11期
(1958〜60年度)

黄金時代到来
2年連続甲子園ボウル出場

関学高には歯が立たず

1961年卒メンバー
(◎は主将)
 加納 貞彦
QB◎川上 洌
HB 幸村千佳良
 小林 正之
 鹿井 恵太
  橋上 昭知
FB 藤本 恭民
 水越 俊彦
FB 村田 豊彦

3年生の熱意は下級生の財産

 私が戸山に入学した1958年のチームは、多数のスタープレーヤーを最上級生に擁し「打倒聖学院・甲子園出場」を合言葉として、非常に強かった。不幸にして他校も強かった上、主軸選手にけが人が出て、涙を飲んだ。しかし、甲子園を目標とした3年生のフットボールへの執着、純粋・ひたむきな熱意は、下級生の大きな財産となった。

 なお私がタッチフットに入部したのは、戸山にいた4歳年上の兄の強い勧めによるものだった。当時"ガチベン校"と言われた戸山で、「まともにクラブ活動している運動部はタッチフットだけ」というのが兄の推薦の言葉。兄はタッチ各氏のひたむきな練習ぶりが気にいっていたのだろうと思う。

 59年、2年生となって「今年こそ甲子園」という夢はますます強いものとなった。だが、甲子園を目指した、その年秋の関東大会は、むしろ淡々とした経緯で進行していた。というのも、スタープレーヤーの卒業生を送り出した後の陣容は明らかに力量不足だったし、それなりに厳しい東大駒場の合宿を経て力を着けて来てはいたものの、殺気だった意気込みというようなものはなかったように思う。

打倒聖学院にフライT導入

 ところが日吉で行われた対慶応戦に14−6で逆転勝利するやいなや、チームを取り巻く環境、選手心理が一気に変わっていった。慶応戦の後の初練習日に、前触れもなく細見監督、西川コーチがやって来て、まだ日が高いうちに練習を中断、われわれを教室に呼び込んだ。そこで指示されたのは、今まで考えてみたことがない斬新な新攻撃体型への変更だった。いわく「フライTフォーメーション」、さらにニュース映画でしかみたことのない「マン・イン・モーション」付きである。しかも、西川コーチによれば、第1ダウン・パス、第2ダウン・パス、第3ダウン・パスとのこと。最新のスプリットT攻撃で甲子園を狙った前年に比べ力不足の当年はもう一度基本に立ち返るということで、地道なウィングTで慶応戦まできた直後だけに、われわれのショックは大きかった。だが、幸いなことに決勝の聖学院戦まで約1カ月あり、つかれたように新攻撃体型習得の毎日が始まった。まるで高級な玩具を与えられた少年のように。その「フライT」は現在のプロTとほとんど変わりなく、当時大学チームでもエンドやレシーバーを攻撃ラインから5ヤード゙以上離した攻撃体型がなかったことを考えると、ただただ驚くばかりである。

裏をかいた決勝TDパスで関東初制覇

 59年11月15日、若干汗ばむほどの陽気の戸山高校グラウンドで聖学院との関東大会決勝が挙行された。いつになくたくさんのOBが取り囲むグラウンドは一種独特の雰囲気に包まれ、われわれ選手は無論のこと、コーチングスタッフの顔も緊張に満ちている中、試合開始のホイッスルが吹かれた。

 戸山最初の攻撃、ハドルが解かれ選手が攻撃体型に散ると、守備の聖学院はもちろん観衆からもどよめきが起こる。最初のうちこそ戸山の新体型攻撃に迷いタイムアウトを繰り返した聖学院もさすが経験豊富、徐々に対応し、一進一退を繰り返して0−0で前半を折り返した。

 後半最初に仕掛けたのは、戸山。川上−湯川のTDパスで先制した。だが、聖学院もスイープで左右のオフタックルを執拗に突いた後、得意のダブルリバースでTD、6−6の同点に追いついた。同点のままラスト4分に入った。同点で終われば優勝はどうなる、とOB連中が言い出したころ、最後と思われる戸山の攻撃で再び川上−湯川のパスが決まって敵陣20ヤードに迫り、聖学院はたまらずタイムアウト。最高潮に達した興奮状態のハドルの中で1年のエンド石井が一言、「マン・イン・モーションは必ずラインプレーだとばれている」と。自分もそれに気がつきながら対応が浮かばなかった川上は、すかさずマン・イン・モーション付きミドルパスをコール、案の定、敵はラインプレーのフェイクに釣られ石井はノーマークとなってエンドゾーンでがっちりと捕球し、12−6で逆転勝利。創部以来初の関東制覇が成った。

 試合終了後の表彰式、憮然としてうなだれる聖学院。興奮の絶頂の戸山だったが、一方OBの心情は複雑だったと思う。「あいつらが甲子園に?」。しかしながら、普段怖いOBが皆一様に笑顔で祝福してくれた。最後の極めつけとなった伊原先生の思わぬ?涙の祝福で1日が終了した。

