15期
(1962〜64年度)

2年秋、無念の関東準優勝
快進撃も、最後で日大桜丘に涙

卒業2カ月前までプレーヤー

1965年卒メンバー
(◎は主将)
◎岡田 健
E  小野 吉彦
C  新川 哲雄
E  永嶋 正和
QB 林 雅博
HB 渡辺 宏

OB、3年生は甲子園経験者

私たちの代は、3年連続の甲子園出場を逃した翌年の62年春に戸山に入学した。同期は10人前後。私は一足早くタッチフットボール部に入っていた同級生の岡田から話を聞いて興味を覚え、入部した。OBになって間もない川上さん、石井さんから熱心に指導していただいた。3年生の田辺、神山さんらも素晴らしい能力を持った、よき上級生だった。いずれの方も甲子園ボウル出場メンバーだった。 以後、卒業するまでフットボールに明け暮れていたのだが、40年近くが経過し、当時の記憶があいまいで「われらの3年間」を思い起こすのに苦労した。そこで、当時の生徒会誌「学生公論」の班活動報告を通じて3年間を振り返ることをお許し願いたい。

[1962年度]
揺れた春秋の公式戦

《(前略)春休み以後春のトーナメントを目標に、新しく入った1年生の班員を10名ほど加えて、本格的な練習が始められたが、前年秋のトーナメントにおける?校の高校生らしからぬ態度などが問題となり、春のトーナメントが行われるかどうか怪しくなった。そのため、練習方針も1年生にフットボールを理解させることに重点が置かれ、4月21日には、対慶応戦が行なわれた。 この試合では、フットボールを始めてから1カ月足らずの新1年生ではあるが、早くフットボールを知り試合に慣れさせるために、後半に入り続々と出場させた。中にはこの日入班し、初めてフットボールを見たという班員までいた。続く日大一高戦が行なわれ、圧勝した。
その後も例年なら6月の終わりごろから再び基礎の練習に入るのだが、前記の方針で、7月の初めまでボールを使う練習を行った。8月初めの東京大学駒場での夏季合宿は、参加者17名で、1、2年生の技術面、主にプレーは行わず、フットボールの基礎を主体として行なわれた。
試合を棄権
秋のシーズンに入っても、トーナメントの有無がはっきりしないまま、オープン戦として、第1戦、対西高戦が10月13日行なわれた。ほとんど1、2年生で行ったこの試合は、はっきりしない諸事情を原因とする練習のたるみがたたり、敗戦を喫した。その後、公式戦としてではなくオープン戦としてトーナメントが行なわれることになり、第1試合の対足立学園との試合は、90−0と大勝したが、第2試合は前年の秋季トーナメントにおいて優勝しながらその試合態度、その他で問題となり、関西で行われた甲子園ボウルにおいても関東フットボール協会幹部の責任辞退問題等、多くの問題を残した学校とであったので棄権した。》

チームワークで戦力ダウンカバー

63年春、2年生となりQBのスターターとして試合に出場するようになった。同じ中学出身の篠原らが入部し部員も増えた。戦力的には大きくダウンしたが、岡田新主将の下、チームワークでカバーしてシーズンに臨んだ。

[1963年度]
《今年度の初めにたてた目標は、班創立以来の願いである全国制覇であったが、その試金石である全国大会への出場が、その大会が公式試合ではないということから不可能になった。それならせめて関東の覇者になろうと、この9カ月間激しい練習を続けてきたのである。 春のリーグ戦では、我がチームは技巧、チームワーク、共に例年のそれに比べ劣っていたにもかかわらず、他校のチームが、それにもまして劣っていたため、好敵と思われた西高との戦いにも8対0で勝ち、他の全試合にも、失点0で楽勝し、日大桜丘と並んで首位
 合宿は例年の如く、東大の駒場グラウンドで行われた。目的は体力の向上、基礎的技術のマスター、班員相互のつながりを強くする……等にフット・ボールの「基本」となるもので、この成果次第で秋のシーズンが決まるといってよいものである。結果はかなりの成果があったが、しかしチーム・ワークの点では出来ていなかった。これが秋のリーグ戦の終わりまで尾を引いた。決勝戦での敗北の原因となったと思う。
日大桜丘戦前までは無失点
秋のリーグ戦では春同様に戸山40−0日大一、戸山58−0正則、戸山1−0早稲田、戸山30−0足立と無失点で決勝戦に進んだが、なんとなく戸山0−30桜丘で敗れたのである。この時のくやしさを忘れず、この冬から地道な練習の成果を積み上げて来年こそは関東一になろう。
我校のタッチフット班は他校にくらべ、大きな練習量の差がある。しかしそれは賢明な頭で克服できるものであると思う。またそうしてやらなければ我校のタッチフット班はだめなのである。》

