14期
(1961〜63年度)

3年秋は日大桜丘戦に苦杯
3年ぶりの関東制覇を逸する

2年連続甲子園の後に入学した世代

1964年卒メンバー
(◎は主将)
FB 田尻 康
QB 只松 民雄
 古里 節夫
HB◎本位田 望
HB 渡辺 光崇

 高校に入ったらラグビーをやろうと、漠然と思っていた。小さいころからスポーツ好きだったこともあるが、旧制高校のラガーメンであった父に物心つく前から、訳の分からぬままに秩父宮ラグビー場に随分と連れて行かれたことが、ラグビーに親近感を抱かせていたのであろう。

 アメリカンフットボールについては、中学時代に映画館でのニュース、あるいは普及し始めていたテレビのニュースで放映されるその迫力のあるプレー、熱狂する大観衆の映像を見て、かなり興味をひかれていた。また、中学時代の担任だった体育の先生がラグビーやアメリカンフットボールが好きで、職員室に置いてあったアメフトのボールを持ち出して、よく校庭で遊びながら簡単な基本動作を教えてくれた。だから、中学時代既にアメフトのスピンをかけたパスの投げ方を会得していた経験も、興味の眼を向けさせたのだと思う。もっとも、先生からは高校の進路指導に当たって「戸山に行ったらタッチフットボールが出来るぞ」とは一言も教えてもらった記憶はないし、その後、長いフットボール生活を送るとは夢にも思っていなかった。

はつらつと練習していたタッチフット

 1961年、戸山に入学した。ラグビー部があるのか、ましてやタッチフットボール部があることなど知らなかった。初志のラグビー練習に参加したとたんに、潜在的にとても興味のあったに違いないアメリカンフットボール(タッチフットボール)が眼前に現れた。その時に、同じグラウンドで練習するタッチフットボール部員の動きを横目で見ていて、彼らが私の目にはとても生き生きとして新鮮に映ったことを覚えている。しかも戸山のタッチフットは、59年、60年と2年連続して高校王座決定戦である甲子園ボウルなるものに出場している強豪チームであるとの事。ラグビー部の連中は皆いい奴で、申し訳なかったが、タッチフットに気持ちがグングンと引きずり込まれてしまった。全国制覇を目指す意欲、プライドがフットボール部員にみなぎり、それが生き生き、はつらつとした練習に現れており、その雰囲気が私をひきつけたのだと思う。

 ラグビーの練習に身を置きながら「何か違うな。自分の求めているのはこっちだ」と、いとも簡単に初志転向し、ラグビー生活2日にしてタッチフットボール部へ入部。「よし。俺も甲子園に行って、関学を倒したい」という気持ちがムクムクとわき起こった。同期で一番先だったかどうかは、よく覚えていないが、OB名簿記載の5人は4〜5月には入部していたと思う。

3年生は甲子園ボウルメンバー

 入学時の3年生は前年に出場した甲子園ボウルの主要メンバーで、迫力があり、新入生からみれば"オッサン"みたいだった。神山、田辺、村松さんら2年生は1歳しか違わず、ずっと親近感があった。

 当時の練習内容は、今にして思えば何とも非科学的メニューもあったが、当時は科学的なトレーニング理論も少なく、大学レベルでも似たようなものであったと思う。四つんばいでやるヘッドワークはフットボール的アジリティーの練習として有効だったが、なにせ戸山のグラウンドはことのほか硬くかつジャリジャリであり、手の皮が擦りむけてしまい往生した。よく破傷風とかにならなかったものだ。

 今でも同期の皆と昔話をすると「何で軍手をしてやらなかったのかね?」と往時を思い出し笑ってしまう。もっとも、同期の渡辺によると、西高のグラウンドは戸山に輪をかけて硬さとジャリジャリの程度がひどく、後年「あんな所では二度と試合をしたくないと思った」と証言している。QBゆえにか、そんな記憶のない私は「上には上(下には下?)があったんだ」と妙に感心したものである。

