12期
(1959〜61年度)

甲子園メンバー8人残って
2年秋に関東2連覇達成

3年秋は西高に屈し、3連覇ならず

1962年卒メンバー
(◎は主将)
#82 RE◎石井 延洋
 (現姓・琴坂)
#87 LE 安藤 榮冶
#72 LT 中村 克史
#45 FB 中村 侃
#79 RT 久富 征夫
#35 HB 三島 誠
#58 LG 吉田 克

われわれ1959年入学、62年卒業の同期は、7人。信頼のあるパスキャッチと走りのRE石井(現姓琴坂)、気はやさしくて大きなLT中村克史、大きな身体で馬力のあるRT久富、ヒゲが濃くて一見すごみのあるHB三島、学者タイプで小柄なLG吉田、目玉ぎょろりの小柄なFB中村侃、そして、ひ弱で痩せていた私、LE安藤である。

もう約40年も前の事になる。戸山高校にタッチフットボール部はあっても、一般的には、映画のニュースでアメリカンフットボールを見るくらいなもの。当時の日本において、メジャーなスポーツとは言えなかった。

1年生石井、甲子園ボウルに先発出場

1年生だった59年秋、関東で優勝し、12月に関東代表として甲子園ボウルに念願の初出場を果たし、関西学院高と高校日本一を争い完敗した。この時の甲子園ボウルプログラムに名前が記載されている1年生は、石井、中村克、三島、久富と途中で退部した榊原、斎藤佑、石上の7人。関学高との試合に出場したのは、石井1人だった。私は1年生次、柔道部に所属。大きくて力の強い者に勝てず、むさくるしい屋内スポーツに嫌気が差し、甲子園ボウル出場に刺激を受け、2年生次の春にタッチフットに入部した。吉田、中村侃も、私同様の途中入部だった。

男所帯の汚い部室

放課後の練習は、天候の如何にかかわらず毎日あり、かなりハードだった。風邪で熱があっても練習を休むことは許されず、先輩からは「練習すれば風邪も治る!」と今では考えられないことを言われた。確かにそのころは若かったし、スタミナもあったから、なんとか持ちこたえた。

部室は男所帯で汚く、ほこりだらけ。滅多に練習着を洗濯することもなかった。遠いトイレに行くのが面倒臭く、部室長屋と裏の塀の間にある排水溝で用を足していた。1年上の鹿井さんから「少しはきれいにしろ!」と怒鳴られたことを覚えている。あまりの汚さに部室検査に引っかかり、部活動停止を命じられたが、「これで練習を休める」とほっとしていた。

西川コーチ、孫子の兵法を説く

いつもグランウンドでは、ラグビー、サッカー、野球部などが同時に練習をやっていて、しばしば他の運動部員とぶつかった。試合の前は、日曜日でも練習があり、西川氏、細見氏がコーチとして指導。そのほかの先輩の方々も時々顔を見せてくれた。冬は日が短くなり、暗くなって球が見えなくても勘でパスキャッチするのだと教えられた。

夏季合宿は、東大駒場寮に泊り、グラウンドでの練習は午前の部と午後の部に分かれ1日計6時間。失神する部員も出たほどハードだった。のどの渇きで水分を取り過ぎて食欲は失せ、ご飯にお茶をかけて胃に流し込んだ。当時は練習中に水を飲むことは厳禁、今では身体のためには良くないので行われていないダックウォーク、うさぎ跳びなどを死に物狂いでやった苦しい練習も懐かしい思い出になっている。

そんな中、西川氏は夜間のミーティングで、試合の戦略として、精神論をはじめ、ランチェスターの法則、孫子の兵法などを講義。仕事の都合で来られない時は、テープレコーダーに録音された西川さんの声に耳を傾けた。皆、真剣に聞いていた。