1年生退部続き、部員減少

3年生になった64年春、私は相変わらず練習、試合に出続けた。入部した1年生が次々と退部、部員数もギリギリになったため、真夏の水不足の中、東大駒場で行われた合宿にも参加した。チームの中心は、2年生に移ったが、3年生の私も1部員としてチームに加わっていたので、64年度の活動も以下に紹介しておきたい。

[1964年度]
《(前略)春のシーズンは準備の整わないうちに始まった。2年は試合経験も浅く、試合に対する自信のなさが目立っていた。足並みの乱れたまま、対足立高校戦には12対10と逆転負け。これによって今まで残っていた僅かな自信も無くなってしまった。「クラブ再建」を目標に練習に練習が続いた。自信のない練習ほどつらいものは無い。春のチームの状態は敗北感が漂って、風紀も乱れがちだった。1年も相次いで脱落していき、人数をそろえるのに苦労した。
合宿ではポジションを大幅に変更した。不安ではあったが、人数の点から仕様がなかった。体力的に去年よりも劣り、しかも真夏の水不足騒ぎの東京での合宿は去年よりは軽いとはいえつらい事に変わりはない。ただこの合宿でようやくOBの人から、「フットボールらしくなった」という言葉を聞く事ができた。
足立に屈す
秋のシーズンは予想に反して9月の初旬から始まる事になった。それを知ったのが8月の終わり頃で、しかも9月6日、13日、20日と連戦の強行日程で非常な苦境に立った。
この中のどれ一つとして勝てる自信は正直いって無かった。OBも期待はしていないようだったが、「全力を出して1試合ずつ強くなれ」と励ましてくれた。試合経験も2年生は少ないし、ポジション変えをしたばかりでは、戦いながら強くなるより外にない。6日の西高戦は14対6で逆転勝ちを収めた(中略)続く慶応戦でも28対14と逆転勝ち。この時は全員まとまって自信をもって戦い、Bブロック優勝は確実と思われた。ところが(中略)20対0と足立に完敗した。烏山工高に不戦勝の後、試験明けの10月31日にBブロックの決勝戦で再度足立高と戦い6対0で敗れた。試合終了寸前に審判のワンタッチの判定が、協議の結果くつがえされて、足立の得点となったもので、(中略)非常に納得し難い決定だった。足立が関東で優勝した事を思うと一層残念になる。(中略)
今年は伝統を回復したとは言えない。しかし、立ち直ることはできた。来年は文句を言わせない試合をやって優勝旗を一度手にしたい。戸山は他校と比べて練習量では完全に最下位である。その上勉強との両立の問題もある。しかし、それを克服した上で優勝することに喜びがあり誇りがあるのだと思う》

3年生の冬休みも練習

 正月のライスボウルの関東高校選抜対抗戦に選ばれたため、3年生の冬休みまで練習を続け、ようやく高校3年間のフットボールが終わった。

 大学では同好会でフットボールをやり、大学卒業後もOBチームで30歳までプレーした。戸山のタッチは私の人生に対しても大きな影響を与えた、と思っている。
 (1965年卒、林 雅博)

おことわり 戸山高校新聞と学生公論の記録が異なる部分があるが、試合記録は戸山高校新聞に従った。


試合記録
1962年
4月21日戸山36−24慶応(春季大会)
戸山76−6日大一高(春季大会)
不明 
10月27日戸山6−20西(秋季大会)
11月10日戸山90−0足立(秋季大会)
11月戸山(不戦敗)日大桜丘(秋季大会)
1963年
5月18日戸山8−0西(春季大会)
6月14日戸山74−0烏山工(春季大会)
9月24日戸山40−0日大一高(秋季大会)
10月5日戸山54−0正則(秋季大会)
10月戸山(不戦勝)早稲田学院(秋季大会)
10月26日戸山25−0足立(秋季大会)
12月1日戸山0−26日大桜丘(秋季大会決勝)=関東準優勝
1964年
不明 
戸山10−12足立(春季大会)
9月6日戸山14−6西(秋季大会)
9月13日戸山28−14慶応(秋季大会)
9月20日戸山0−20足立(秋季大会)
10月4日戸山(不戦勝)烏山工(秋季大会)
11月3日戸山0−6足立(Bブロック1位決定戦)