 夏の炎天下、練習中に水分をとらないことが、当時のいわゆる「常識」「定説」だった。練習終了後にヤカンおよびバケツの中に水・氷・シロップで作られた、思えば実に乱暴な飲み物を憑かれたように飲み干した、あの至高の瞬間はいまだに忘れられない。しかしマア、よく脱水症とか熱射病の事故にならなかったものだと感心するとともに、そのような大事にも至らず、伝統ある部が現在存続する幸運を感じざるを得ない。

西川、細見先輩の情熱と理論

 夏の合宿は3年間、東大駒場の施設を利用した。宿泊場所になぜか布団はなく、貸し布団を調達するという発想もなく、講堂みたいなところでゴロ寝していた。用意のいい部員がビーチマットみたいなものを持参していた。汗に濡れた肩のプロテクターを練習の合間に干しておくと、汗と泥でガワガワに硬くなった。アンダーシャツを着ていないものだから、次の練習で乳首がプロテクターに擦れてヒィーヒィー痛がっていた部員もいた。この合宿前、手分けしてOBの自宅を訪ね、寄付金(OB会費という形はなかったと思う)を頂戴に歩いた。OBも自宅まで来られると、快く払ってくれた。原始的だが、効果的な制度だ。

 同時代の人は皆同じ気持ちであろうと思うが、当時指導していただいた西川、細見の両先輩の情熱、卓越した理論、献身的努力には今もってただただ敬服するとともに感謝している。両先輩に教えられ、鍛えられたフットボール理論・技術・精神は、その後の大学のフットボール生活でも十二分に通用した。時代は違うとはいえ、指導者として両氏のレベルに匹敵する人は、現在の日本の高校指導者に当てはめても、なかなか見当たらないとまで思う。

 西川、細見さんがしばしば戸山のグラウンドに来られた時、校舎の陰から白いパラソルを差した若い女性が練習を見ていたことが何度かあった。お二人が帰ると、パラソルの女性も姿が見えなくなった。距離があり、こちらもフラフラの目で見ているので、どんな女性だったかははっきりしていない。お二人に関係あるかどうかもはっきりしていないが、白いパラソルだけは目に焼き付いている。

 お二人以外にも多数の諸先輩がグラウンドに、合宿に、と本当に良く足を運んで熱心に指導してくれた。高校を卒業、ろくに勉強もせず浪人していた私を慶応大学の体育会推薦にしてくれ、再びフットボールに誘ってくれたのも戸山の先輩、同期生だった。その後の人生を振り返ると感謝でいっぱいだ。

学習院女子学生への淡い期待

 練習開始前、隣の女子学習院のグラウンドで声が聞こえ始めると、わざとボールをけり込み塀を乗り越えて取りに行ったものである。歳相応の稚気からのイタズラであるが、内心抱いていた淡い期待の縁結びにつながる特段の成果は誰も皆無であった。

 当時、渋谷からトロリーバスで通学していたが、朝の満員車内の過半は戸山と女子学習院の生徒であった。運良く座席に座った生徒は、目の前に立つ相手がどちらの生徒であれ、立っている人のカバンを膝に載せて持ち合うという麗しい慣習があった。しかしながら、それを切っかけに話が弾むという光景を見たことはなかった。そもそも、同級あるいは年次の近い先輩、後輩で学習院の生徒と結婚はおろか、当時お付き合いをしたなどという話すら聞いたことがない。あれだけお互いの人数・機会があったのに不思議なことである。「今時の高校生なら……」と言ったら現役諸君にお叱りを受けるかもしれぬが、当時のわれわれがウブであったのか、むこうが「戸山のイモ……」と思っていたのか、よく分からない。