1959年毎日ボウル
戸山スターティングメンバー
LE湯川QB川上 
LT荒木HB多羅尾
LG佐藤HB幸村
鹿井FB藤本
RG水越  
RT小林  
RE石井  

甲子園ボウル出場でユニホーム新調

 関東大会優勝から12月6日の甲子園ボウルまでの間の記憶はほとんどないに等しく、いかに皆が舞い上がっていたかは想像に難くない。細見、西川両氏のことだから、当然関学対策の伝授などがあったはずだが・…。そうした中で、鮮明に覚えているのはジャージの新調である。それまでわれわれが身につけていたものは、何年、先輩から後輩へと引き継がれてきたものか不明なほど古く、原色が緑であることが辛うじて分かるという代物であった。それでは甲子園でみっともないというので上下新調となり、濃緑のジャージは肩が鮮やかな白抜きでパンツも白、皆本場米国の有名選手の背番号に決めてはしゃいだが、監督・コーチ・OBは金の工面に奔走されたことであろう。

 12月4日、在来線特急こだまで大阪入り、三宮YMCAに宿泊。翌5日は夢に見た甲子園球場で練習、観客席に囲まれた初めての芝生のグラウンドを走るだけで、われわれは完全に上がってしまう田舎者であったと思う。個人的なことで恐縮だが、私は試合前日発熱、注射を打たれ早々に床についた。

エースQB川上、開始5分で負傷

 6日が甲子園ボウル。大学戦前座とはいえ観客席は6分の入り、連勝記録を158にまで伸ばしている無敵・関学高校出雲主将とペナント交換、トスで試合開始。開始5分で私は相手クリッピングを受けて負傷、QBの交代なくそのまま足を引きずったまま継続出場したが、スナップを受けて一、二歩しか動けず、プレーはハンドオフ(ダイブ)とカウンターのみ。たまらず西川コーチはハーフタイムに、シングルウイング攻撃体型を即興で伝授するも完膚なきまで攻め立てられ0−52で敗退した。

 試合後監督・コーチが何と言ったか、全く記憶がない。夜行列車で帰京するまでのわずかな自由時間もけがで動けず、仲間と隔離されていたので彼らの感想も不明。ただ、細見監督が西川コーチに「甲子園ボウルのワースト記録(55年、聖学院0−54関学高)を塗り替えなくてほっとした」と小声で言われていたのを覚えている。夜行列車で悄然と帰京の途につくわれわれを、関学の有志が送りに来てくれたのは印象深かった。

 翌朝東京駅着、病院に直行、単純骨折全治3カ月とのことで、即膝下ギプスの身となった。60年1月27日付戸山高校新聞2面に「関学の底力に完敗」の見出し、「HB多羅尾20ヤード独走、敵前10ヤードに迫る」写真、「試合開始後QB、FBの相次ぐ負傷など本校は勝運に恵まれず、結局大差で敗れた」という記事がある。

下級生の成長で2年連続関東制覇

 60年はE湯川、T荒木、G佐藤、HB多羅尾という前年優勝の原動力となった各位が卒業し戦力ダウンを余儀なくされたが、最上級生C鹿井、G水越、HB幸村、FB村田、QB川上に加え、Eの主将石井を中心にE安藤、T中村克・久富、G吉田・三島、FB中村侃の2年生が顕著な成長をみせ、加えて天才的1年神山が入部、コーチングスタッフも前年に引き続き細見監督、西川ヘッドコーチ、長谷川コーチ、平沢マネージャーなど多彩な顔ぶれで、甲子園出場・打倒関学を目標に春季より順当に全勝街道をばく進した。

 夏季合宿では精神力強化にも重きが置かれ、充実したチーム状態で秋季リーグ戦をこなし、11月3日、決勝では新参ながら大学王者日大の直属付属、日大世田谷高(後の日大桜丘)と全勝同士の対決となった。

 日大世田谷は部員数が多く、大学と同様上下真紅のユニホームでかなり手応えのあるチームだった。試合は日大コーチが審判の判定に不服を唱え、選手をベンチに引き揚げさせて一時騒然としたり、敵主将が戸山キックオフリターン時に戸山の激しいブロックを受け大腿骨を骨折しグラウンドに救急車が入るなど、荒れた展開となった。結果は、戸山が44−14で圧勝し、2年連続の甲子園出場が決まった。決勝終了後、前年同様表彰式があったが前年のような興奮もなく、心は早や甲子園といった心境だったと思う。

1960年毎日ボウル
戸山スターティングメンバー
LE安藤QB川上 
LT久富HB幸村
LG三島HB神山
鹿井FB村田
RG吉田  
RT中村克  
RE石井  

フライT対策練った関学高にまたも苦杯

 12月4日の当日、若干寒々しい曇天であったと記憶するが、入念なる練習を積んだわれわれは再び甲子園(実際にはこの年、甲子園球場が改修のため使えず、西宮球場で開催され、大会名も主催新聞社の名前を取って"毎日ボウル"と呼称した)の土を踏んだ。主将石井が関学中沢主将とペナントを交換、試合が開始されたが、関学高は戸山のフライTに対し重量ラインをWRの前におき、パスキャッチに出るWRをチェックしタイミングを狂わすと同時にその場に残り、戸山得意のオープンランに備える、というディフェンス体型を敷いた。そのため得意のパスとオープンプレーを止められた戸山は苦戦、前半終了時0−26と大差をつけられてしまった。後半は一進一退、特にディフェンスが頑張りロングパスも決まったが、得点には至らず0−32で敗退、2年連続零封という不名誉な結果に終わった。

