13期
(1960〜62年度)

QBけがして西高に涙
甲子園ボウル3年連続出場ならず

常勝・戸山の看板背負って

1963年卒メンバー
(◎は主将)
HB 神山 照弘
 庄田 安豊
QB◎田辺 充夫
T  野本 道夫
T  村松 芳雄

 私たちは、戸山が関東を制覇し甲子園ボウルに初出場した翌年の1960年、入学した。私は野球部に入ろうとしたものの、練習ぶりが今一つで、その気になれなかった。どの部にも所属していなかったが、入学して2、3カ月後、同級生で先にタッチフット部に入っていた田辺から誘われて入部した。フットボールについての知識は皆無だったが、「甲子園に行くんだ」と真剣に取り組んでいる部の雰囲気を「いいなあ」と思っていた時だったから、誘いに乗ったのだろう。

高度な指導に応えた選手

 いざ入ってみると、練習は厳しく、「勝つんだ」というより「負けてはいけない」という雰囲気に満ちていた。既に社会人になっていた細見、西川大先輩が練習を見ることができるようにと、日曜日も練習していた。3年生QBには、フライTフォーメーション考案のきかっけとなった強肩・川上さん、2年生レシーバーには主将の石井(現姓・琴坂)さんがいて、当時の高校としては珍しいパスオフェンス主体のチームであった。

 試合当日、細見、西川さんが部員を教室に集め、その日のオフェンス、ディフェンスのフォーメーションを黒板に書いて細かく指示。キックオフ直前まで、裏庭でタイミング合わせを行い、試合に臨んでいた。後に大学でもフットボールを続けたが、大学のチームでも学ばなかったことを、この時既に教えていただいていた気がする。 当時の部は情熱家の細見監督、戦略家の西川コーチ、そしてプレーする現役より多数の先輩からのグラウンド指導、またお目付け役の伊原先生の存在、と学生スポーツクラブの理想の姿があったのだ、と今になって思う。また、少ない人数で厳しい練習に耐え、高度なプレーをこなした部員もまた運動能力、知的水準ともに素晴らしかった、とも思う。

 夏合宿は東大の駒場グラウンドで行われた。校内の汚い部屋に宿泊。時は安保闘争の最中で、近くの部屋には全学連の学生がザコ寝していた。そんな政治運動とは全く異質な世界で、合宿に来れない西川さんがテープレコーダーに吹き込んだ「孫氏の兵法」などを聴いた。苦しい練習が続き、足のスネが疲労骨折寸前の状態で、足裏の皮膚はベロベロにむけ、寝る前にアルコール消毒したが、翌日の練習でまた薄皮がむけるという繰り返しで、40年たった今でも、魚の目となって当時の勲章として残っている。

 またも主力のけがに泣いた「甲子園」

 期待に応えて入学直後だった60年の春季大会で優勝。秋も快進撃で、見事優勝を果たし、2年連続の甲子園ボウル(この年、甲子園球場が工事中で使えず、西宮球場を使用したため、正式な大会名称は主催新聞社の名前を取って「毎日ボウル」だった)出場をつかみ、1年生ながら田辺とともに遠征に参加した。

 前年の甲子園ボウル大敗の雪辱に燃えていた戸山だったが、大会を前にして2年生の中村侃さんがけがして、私がフライTのウイングバックとしてスタメン出場の栄誉を担った。2年連続の甲子園ボウルも、試合中盤に、負けず嫌いで有名なFBの村田さんが肩を負傷し、涙ながらに退場、0−32で一矢も報えず零封された。初出場時も川上さんが足を骨折して本来の力を発揮できないまま終わっており、選手層の薄さには泣かされた。

QB田辺のけがで関東3連覇ならず

 川上さんの卒業で、エースQBは同期の田辺に託された。フライTはQBに資質がなければ成り立たない作戦であり、川上さんの後、田辺になっても、フライTは継続された。田辺も傑出したQBで、パスQBが連続したのは高校フットボールでは奇跡に近い出来事だったと思う。私たちが2年生になった61年春季も、戸山は正則に108−0など無類の強さを発揮して関東ナンバー1になった。当然、秋の大会にも優勝して3年連続の甲子園ボウルに出場するものだと、私たちは信じていた。