学年を超えた結びつき

 部員は1学年5〜8人の時代。人数不足を思った記憶はないが、そのくらいが当たり前だったのだろう。体力、性格、勉強などを理由にやめていった部員もいたが、特に引き止めた覚えもない。2年生になっても、大した部員勧誘をした記憶もない。自主的に入部した部員が友だちの輪で他の者を引きずり込んだ、というのが真実かも。人数が多くないから入学したばかりの1年生でも試合に出るし、3年生でも普通に練習、試合に出る。1年上と下は一緒に戦うチームメートであり、学年を超えた結びつきという戸山らしさが、遺憾なく発揮された。

 私は1年の時がガード、QBは2年生の田辺さんだった。しかし、足が比較的速かったこと、パスが投げられたことで、2年生になってHB兼務ながらQB。3年になった時、1年下のQB林がおり、試合によってはQBを林に任せ、私はHB、FBに入ったこともあった。甲子園ボウルに出た3年先輩の川上さん、また田辺さんにしても、冷静、沈着かつ、すらっとした体型で、プレー中の身のこなし方は、いかにも典型的QB。それに対して、私は体型も短躯(タンク?みたい)であり、QBとしては見映えのしないタイプだった。

点の取り過ぎも「くたびれる」

 当時の競技人口が少なかったという事情はあるにせよ、戸山は強かったと思う。1年、2年の時の試合については、当時の上級生が皆3年生までプレーを続けていたので、その年次の方々にお任せするとして、3年生だった63年の試合を思い出してみる。

 春季リーグ戦、烏山工業戦のエピソード。彼我のレベルの違いもあったが、確か戸山キックオフレシーブ後の第1ダウンの攻撃でハンドオフプレーでいきなりロングゲインTD。先方の攻撃はすぐに第4ダウンでパント、当方攻撃はハンドオフプレーで一発TDの繰り返し状態となった。HBの渡辺、FBの田尻にしてみれば、すぐ攻撃が回ってきて長いヤードの独走を繰り返し強いられる展開に。彼らの顔は疲労で青ざめ、ハドルの中でプレーコールするQBの私に向かって「ハアハア、ゼエゼエ。もういい。走れない。ボールを持たせないでくれ」と泣きそうな目で訴えているのがおかしかった。こんな経験は1、2年の時もないわけではなかったが、「点の取りすぎも身体に悪い」。

日大桜丘戦で幻の先制TD

 最後の秋のリーグ戦。各試合を余裕の零封・完勝で最終の決勝戦である日大桜丘戦を迎えた。当日の天気は良かったはずだが、なぜか試合会場の日大下高井戸グラウンドのフィールドは一面かなりヌカるんでいた。結構足を取られ、硬い戸山のグラウンドで高速プレーに磨きをかけていた当方としては、イヤな感じがした。

 試合開始後、前半の早い時期に自陣からFB田尻が左オフタックルプレーで抜け出し、ダウンフィールドで右にカット、右タッチライン際を独走となった。誰もが先制TDと確信し、私も「田尻はセンスの良い走りをするな。この後のTFPはパスあるいオープンプレイどちらにするかな」と考えながら余裕でゆっくりとエンドゾーン方向へ走り出した時、なんとエンドゾーン付近で審判がTDではなくボールデッドのシグナルをしているではありませんか。「バッ、バカな」と目を疑った。

 FB田尻の試合後談によれば「あのグラウンドはヒッデーぞ。エンドゾーンは草がボウボウ生えていてゾーンの外だと思った。手前でエンドゾーンに入ったと思いスピードを緩めたらタッチされた。ワリイ、ワリイ」とのことであった。こんなこと、皆さん信じられますか?

 絶好の先制機を逃し、ゴール前の攻撃もQBの私のプレー選択が悪く詰め切れず、その後、逆に相手にTDを取られ、当方の歯車は終始かみ合わず、結局この年の春秋を通じて最初で最後の敗戦(記録では0−26)で3年間の戸山フットボールは終わった。試合後は涙も出ず、「アー、終わったナ。」という程度の感じだった。

 少し後になって「QBとしてはあのグラウンド状況を冷静に判断して、もっとフライTフォーメーションを生かしたプレーコールがあったな。それまでほとんどの試合がランニングプレイで面白いようにヤードゲインができるので、試合でもリスクのあるパスを控えていた。結果として本来のパスプレーの磨きがおろそかになっていた」としばらくの間、反省を繰り返した。