毎日が練習、少数部員なんのその

当然のことながら、練習、練習の毎日で女の子とデートする暇など全くなかった。当時、関東でタッチフットをやっている高校は少なく、戸山高校は部員の数も少なく、ほとんどがスタメンでフル出場という状況だった。だが、華麗なQB川上さん、力強い走りのHB幸村さん、身体に鞭打って走るFB村田さん、無口で低いブロッキングのC鹿井さんら3年生が健在で、関東では無敵だった。この年も夢中で突っ走り、秋季大会で日大桜丘と関東の優勝をかけて対戦。相手を戸山のグラウンドに迎えた私たちは全く負ける気がせず、OB多数も応援に駆けつけてくれた。日大桜丘は部員も戸山よりはるかに多く、真っ赤なジャージーに身を包んでいた。「俺たちは闘牛の牛じゃないぞ!」とぶ然とした気持ちで試合に臨み大勝、大いに感激し自信をつけた。

全国制覇の夢破れて、涙の帰京

12月の甲子園ボウルは甲子園球場が改装のため使用できず、「毎日ボウル」の名称で、甲子園と同じ兵庫県西宮市内にある西宮球場で行われた。2年連続の関西遠征。ネックになっていた経費をどうするかで校内論議が行われた記憶があるが、何とかクリア。前年の甲子園メンバーのうち、3年生、2年生各4人の計8人が残っており、再び関西学院高と対戦することになった。試合前に西川コーチから「全国優勝したらハワイに遠征して試合をやらせてやる」と言われ、勇んで在来線の特急「こだま」で関西に乗り込んだが、夢破れて皆涙したのも懐かしい思い出だ。

われわれの大半は3年生となった61年も、3年連続の甲子園目指してそのまま部活を継続。QBの川上さんら主力の卒業で苦しかったが、春季大会は初戦で正則を108−0という創部以来の大量点の勝利を収めた。続く日大桜丘も一方的に破り、決勝の日大一高戦で70点差をつけ優勝した。

故障者続出、1本差で関東3連覇逃す

皆、すっかり気をよくして、とりつかれたように練習に参加した。東大駒場での夏季合宿は「打倒関学」を合言葉に1週間行われた。A、B2ブロックに分かれた秋季大会は初戦の日大一高に快勝して好スタートを切った。プロレスの力道山の息子がラインにいた第3戦の慶応にも無失点勝利を飾ったが、川上さんの後を継いだQBで主将の田辺が負傷。さらに、Aブロック優勝をかけた西高戦を前にした練習で、FBが負傷。2人の主力を欠いたまま西高戦を迎え、TD1本差で敗れ、3年連続の甲子園ボウル出場は実現できなかった。大学受験そっちのけで打ち込んだフットボールの無情の結果に、涙が落ちた。

若き高校時代にこれだけ皆と一所懸命になり、苦しかったけれどもキャプテン石井のもとに頑張れたのも青春の貴重な1ページだったと思う。戸山高校アメリカンフットボール部の今後の発展と常勝を祈る。 (1962年卒、安藤栄治)


試合記録
1959年
2月22日戸山26−26聖学院(練習試合)
3月11日3年23−01・2年(戸山ボウル)
5月3日戸山(不戦勝)慶応(春季大会)
5月戸山32−0西(春季大会)
5月17日不明(関東決勝)
9月13日戸山40−0正則(秋季大会)
10月不明(秋季大会)
不明(秋季大会)
11月15日戸山12−6聖学院(秋季大会決勝)=関東優勝
12月6日戸山0−52関西学院高(高校王座決定戦)
1960年
2月21日戸山8−6聖学院(練習試合)
4月29日戸山22−6西(春季大会)
5月3日戸山32−14慶応(春季大会)
5月5日戸山24−6聖学院(春季大会決勝)=関東優勝
9月3日戸山72−0正則(秋季大会)
9月18日戸山(不戦勝)早稲田(秋季大会)
10月2日戸山16−6西(学園祭招待試合)
10月30日戸山20−6聖学院(秋季大会)
11月3日戸山44−14日大世田谷(秋季大会決勝)=関東優勝
12月4日戸山0−32関西学院高(高校王座決定戦)
1961年
4月30日戸山108−0正則(春季大会)
5月3日戸山34−0日大桜丘(春季大会)
5月7日戸山78−8日大一高(春季大会決勝)=関東優勝
10月 戸山46−6日大一高(秋季大会)
10月 戸山48−0慶応(秋季大会)
11月5日戸山14−20西(秋季大会)=関東Aブロック2位