篠原がクラスの友人を5人ほど誘ってきたことであった。その中に神田、松本、関がおり、特に9月入部の神田は戦力の向上に大いにあずかった。もともとの5人にこの3人を加えた8人がOB名簿記載のわが同期である。
また、たとえ、3学年を合わせて試合をするのに必要な絶対人数を満たせたとしても、ポジションの問題がある。オフェンス人員とディフェンス人員の未分化は当然のこと、けが人が出ればラインとバックスさえも入れ替えあり、という状態であった。個人の運動能力特性に基づくポジション配置ではなく、体が大きいものがラインとエンド、その他はバックスといういい加減なもので、例を挙げればセンターの桑原のように、ラインの方がバックスよりも足が速いことさえ生じた。かような牧歌的時代もそれなりのメリットはある。試合には常に出場できるし、各ポジションが持つ特質を否応なく体験できた。
チームの指導は上級生が主体
チームの指導は、基本的に上級生だった。比較的よく足を運んでくれたOBは、われわれより4年上の三島さん、3年上の村松さんで、ときおり三島さんと同期の石井(現姓・琴坂)さん、久富さんがやって来た。日曜日の練習になると年に2、3回、創部OBの西川さんも姿を見せた。
1年次の前半は、ただダミーにぶつかり、ランニングやパスレシーブをしていた。体力及び技能に勝る2、3年生は皆大人に見え、彼らのレベルまで達することができるのかと不安と憧れを感じた。入学後間もない5月のある雨の日、2年生の岡田さんと林さんが黒板に十数個のオフェンスプレーを書き、プレーごとの各ポジションの動きをノートに写して覚えるように言われた。だが、試合を見たこともなくまた試合形式の練習をしたこともなく、プルアウトでとるとか、穴をあけるといわれてもイメージさえ浮かばなかったことを思い出す。3年生が引退した1年次の後半からスタメンで試合に出場をしたが、相手がどこで勝ったのか負けたのかも、よく覚えていない。
灼熱の東大駒場合宿で猛練習
初めての合宿は、異常渇水下の東大駒場グラウンドであった。同期の1年生は、5人が参加した。散水ができず、土ぼこりだらけの灼熱のグラウンドで、水も飲まずに2〜3時間の練習を行った。よくぞ脱水症状を起こさなかったものである。足はパンパンに張り、階段をはうようにして上り下りをした。2年次の合宿も同様であり、その厳しさは後に「大学の合宿のほうが楽だ」と神田に言わしめたほどであった。今から考えてみると、合理性にかなり欠けた練習方法であったようである。宿舎は、井の頭線沿いの池の上駅寄りに位置した東大のOB会館(?)であった。地理的な便利さもあり、創部時代の大先輩から伝説の甲子園ボウル出場者と、多数のOBが同窓会を兼ねてやってきた。練習後は、駒場寮の風呂を使い、食事は駅の向こう側の商店街にある肉屋でとった。朝から真っ赤なソーセージが出てきたのを今でも思い出す。
2年の後半から責任感と連帯感
64年、2年次の後半になると、自分たちが部活を担うという責任感が生まれ、同時に同期の連帯が急速に高まった。加藤とは通学が同じ京王線であったこともありよく一緒に下校していたし、土曜日の練習後は、高田馬場で何かを食べて帰ったものである。試合では、都立西高や日大桜丘と戦った記憶があるが、勝敗の結果は覚えていない。勝敗で鮮明に覚えているのは、2年次の秋だと思うが、冷たい雨が降る中での対私立足立高戦である。初めて行く三河島にある彼らのグラウンドは、水はけが悪く水溜まり状態であった。そこで面白いようにパスプレーを通された。パスと判ってボールを追っても、いとも簡単に頭上を越えていった。後に分かったことだが、その時のQBは、明大へ進んだ桜田選手であった。FBを務めた私が負傷退場、3年生QB林さんが指を捻挫のおまけをつけて、結果はボロ負け。力の相違を嫌というほど見せ付けられ、惨めだった。
足立には完敗、練習中にエンドの副将・加藤の右中指骨折というアクシデントもあったが、この秋のリーグ戦は3勝1敗。西高に負けた足立と同率となり、ブロック1位を決めるため足立と再戦、僅差で敗れた。足立は決勝で法政二高を破り優勝している。となるとわれわれもそれなりの成績を残した、と言っていいだろう。3年生のこんな時期まで頑張ってくれた岡田、林さんの力も大きかった。
下級生の部員不足に心残して卒業
65年4月、3年生となり、春の大会までクラブを続け、篠原、神田、関らは秋まで試合に出ていた。だが、次のチームを託すべき1、2年生が合計しても11人に満たず、大きな不安を残したまま、新1年生の入部に期待して66年3月、卒業となった。
2年と3年の時には、冬の全国大会に出場する権利はあったと思う。われわれより成績の劣る学校が出ているのだから。なぜ、出なかったのか。今となってはおぼろげな記憶しかなく、理由は定かではない。例え、出場資格があったとしても、特に3年生の時は部員数不足で出場することはできず辞退しただろう。
まだら模様になった記憶をたどると、そこにあぶり絵の様に浮かんでくるのは充実感である。楽しさ、苦しみ、喜び、無念さが交差して初めて、充実感が生まれてくるのだろう。高校時代にそのような時と友人たちに出会えたことを、感謝せずにはいられない。
(1966年卒 田中 秀親)
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