 俊足HBの渡辺も「負けて言い訳しても仕方ないが、あの試合はグラウンドに足をとられ全く駄目だった。何であんなにグチャグチャだったのかネ。戸山のグラウンドでやったら展開も違っていたのに……」と後々まで言っていた。

「関東優勝」目指して3年秋まで

 われわれが3年のこんな時期までタッチフットをやっていたのは、「関東のチャンピオンになりたい」という気持ちからだった(受験勉強から逃避していた言い訳かもしれないが)。東西の高校チャンピオンで争う甲子園ボウルの高校王座決定戦は2年の時になくなり、トーナメントの全国大会に一本化されていた。われわれも日大桜丘に負けて準優勝、当然、全国大会に出場する権利があったと思うが、「関東決勝で負けたのだから、これで終わり」という気持ちだった。

 戸山という学校はある意味で特別の学校であったかも知れない。それなりの人材が集まっていたこともあるが、いわゆる「スポーツ馬鹿」はいなかった。他校によくある「無理偏に拳骨」あるいは「無意味なシゴキ」とは一番縁遠い学校であった。「頭の理解」と「肉体による実践」を全員が可能にし得る、希有な学校であったと思う。

 さらに、戸山の中では数少ない、それなりの戦績をあげている部としてのプライドが、15〜18歳のまだ完成していない肉体にキツイ練習を耐えさせ、レベルの高い水準を保たせたのだと思う。伊原先生から時々キツイお小言を食らったり、他の先生からも「こんな成績では、クラブ活動はやめたら」とか言われ、当時は反発したものだが、今にして思えば「まず学生たれ。学業・行動の面で高校生の本分を尽くし、その上でのクラブ活動である」という、先生にしてみれば当たり前の諭しであったと思う。

「何でも言える友」が人生の宝

 器用で図太いFB田尻、強靭な体力でラインを引っ張ったC古里、1年から活躍した超大型アスリートのHB本位田、細身で俊足の典型的なバックスタイプのHB渡辺……有能な同期たちと同じグラウンドに立てたことを誇りに思う。3年生の時は、C古里以外のラインメンは1、2年生だったが、良く頑張ったと感謝したい。慶応の偉大な先輩、小泉信三さんがかつて体育会の記念講演で「スポーツをやることによってえられる三つの宝」というテーマで話されたテープを聞いたことがある。その一つが「友」である。高校、大学のフットボールを通じて「何でも言える友。何を言っても誤解されない友」をたくさん持てたことが、人生の何よりの宝だと思う。

 出来の悪い生徒であり、学校に反発心を持ったこともあったが、今思えば多士済々の面白い人材がいた学校であり、懐かしい。ちなみに私の妻は高校2年の時の同級生である。
 (1964年卒、只松 民雄)


試合記録
1961年
4月30日戸山108−0正則(春季大会)
5月3日戸山34−0日大桜丘(春季大会)
5月7日戸山78−8日大一高(春季大会決勝)=関東優勝
10月 戸山46−6日大一高(秋季大会)
10月 戸山48−0慶応(秋季大会)
11月5日戸山14−20西(秋季大会)=関東Aブロック2位
1962年
4月21日戸山36−24慶応(春季大会)
戸山76−6日大一高(春季大会)
不明 
10月27日戸山6−20西(秋季大会)
11月10日戸山90−0足立(秋季大会)
11月戸山(不戦敗)日大桜丘(秋季大会)
1963年
5月18日戸山8−0西(春季大会)
6月14日戸山74−0烏山工(春季大会)
9月24日戸山40−0日大一高(秋季大会)
10月5日戸山54−0正則(秋季大会)
10月戸山(不戦勝)早稲田学院(秋季大会)
10月26日戸山25−0足立(秋季大会)
12月1日戸山0−26日大桜丘(秋季大会決勝)=関東準優勝