 その年の秋季大会はA、Bの2ブロックに分かれ、Aブロックの戸山は日大一高、慶応高などを一蹴して、ブロック1位を決める西高戦に臨むことになった。ところが、1週間ほど前になって、QB田辺が手首を負傷。チームの前途に暗雲が立ち込めた。監督、コーチが、3年生Gの三島さんをQBに起用。急造QBのフライTが進まなかった場合に備えて、FDフォーメーションを急きょ考案し試合に臨んだ。これは、今で言うショットガン体型に近く、両エンドをタイトにしてダブルウイングをワイドに配し、スナップバックを受けるQBには私が指名された。もちろん私のパスを期待したのではなく、パスと見せかける作戦だった。

 当日の西高戦の詳しい内容はよく覚えていない。ただ、フライTで順調に得点していれば、FDフォーメーションの出番はなかったはずだ。しかし、私はリードされた後半になってFDフォーメーションのQBを任され、追い上げたように記憶する。結果は14−20で敗れ、ブロック代表の座は西高に奪われ、甲子園ボウルは夢と消えた。甲子園ボウルにコマを進めたのは、決勝で西高を降した日大桜丘だった。もし、田辺にけががなかったならば、戸山は確実に甲子園ボウルに出場しただろう。甲子園ボウルの東西高校タッチフットボール王座決定戦は、「全国大会は一つ」という高体連の方針で、この年限りで終了。54年から始まっていたトーナメントの全国高校タッチフットボール大会だけとなった。歴史に「もし」は禁物だが、甲子園ボウルの高校王座は戸山の3年連続出場で終わりを告げたかも知れない。

不戦敗で終わった高校フットボール

 3年生になっても5人残った同期は、当然のように選手として練習、試合に参加するつもりだった。もともと人数は少ないし、3年生抜きでチームは成り立たないのが通例だからだ。付け加えるなら、皆フットボールが大好きだった。私などはフットボールをやるために大学に行くつもりだったので、「引退」の2文字は頭になかった。だが、初出場した甲子園ボウルでの日大桜丘のラフなプレーが物議をかもし、62年の春季大会は日程がなかなか定まらず、関東高校連盟の事務局を退いていた伊原先生は「あんな危険なチームとは一緒に試合をできない」と怒りを隠さなかった。リーグ戦で行われた秋季大会では、西高に敗れ、足立に大勝した後、日大桜丘との対戦が待っていたが、伊原先生はこの試合を棄権。私としては試合をしたかったが、先生の決断に迷いはなく、私たちの高校フットボールは「不戦敗」で幕を閉じた。 (1963年卒、神山 照弘)


試合記録
1960年
2月21日戸山8−6聖学院(練習試合)
4月29日戸山22−6西(春季大会)
5月3日戸山32−14慶応(春季大会)
5月5日戸山24−6聖学院(春季大会決勝)=関東優勝
9月3日戸山72−0正則(秋季大会)
9月18日戸山(不戦勝)早稲田(秋季大会)
10月2日戸山16−6西(学園祭招待試合)
10月30日戸山20−6聖学院(秋季大会)
11月3日戸山44−14日大世田谷(秋季大会決勝)=関東優勝
12月4日戸山0−32関西学院高(高校王座決定戦)
1961年
4月30日戸山108−0正則(春季大会)
5月3日戸山34−0日大桜丘(春季大会)
5月7日戸山78−8日大一高(春季大会決勝)=関東優勝
10月 戸山46−6日大一高(秋季大会)
10月 戸山48−0慶応(秋季大会)
11月5日戸山14−20西(秋季大会)=関東Aブロック2位
1962年
4月21日戸山36−24慶応(春季大会)
戸山76−6日大一高(春季大会)
不明 
10月27日戸山6−20西(秋季大会)
11月10日戸山90−0足立(秋季大会)
11月戸山(不戦敗)日大桜丘(秋季大会)