 試合開始早々負傷しベンチで悔し涙に耐えていた前年とは一転、この年の試合経過は早く、アッという間に試合終了の笛を聞いた印象であった。何ともあっけなく、瞬く間に目標を失いただただ呆然自失の呈であり、失ったものは前年より大きい感じを抱いての帰京となった。

 折りしも関学高は無敵の200連勝を目前としており、選手層、技術、体力いずれをとっても戸山の比ではなく、第三者からみれば当然の結果であったのかもしれない。だが当時の当事者としては何とも不甲斐ない幕切れであったように思う。

 12月24日付戸山高校新聞は、「またまた完敗」の見出しで始まり、「王座決定戦というその場の雰囲気にのまれ、皆あがり気味だった」「戸山が得意とするパスプレーで前半4本TDされた」「後半にはいり落ち着きを取り戻し、互角に戦った」「ロングパスも決め出したが既に遅く大敗した」とある。

 以上、長々と述したのが、わがほろ苦き青春の記録である。

あり難きかな先輩たち

 今になって第一に思う事は、先輩の有難さである。自らの公私を投げ打ってわれわれを指導して下さった監督・コーチの方々、われわれが甲子園行きの切符を得る幸運をもたらしてくれた上級生に改めて感謝の意を表したい。実際、59、60年に2年連続で関東を制覇、甲子園に行けたのは、創部以来厳しい練習を自らに強いてこられた先輩の執念が凝縮し開花したに他ならないのである。

 言い古された言葉だが、「心・技・体」の充実がフットボールには不可欠であることは言を待たぬが、戸山高校はこの三位一体を成し遂げるのに最も適した高校だということを皆お気づきであろうか。というのは多くの高校は「心」「技」の強化が難しく、勢い「体」強化中心のチームになっている一方、戸山の場合、「技」は頭の良さプラス「体」強化の必要性を認識し実行している上、フットボールに必要なチームワーク、モメンタムの重要性に対しても理解が早く、精神面強化と肉体面強化のバランスを重視しているからである。

 現役の諸君には、今から40年も前、諸君よりはるかに厳しい環境で、同じ夢を必死で追い駆けていた先輩がいたこと知ってもらいたい。そしてわれわれが歩んだ道を知ることが、ひょっとして現役諸君のフットボール・ライフの励みになってもらえればと思う次第である。

 余談だが、今から3年前の3月、私は誕生祝と称してビデオテープを受け取った。送り主は関学高校フットボール部OBの小笠原秀宜氏で、私とは1959、60年甲子園で相対決した間柄、社会に出てからまったくの没交渉であったものが、たまたま娘同士が同窓同学年ということで再会したものである。

 そのビデオは60年の甲子園ボウルの数シーンで放映時間は40秒程度、もちろんモノクロの上、16ミリからダビングしたので画像は悪く、選手の判別にも事欠くものであったが、甲子園ボウルのプログラムのコピーまで添えてあった。聞けば単身赴任生活の余暇に製作してくれたとのこと、私は一瞬三十余年前にタイムスリップし大変感激したものである。(1961年卒、川上 洌)


試合記録
1958年
4月20日戸山13−12日大一高(練習試合)
4月27日戸山39−0足立(春季大会)
5月2日戸山6−7慶応(春季大会)
9月21日戸山28−0正則(秋季大会)
9月28日戸山34−6早稲田学院(学園祭招待試合)
 不明(秋季大会)
 不明(秋季大会)
11月2日戸山0−19聖学院(秋季大会決勝)=関東準優勝
1959年
2月22日戸山26−26聖学院(練習試合)
3月11日3年23−01・2年(戸山ボウル)
5月3日戸山(不戦勝)慶応(春季大会)
5月戸山32−0西(春季大会)
5月17日不明(関東決勝)
9月13日戸山40−0正則(秋季大会)
10月不明(秋季大会)
不明(秋季大会)
11月15日戸山12−6聖学院(秋季大会決勝)=関東優勝
12月6日戸山0−52関西学院高(高校王座決定戦)
1960年
2月21日戸山8−6聖学院(練習試合)
4月29日戸山22−6西(春季大会)
5月3日戸山32−14慶応(春季大会)
5月5日戸山24−6聖学院(春季大会決勝)=関東優勝
9月3日戸山72−0正則(秋季大会)
9月18日戸山(不戦勝)早稲田(秋季大会)
10月2日戸山16−6西(学園祭招待試合)
10月30日戸山20−6聖学院(秋季大会)
11月3日戸山44−14日大世田谷(秋季大会決勝)=関東優勝
12月4日戸山0−32関西学院高(高校王座決定戦)